拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ83
――山内椿って、最近おとなしいらしいぞ?
――らしいな。みんな噂してるわ。
校門をくぐったとたん、男子たちがわたしを盗み見ながら話している声が聞こえてきた。
いつもであれば怪獣のように威嚇しているはずが、今朝はなぜだかどうでもいい。好きに言えばいいよと寛大な気持ちになれている自分が、われながら不気味だ。
いまからほぼ一週間前の早朝、なぜか林の中にいたのだった。
部屋で眠っていたはずなのに、どうしてあんな場所に突っ立っていたのか、いまも全然思い出せない。毎朝ジョギングしていた身として、あの林にいたのはそのせいだと考えることもできるけど、その最中の記憶がまったくないから困るのだ。
それに、なんで裸足だった? スニーカーはどうした、わたし!?
なによりびっくりさせられたのは、自分の髪がおかっぱの長さになっていたことだ。いったいいつ髪を切った?
しっかり握りしめていた物体も謎すぎた。くすんだ灰色のネクタイと、着物の袖をちぎった紐みたいなもの。きわめつけが、口の中から吐き出した傘の飾りのついたネクタイピンだ。
オカルトにもほどがある物なのだから、さっさと捨ててしまえばいい。そう思うのにどうしても捨てられず、なんとなく大事にしたほうがいいような気がして、ポーチに入れて毎日お守りみたいに持ち歩いている。ほんと、どうかしてるとしか言えない。
さらにあの朝、呆然としたまま自宅に戻ると、境内を掃いていた父さんにおかしなことを言われたのだ。
「椿。仏壇にあげていた筆なんだが、どこにいったか知らないか?」
「……筆?」
ちなみに父さんは、娘の髪の長さに気づくような繊細な感性の持ち主じゃない。だから、早朝裸足で戻ったわたしに対しては、新しいトレーニングかなにかをはじめたんだろうと思ったらしく、不審な点をすべて完全スルーしていた。
「筆ってなに?」
「ほれ。おまえがなにやら応募して、立派な筆が送られてきただろう? あれだ」
……どれだ?
首を傾げると、苦笑した父さんは冗談交じりに言った。
「まあ、立派な筆だったし、あのような筆軸の彫り物からして、もしかすると閻魔さまの筆だったのかもしれないな。だとすれば、夜中にこっそりあちらの方々が盗っていったか……なんてな、ははは!」
一人でなにやら楽しそうだ。そんな父さんの言う筆についても、さっぱり思い出せないでいる。
とにかく、記憶の飛び方が尋常じゃないのだ。そのうちに思い出すだろうと自分に言い聞かせていたものの、すでに一週間が過ぎている。それなのに。
「……わ、わからない……」
ため息をつきながら廊下を歩いていると、いつものごとく教室のドアの前で、女子とたわむれている男子が視界に飛び込む。憎き宿敵、金持ち光竜寺の次男、自称イケメンの村井衣心だ。
謎に満ちた一週間前のあの日から、こいつの顔を見るたびに、なぜか身震いするほどの嫌悪感に襲われるようになってしまった。それまではげんなり顔でスルーできたはずなのに、いまでは視界に入ったとたん、背筋に悪寒すら走ってしまう。
衣心とうっかり目が合ったので、速攻で避ける。ああ……なんだろう、この幽霊に出くわしたみたいなおぞましさは!
「……ちょっとすんませんね、村井さんとお嬢さんたち。通りますんで」
集団から顔をそむけて避けながら、猫背になって教室に入る。先週まではドアの前に陣取る女子集団と衣心を罵倒しつつ、ふんぞり返って入っていたのに、いまじゃずっとこんな調子だ。
男子たちが噂をするとおり、あきらかにわたしはおかしい。その自覚はある。
「山内」
衣心に呼び止められ、思わず肩を上下させた。
「おまえ、今週おとなしいじゃん、どーした?」
一瞥すると、女子に囲まれた衣心はにやけた顔でわたしを見ている。先週は、こいつにキスをされた。斜め上からの新手の攻撃に、まだ耐性ができていない。それプラス、いろんな不気味さが入り乱れていて、とにかく避けたい感情が先立つ。とにかく頼むからこっち見んな、話しかけんな!
「……まあ……ですよね。じゃ!」
逃げるようにして横を過ぎ、自分の席に落ち着く。そうして机に突っ伏した。
もしかしてわたし、なにかよくない病気とかだったりして……?
「おーい、椿。生きてるか~?」
うしろの席のカガミちゃんが、つんつんと背中をつついてきた。
「あんたマジでどーしたの。月曜からめっちゃヘンだよ?」
そのとおりですよ……。
「なんか悩みとかあるなら言ってよ? わたしら集団でつるむの苦手だし、このクラスでほぼふたりぼっちなんだから、支えあってかないとじゃん?」
泣ける! ガバッと机から起きあがったわたしは、カガミちゃんを振り返った。
「カガミじゃん、マジで神……ってか仏さまだよ!」
「さすが寺の娘、言いなおしたな」
カガミちゃんに苦笑された。そのとき、ふと思う。
抜け落ちてる記憶について、カガミちゃんに相談してみてもいいのでは? ついでに、絶賛持参中のオカルトな物体についても、アドバイスを求めるのは悪くない。そうだよ、それいいかも。そうとなったら、いっそのこと!
「久々、カガミちゃん家に泊まりに行ってもいっすか?」
じっくり語るべきだ。っていうか、語らせてください!
「おー、いいよいいよ! ママ喜ぶわ! 明日金曜だから、お泊りセット持って登校しなよ。一緒に帰ろ!」
やった、楽しみ! と興奮しそうになった矢先、用事があったことを思い出した。
「あああ……忘れてた。今週末はダメなんだった。来週でもいい?」
「全然いいけど、寺系の行事とかでなんかあんの?」
「鋭いね、カガミちゃん」
カガミちゃんがニヤッとする。
「あんたの友達だかんね。なんの行事?」
「行事っつーか、昨日いきなり父さんに言われたんだけど、週末からお坊さんの見習いが来ることになったっぽい。本山に修行に行く前に、父さんが基礎的なことを教えたりするんだってさ。わたしとしてはウチのお寺でいいのかなって、若干不安ではあるんだけれども……」
っていうか、その見習いさん的にも父さんでいいのか?
「とりあえずあちこち整理したり掃除したりして、父さんを手伝わないとなんだ」
「そっか、お寺はなにかと大変だ。で、その見習いってどんな人?」
「檀家さんの知り合いだって。お坊さんになりたいんだけど、そういうのってどっかのお寺の紹介とかじゃないと本山で修行できなかったりするから、いったんウチのお寺の世話になるのがいいんじゃないかみたいなことになったっぽい」
お泊り会は来週にしようとカガミちゃんが言ったところで、チャイムが鳴る。衣心と取り巻きの女子たちが教室に入ってきたとたん、またもや衣心と目が合った。もちろん、速攻で避けた。
ああ……ダメだ。意味不明な悪寒に襲われるせいで、マジで衣心を直視できない!
♨ ♨ ♨
陸上部員のカガミちゃんと別れた放課後、玄関まで歩いていると、
「山内」
恐怖の声に呼び止められた。おそるおそる振り返ると案の定、Tシャツにジャージ姿のサッカー部員、衣心が立っている。
「おまえ、なんで俺のこと避けんの?」
そう言った衣心は、なぜか勝ち誇ったように笑んだ。理由はどうあれ、視界に入れたくないからですよ!
「避けてるって言うか……関わりたくないって言うか……。ってことで、じゃ!」
さっさとその場から逃げようとしてきびすを返すと、うしろから腕をつかまれた。
「うおっ、なになに、なんなのさ!」
「おまえさ」
衣心はわたしの腕をつかんだまま顔を近づけ、さも嬉しそうに笑った。
「俺のこと意識してんだろ」
「はあ? はあああ?」
いつどこで、誰がなにをしてそうなった!? ってか、顔近い! しかもここ廊下だし、みんな見てるし!
「なんだそれ!?」
「俺がキスしてからさ、おまえ今週ずっと俺を避けてんじゃん? 髪も切ってかわいいみたくなってるし、意識しまくってんだろ。隠すなよ」
人間って、ほんとに奥深いな。解釈ひとつで、こんなにもおかしなことになるなんて。怒りと恐怖をとおりこし、なぜかものすごく覚めて冷静になってきた。
「……仏さまに誓うけど、それだけは百パーない」
真顔のわたしに、衣心は「照れんなって」と言った。
ポジティブ思考にもほどがある。そういえば、こいつは昔からこういうやつだった。自己肯定感マックスなこいつが、わたしの訴えなんか聞き入れてくれるわけがない。逃げるしか術はなさそうだ。
わたしの手をつかむ衣心の腕をチョップすると、力がゆるむ。そのすきに身体をひねり、衣心のみぞおちに軽い蹴りを入れた。とたんに衣心はうめき声をあげ、みぞおちを手でおさえる。わたしはめでたく逃亡できた。
「――山内、俺が好きなんだろ、みとめろよ!」
恨み節が背後でこだまする。わたしは玄関めがけて走りながら、
「あるかボケ! あんたのその無駄なポジティブ思考、マジでなんの役にもたってないからね!」
振り返ることなく、叫んだのだった。
♨ ♨ ♨
「……うおお……いやだいやだ、なんでそーなる? なぜにそーなる!?」
バスをおりて坂をのぼりながら、頭を抱えた。あきらかに自分を避けている女子に対して、「好きだから恥ずかしくて避けてるんだ!」と思える思考回路が心底理解できない。むしろそのおめでたさが、なんだか羨ましくさえある。
「あいつ、人生楽しいだろうな……」
げっそり顔で坂をのぼりながら、ひとりごちる。ヤツのことを考えていたら、悟りを開けそうな気がしてきた。それはそれとしても、だ。
「なんかあのしつこいポジティブキャラ、衣心以外にもいたような気がする……」
でも、これまたまったく思い出せない。
ため息をつき、空をあおぎ見る。紺碧の空にもくもくと雲が浮かび、新緑の林から夏を謳歌する虫の声がこだましていた。
「考えてもわからないことは、考えないようにしよう。そんで、とにかくヤツは避ける。それしかない……」
声に出して自分に言い聞かせながら、自宅兼寺の境内に入った。母屋の玄関の引き戸を開けると、父さんの革靴の横に、見たことのない黒い鼻緒の下駄が揃えてあった。こんな粋な履物を好む檀家さんはいないので、お坊さん見習いの人だなと直感した。でも、来るのは日曜日じゃなかったっけ?
「早いな」
よっぽど修行したいらしい。それとも日にちを間違えたとか? どっちにしても、挨拶したほうがいいんだろうか。迷いながら廊下を歩いていると居間の障子扉が開き、父さんが顔を出す。
「おお、椿。ちょっと来なさい」
はいはい、挨拶ですね。
開けられた障子から居間をのぞくと、湯飲み茶碗の置かれたちゃぶ台を前にして、正座している人物がいた。年齢は二十歳そこそこで、どことなく洋風な顔立ち。藍染めの作務衣スタイルに、すっきりとした剃髪がよく似合う、超ド級のイケメン男子だった。
え、意外。お坊さんになんかならなくたって、ほかにいくらでも仕事ありそう。なんならモデルとか、そっち系でもいけそうなのに。
障子扉を開け放った父さんが、イケメンに向きなおる。
「娘の椿です」
そう言った父さんは、廊下で仁王立ちしているわたしを振り返る。
「椿、こちらは檀家の岡崎さんの知人の甥っ子さんの、杉鷹水(おうすい)さんだ」
関係性が近いようで遠いな。まあ、なんでもいいのだけれども。
「あの、椿です。よろしくお願いします」
「はじめまして」
鷹水さんが言う。読経の声はさぞかし美しいだろうと想像できる、透き通るような低音だった。
「杉(すぎ)鷹水と申します。しばらくお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
ていねいに深く頭を下げ、わたしを見ると微笑んだ。その表情を目にした瞬間、なぜか思った。
――なんか、どっかで見たことある顔だなあ。