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拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ84

 確実にどこかで見たことがある気がする。それなのに、まったく思い出せないなんて!
 思い出せないことばかりでイライラする。自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回したい衝動にかられてきたものの必死に堪え、イケメン見習いの鷹水さんにペコリと頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくです」
 鷹水さんは本格的な出家をする一月まで、ここに住み込むのだそうだ。てっきり通ってくるのだろうと思い込んでいたので、びっくりして思わず目を丸くする。
 住み込むって……うち、ものすごい貧乏なんだけど、三人分の食費とかもろもろ大丈夫なんだろうか。そんなわたしの懸念を無視するかのように、鷹水さんを連れた父さんは「寺を案内する!」とはりきりだし、居間を出ていこうとした。わたしはそんな父さんの腕をとっさにつかんで引き止める。
「ちょっと、父さん。マジで大丈夫?」
「なにがだ」
 わたしたちのやりとりに気を利かせた鷹水さんは、「先に本堂へ行きます」と穏やかな声で告げ、にっこりと微笑み去った。やっぱり、絶対どこかで見たことある。それなのに、まったくもって思い出せなくて息苦しい!
「なにを心配しているんだ、椿?」
「なにもかも全部だよ。檀家さんの頼みだからって、いままで見習いのお坊さんとか住み込みさせたことないのに、ほんとに大丈夫? それにウチってばめっちゃ貧乏じゃん。光熱費の借金払ったばっかでいっぱいいっぱいなのに、もう一人の食いぶち増えちゃってどーすんのってハナシだよ。マジで不安しかないんだけれど」
「まあ、落ち着け」
 父さんがわたしの肩に手を置いた。いや、わたしは落ち着いているんですけれどもですね、父さんがゆるすぎるって訴えたいんですよ!
「心配するな、椿。野菜はいつものように檀家さんがくれるだろうし、ほかのこともなんとかなる。とにかく、父さんは鷹水さんが気に入った」
 ふう、とまぶたを閉じた父さんは、感無量みたいな声音で続ける。
「本山での修行は本当に厳しいんだぞ。逃亡をはかるお坊さんが毎年必ずあらわれるほどの厳しさだ。満足に眠れないし、食事にもトイレにも作法がある。ひとつでも間違えると殴られもするし蹴られもする。そうして己の内面すらも取り払っていくのが修行だ。鷹水さんはそれを覚悟で出家しようと言うのだ。なかなかに骨のある若者じゃないか。それにな、椿」
 カッと目を見開いて、父さんはぐっとこぶしを握る。
「……うまくすれば、この寺を継いでくれるかもしれない!」
 目的は……それか!? てか、おい、ちょっと待って!
「は!? いや、それ、婿養子的な意味になるじゃん! つうか、まさか、それってつまり……?」
 ふふ、と父さんは笑って背を向ける。
「わかるな、椿。お嫁さんの地位を狙うのだ!」
 はあ? なんですと!?
 煩悩まみれすぎる。寺の住職らしからぬ言葉に呆然とするしかない。そんなわたしを廊下に残し、父さんはほほほほと笑いながら本堂に向かっていったのだった。
「し、信じられない」
 なんでこうなる? なんでこうなった!?
「っていうか、あの邪念をもう少し金策に使って欲しい……切実に!」

 

♨ ♨ ♨

 

 三人で囲む食卓は、気まずかった。いや、そう思ってるのはわたしだけで、父さんと鷹水さんは檀家さんの話で盛りあがっている。明日は一緒に挨拶めぐりをするそうだ。
 ちなみに、本日のメニューも季節感を無視した鍋だ。わたしが〆の雑炊を茶碗に盛ったとき、鷹水さんが言った。
「食事は明日から僕が作りましょう。精進料理などいかがですか?」
「ほう!」
 父さんの目が輝く。鷹水さんの株がまたもや上昇したらしい。
 たしかに、背筋を伸ばしてきちんと正座し、丁寧にご飯を食べる鷹水さんには品がある。すっきりと剃られた頭の形だってなんともきれいだし、なによりお顔が美しい。横から見ても正面から見ても崩れたところがないなんて、奇跡すぎる。まるで、マンガから飛び出したみたいな男子なのだ。
 ……それにしても、絶対見たことあるんだよなあ。
 思い出そうとすればするほど、頭の中がもやもやとした霞がかかったようになる。ものすごいイケメンだから、雑誌で見かけたモデルとかアイドルに似ているのかもしれない。ああ、そっか。たぶんそれだな!
 ちらちらと鷹水さんを盗み見ていると、ふいに目があった。同時に、どっくんと鼓動が高鳴り、慌てて視線をそらす。
 マズい、ヤバい。なんだこれ、この感じ!
 恥ずかしさでいたたまれなくなったものの、もう一度だけそっと盗み見る。すると、うっかり目があってしまった。ダメだ、耐えられない!
「ご、ごちです!」
 箸と茶碗を手にして立つ。まだ残ってるぞと父さんに言われたけれど、かまわずに流し台へそれを置き、逃げるようにして居間を出た。
「あとで洗うから、そこに置いといてください!」
 障子扉を閉めながら言うと、鷹水さんの声がした。
「いえ、いいですよ。僕が洗います」
 しっかし声もイケメンっていうかイケボなんだよなあ。しかも、なんでこんなに懐かしい感じがするんだろ。
「……って、なんだこの感じ」
 廊下で立ち止まり、思わずひとりごちる。
 これはありえない、マジでありえない。ありえないけど認めざるをえない。
 まさかわたし、好きみたくなってる!

 

♨ ♨ ♨

 

 わたしの部屋と廊下を挟んだ真正面の和室が、鷹水さんの部屋になった。これから一月までこの生活が続くのかと思うと、嬉しいような落ち着かないような微妙な気持ちになる。だって、だらけた格好で居間に寝転がったり、風呂上がりにアイスを食べながらテレビを見るのだってままならないし、ぐだぐだのジャージ姿で本堂でマンガを読みふけることもできなくなるからだ。
「この寺で唯一涼しい避暑地を、奪われてしまった」
 避暑地とは、本堂のことだ。それに、お風呂タイムにも無駄な気を使う。
「しかたない。風呂は夜中に入ればいいか」
 不自由だ。せめて鷹水さんがあんな若くなくて、さらにあんなにイケメンじゃなければ、堂々といままでどおり過ごせたかもしれないものを! つっても、わたしはべつにイケメン好きじゃない。男子全般が苦手だし、避けられるものなら避けて人生を終えたかったほどだ。それが信念だったのに、鷹水さんにかぎってはなんでかどーやら違うらしい。
 なんだこれ。どうしたことだ?
 スマホを持っていないので、この事態をカガミちゃんに知らせることもできず、お風呂タイム用に目覚まし時計を深夜にセットし、悶々としたまま布団に潜る。寝返りを繰り返しているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
 深夜、目覚まし時計が鳴った。すぐさま止めて、ぼうっとしたまま着替えを抱えて部屋を出る。やっぱり早朝にシャワーにすればよかったと後悔しつつ、鷹水さんの部屋を横目に見ながらとりあえず浴室に向かった。あの障子の向こうでは、さぞかしきっちりとした体勢で眠っているんだろうなあと想像したら、そっとのぞいてみたい衝動にかられてきた。いかん。いかんよ。これはよくない!
「マジで落ち着け」
 今日来たばっかの男子に対して、わたしの感情が猛烈にスパークしそうになってる。だいたい、鷹水さんの年齢とお姿からして、彼女くらいいるはずだ。
「そうだよ。しかも出家を許すなんて、きっとものすごくできた大人女子に違いない」
 片思いになる前にふられたっぽい感じに、なんか落ち込んできた。ひとり相撲もはなはだしいっていうか、ほんとバカみたいだ。自分に呆れてため息をつき、暗い廊下をひたひたと歩く。浴室は玄関の横にあるので、電気を灯してふと気づいた。玄関にはわたしのローファーと父さんの健康サンダル&革靴しかない。ふと気になって、浴室からもれる明かりを頼りに下駄箱を開けてみる。鷹水さんの下駄はそこにもなかった。
「どっか行った?」
 父さんの健康サンダルをつっかけ、引き戸に手をかける。鍵が開いているということは、やっぱり外にいるっぽい? でも、こんな時間になにしてるんだろ。ジャージにTシャツの格好で外へ出ると、夜空に浮かぶ満月がきれいだった。
 本堂を見るも、人影はない。母屋を左に曲がると、鬱蒼と生い茂った林がある。母屋の壁に沿って歩き、たまに父さんが手入れしている花壇を越えて、おそるおそる裏手にまわった。そこはさすがのわたしも夜はビビる、恐怖のお墓ゾーンだ!
 でも、今夜はおかしなことにあまり怖くない。それどころか「お墓」という単語が、いきなり心にひっかかって離れなくなる。
 うーん、お墓か……。誰かとなにか大事な約束をした気がするんだけど、なんでお墓にまつわる約束なのか意味不明すぎる。
「……わからん」
 きっと、おかしな夢でも見て忘れたんだ。そんなことを考えながら、墓ゾーンに足を踏み入れた。整然と並んだ檀家さんのお墓たちが、ほお青い月明かりに照らされ、てらてらと輝いていた。昼間は和やかさを演出していても、夜はやっぱりホラーなゾーンだ。とっさに視線をそらしたとき、本堂の壁に背を寄せてしゃがみ、ぼうっとした横顔で煙草をくわえた鷹水さんがいた。
 そっか。鷹水さん、煙草吸うんだ。
 鷹水さんがわたしに気づき、こちらを向いた。
「……見つかってしまいました」
 煙をくゆらせながら腰をあげ、わたしに歩み寄ってきた。
「修行の身にあるまじきことです。すみません」
「い、いえ……あの、中で吸ってもいっすよ? 父さんも昔は吸ってたし」
「我慢はできるんです。しかし、どうにも今夜は吸いたくなってしまって」
 短くなった煙草を口から離し、地面に捨てると下駄で潰す。そうして吸い殻を拾った瞬間、鷹水さんはわたしを上目遣いにした。
「もしかして、僕に興味がありますか?」
「えっ」
 背筋を伸ばすと、どこか面白がってるような表情で腕を組む。
「夕食のときだって、ずいぶん僕を見ていた覚えがあるのですが、僕の勘違いでしょうか」
 いいえ。ぐうの音も出ないです。図星すぎる恥ずかしさのあまり、思いきり視線をそらしてうつむいた。
「ま、まあ……」
「煮え切らないですね」
 鷹水さんはわたしをのぞき込み、小さく笑む。
「僕に訊きたいことがあるなら、なんでも答えますよ」
 わたしをのぞき込む鷹水さんの顔がやけに近くなる。間近で見ても、きれいな顔だ。それに、このきれいな瞳で見つめられると、どうしてこんなにも胸があったかくなってくるんだろ。
「ど……っかで見たことあるなって、思ってて。もしかして、どこかで会ったことないですか?」
 鷹水さんがにやっとした。
「それ、僕を誘ってます?」
 はあ? いや、ナンパとかじゃねーですから!
「断じて違います! マジで見たことある気がしてるんですよ!」
 鷹水さんがクスクス笑う。なんでも訊けって言うから正直に告げただけなのに。それがどうして「誘ってる」に変換されるのだ? 
 もしかしてこの人、真面目で上品な男子を扮ってるだけで、本性は遊び人または女子好きだったりして?
 だとしたら、マジでそれはない! 百年の恋も冷める……どころか、むしろさらに気になるとかどういうことなのさ!
 うわあ、わたし狂った。頭のどっかのネジ、ほんとに絶対狂ったかはずれて落ちたに決まってる。
「……なんでもないです、忘れてください。あと、家の寺も父さんもゆるいので、本山に行くまでの間はいろいろ自由にしてください。本山、父さんも言ってたけどめちゃくちゃ大変っぽいんで」
 うつむきながら片手を上げ、くるんときびすを返す。すると、「わかってます」と鷹水さんは言った。肩越しに振り向くと、鷹水さんはお墓を見ていた。突如、木々の枝葉がざわざわとうねり、強い風が吹き抜けた。やがて静まった後、遠い目をした鷹水さんは、静かにささやいた。
「地獄を知ってますから、この世のことはなんだって耐えられます

 

♨ ♨ ♨

 

 なにかが思い出せそうなのに、やっぱり思い出せない。そんなことばかりすぎて疲れてきた。
 翌朝、ジョギングをサボって布団から這い出て、洗面所へ行くため廊下に立つと、本堂から父さんの読経が聞こえた。鷹水さんも一緒のはずだ。顔を洗って制服に着替え、居間の障子扉を開ける。お弁当とわたしの分のご飯が用意されてあった。
 なんだろう。こういうのも、なんでか覚えがあるんだよなあ。もっとも、毎朝父さんが用意してくれていたので、あたりまえと言えばあたりまえなんだけれども、そうじゃなくて全然違う人にしてもらったことがある気がしてならない。
「……ならないんだけれども、どうせ思い出せないからとりあえず食べよう」
 気になるっちゃ気になるんだけど、つっこんで考えたところで疲労が増すだけだし、大事なことならそのうち思い出すだろうから、無視する方向でいくことにした。だって、きりがなさすぎるから!
「つか、ヤバ。遅刻する!」
 のんきに考え込んで、ご飯を食べている場合じゃなかった。次のバスに乗れなければ、完全に遅刻だ。慌てて食器をざっくり洗い、カバンを抱えてローファーを履き、外に出た。ここからバス停までは、全速力で坂をくだらなければならない。
 鼻息を荒くしながら、境内をつっきっていたときだ。
 坂道を駆けおりていく衣心に出くわしてしまった。とっさに立ち止まると、衣心もぴたりと足を止めた。ってか、立ち止まるな。順調に駆けおりていいんですよ!
「おまえも遅刻組?」
 今日も最高にチャラついてるうえ、笑顔が無駄に眩しくて腹立たしい。
「来いよ。一緒に走ってやる」
 なぜ、手を差し出す? そしてなぜ、上から目線?
「いえ、全力で遠慮します」
 無表情で拒否った直後、玄関から名前を呼ばれた。振り返ると、下駄をつっかけた鷹水さんが、巾着に包まれた弁当箱を抱えて駆け寄った。
「お弁当、忘れてます」
 そうだった!
「あっ、すみません。慌てて、すっかり忘れてました!」
 どうぞとお弁当箱を差し出す鷹水さんが、衣心を視界に入れる。瞬間、いっさいの笑みを消し去った。衣心も険しい顔つきで、鷹水さんを睨みすえる。
「山内。こいつ誰だよ」
 鷹水さんの表情が、世にもおそろしい般若顔に変わっていく。と、わたしの空耳でなければ、誰にも聞こえないような声でたしかにこうささやいたのだった。
 ――そっくりじゃねえか。

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