玖ノ章
サクラ散ル、サクラ咲ク
其ノ82
察しのいい雨市は、わたしがなにをするつもりなのか悟ったらしい。
わたしにつかまれていた手を振り払い、怒り顔を近づけた。
「……おまえ、なにを言ってんのかわかってんのか?」
「わ、わかってるよ!」
雨市の険しい眼差しが、さらに近づく。
「おまえの気持ちは全部受け止めてやりてえさ。俺だってそうしてえよ。でもな、これだけはダメだ、絶対にダメだ。おまえはおまえの人生をまっとうしろ!」
雨市も苦しいのだ。もしも自分が魔物になれば、娑婆に戻ったわたしの人生の邪魔になると思っているに違いない。これがもしもの夢物語であれば、テキトーな相づちで片付けられる。でも、現実となれば迷うのは当然だ。もちろん、わたしだって怖い。雨市の人生をめちゃくちゃにしてしまうんじゃないかって、そんな恐怖心でいっぱいだ。
でも、わたしはこうしたい。あとの判断は、雨市にゆだねたい。だって、もう、こうすることしかできないから。
「わかってねえな。なあ、椿。人間の気持ちなんざ変わるもんなんだぞ。そんときになって後悔したって、全部遅せえんだぞ」
切なげに顔をゆがめ、雨市は声を荒らげた。
「わたしは変わらないよ!」
雨市は息をのみ、目を見張った。
「ほかの人がどうかわかんないけど、わたしは頑固なんだよ。雨市以上の男子なんかいるわけないじゃん! 職業はちょっとアレだけど、雨市のいいとこいっぱい知ってるし。どうするかは雨市にまかせるから、せめていまはわたしにこうさせて!」
初江王の「早くしてくださあああああーーい!」という声が、吊り橋からこだました。もう時間がない。
「わたしは頭よくないけど、自分のことは自分で決めるよ。誰かに言われたからとかじゃなくて、自分がこうしたいからしてるだけだからね」
わがままでも、エゴでもしかたない。生涯で最後かもしれないってつきつけられたら、なりふりなんてかまっていられなくなるんだ。
びっくりしたような顔で、わたしを見つめる雨市の右手をもう一度つかむ。でも、雨市はすぐにその手を引こうとした――矢先。雨市の背後に立っていた竹蔵が、いきなり雨市の首に腕をからめて短刀をつきつけ、ドスのきいた声を張り上げたのだ。
「この野郎。この期におよんでなにを迷ってやがんだい。最後の最後までかっこつけやがって反吐が出る。てめえの女の心意気を、無下にするもんじゃねえぞ、ごら!」
短刀が、雨市の首にかすかに食い込む。もう死んでんぞと雨市が言うと、竹蔵はにやりと笑った。
「そうかい、じゃあ、あんたの首にこいつを刺してどうなるか、試してみるのも一興だ。なにしろちゃんと試したことがないからね。椿!」
わたしを見る。
「いまだよ、思う存分やりやがれ!」
問題のありすぎる場面だけれど、せっかくなので実行させていただきます!
こちらを急き立てる初江王の絶叫をBGMに、雨市の手を引き寄せる。首に短刀をつきつけられた雨市は、それでも引こうと踏ん張る。これじゃまるで綱引きだ。
「ダメだ、やめろ椿。おまえの人生を壊したくねえ。おまえが好きだから壊したくねえんだ!」
「こ、壊れるか壊れないかは、雨市じゃなくてわたしの決めることだよ!」
俺は死んでんだと、諭すような声を雨市はもらした。
わかってる。そしてわたしは生きている。どうすることもできない溝を埋めるのは、簡単じゃない。簡単じゃなくても、わたしは賭けてみたいだけだ。
「命を賭けるほどの相手には、なかなか出会えないことでございますよ」
すっと横に立ったハシさんが、おもむろに雨市の腕を取った。
「相手を思いやるがうえ、難しく考えるのは雨市さんの悪い癖でございます。お気持ちはわかりますが、いまはいましかございません」
ハシさんが雨市の腕を両手でつかみ、引いた。
「わたくし、椿さんに加勢させていただきます!」
ハシさんの力が加わって、やっと雨市の手がわたしの胸にあたる。軽く握られたその右手が、わたしの波打つ心臓に押しあてられた瞬間、背骨がねじれるような痛みが身体に走った。ぐっと歯を食いしばってこらえ、まぶたを閉じる。同時に、初江王の声も雨市の声も、なにもかもが遠のいていった。
まぶたの裏側は闇だ。すると脳裏に、おぼろげな人影が浮かぶ。
暗闇の中でうつむいている輪郭が、少しずつはっきりしていく。それは子どもだ。小さな男の子で、両手で目をこすりながら、泣いていた。
輪郭が浮き上がるにつれ、男の子が顔を上げた。みすぼらしい着物に汚れた裸足。頭は丸坊主で、顔は泥にまみれている。でも、端正な顔立ちと意志の強そうな瞳は、大人になっても変わらない。
子どもの雨市は、ぐいと涙を乱暴にぬぐうと、はっきりとこちらを見ていった。
── 俺と一緒にいてくれる?
もちろんわたしは、声には出さずに心の中で答えた。
── 一緒にいるよ。大丈夫。
直後、ズシンと身体が地の底へ堕ちるような感覚におそわれた。びっくりしてまぶたを開けると、いましも雨市の手がわたしの肉体から離れる寸前だ。ガチでホラーなシーンを直視して、一瞬気を失いそうになったもののなんとか耐える。
女官の制服を突き抜けた雨市の手首が、ゆるゆると引かれていくごとに、身体が軽くなっていくのがわかった。もう背骨に痛みはない。そして、炎に包まれた卵状の物体が、雨市の手にしっかりとつかまれているのを、わたしは見た。
あれがわたしの――命の半分。
手のひらの物体に視線を落としてから、雨市はゆっくりと顔を上げた。怒りたいのか、哀しいのか、喜びたいのか、自分の感情を探るような目つきでなにも言わず、ただわたしを見つめている。直後、どーん、という銅鑼の音が空をおおった。
「早くしてください! もう夜明けです!!」
初江王が声をかぎりに叫ぶ。雨市はまだ、物体を手にしたままだ。それをどうするのかは、雨市次第。だから、見とどけることなくこの場を去ろう。
「ハシさんも竹蔵も、ありがとう!」
ハシさんはにっこりした。短刀をおさめた竹蔵はにやっとしただけで、なにも言わない。最後にわたしは、雨市に近づいてちょっとだけ背伸びし、頬に唇を寄せた。このちゅーには、一緒にいるよという自分なりの気持ちを込めたつもりだ。
雨市の目も眉も鼻も口も、なにもかもを記憶に刻むように見つめてからしりぞく。そうしてきびすを返し、いっきに駆け出した。
吊り橋を渡り、手を振っている初江王めがけて走っていると、いきなり竹蔵の声がした。
「墓に供える団子、忘れんじゃないよ!」
ちょっと笑う。わかってるってば!
「では、わたくしはぬか漬けで!」
ハシさんも便乗したみたいだ。雨市の声はない。なくてもわかってるよ、煙草だ。
雨市の気持ちは、あの満開の桜でじゅうぶん伝わっている。走りながら、なんとなく思う。きっと雨市は、魔物にはならないだろう。それが雨市の選んだことなら、それでいい。
それでいいのだ。
目頭が熱くなり、視界がぼやける。前方にいる初江王の姿がぼんやりとにじみ、涙をぬぐった。
「さあ、急いでください!」
橋の真ん中で待っていてくれた初江王は、わたしの横に並ぶと、正面にある城門の扉めがけて歩を進めた。
「夜が明けてしまったようです。ですので、これからわたくしがご説明することを、必ず守ってください」
「はい」
小走りになった初江王が続ける。
「扉の向こうへ入ったら、絶対になにがあっても、けっして振り返ってはなりません」
「えっ」
「一度でも振り返ったら最後、わたくしがあなたのために開いた出口は闇に包まれ、二度とどこへも出られない迷路の中をさまようことになります。そうなれば誰も、あなたを助けることはできません。夜の明けてしまったいまとなると、悪しきたましいどもがあなたの邪魔をいたします。あなたがよく知っている方の声であなたの名前を呼んだり、髪を引っ張ったりするでしょう。けれど、絶対に振り返ってはなりません。まっすぐ光に向かって走ってください。よろしいですね!?」
「わかりました!」
閉じられた城門の扉から、少し離れた場所で初江王は止まった。仁王立ちとなって両手の指をからめ、なにやら唱えてから大きく両手を広げる。すると、扉はギリギリときしむ音をたてながら、ゆっくりと左右に開いた。
「ここより先は、わたくしも行けません。ですが、多少は加勢いたしましょう」
腕を広げたまま、初江王が言った。
「――さらば。人間界の娘どの!」
そう言われた瞬間、目に見えない何者かに胸ぐらを引っ張られたようになり、いっきに扉めがけて吸い込まれる。振り返ることもできないまま、深い闇の中へ足を踏み入れたとたん、背後の扉が閉ざされた。
遠くに、小さな光がある。
「振り返るな。振り返ったらダメだ」
つぶやきながら、一歩二歩と前に進む。そして、わたしは走る。思いきり、走った。
どんなに走っても、光の粒は大きくならない。息をきらしながら、それでもまっすぐに走り続けていると「椿」と背後で呼ばれた。
――椿。
それは、雨市の声だった。思わず立ち止まって振り返りたい衝動にかられる。
もっとたくさんしゃべるべきだったんじゃないのか、もっとなにか伝えることがあったんじゃないのか、たくさんの後悔におそわれたけれど、唇を噛みしめてまた走る。すると今度は、竹蔵の声で呼ばれた。ハシさんの声もする。やがて闇のあちこちから、わたしの名前を呼ぶ声ががんがんと鳴り響いた。
「ああ……くっそ、くっそう、嘘つきめ!」
くいっと髪を引っ張られた。その瞬間、はっとする。走りながらうなじに触れると、女官になるためのイリュージョンで伸ばした髪が、リリィさんに切ってもらった髪の長さに戻っていたのだ。さらに、自分の衣服にも違和感を覚えた。
「あれ? え?」
なにしろ真っ暗だから、自分の格好すら見えない。でも、走りにくかった女官の制服じゃない。この動きやすさは、絶対ジャージだ。でも?
「袖が長いから、上は女官の制服のままっぽい?」
もしかして、消えてる? あそこでのなにもかもが、この通路の中ですべて消えてしまうのかもしれない。
「って、それヤバいじゃん!」
すぐさまジャージに手を突っ込み、カボチャパンツを確認した。これはまだ履いててよかった! 肌見放さず持ち歩くために引っ掛けていた雨市のネクタイピンを、とっさに握りしめる。
「消してたまるか!」
ネクタイピンを袖でぬぐい、口に入れる。ハシさんのネクタイと布でまとめた竹蔵の髪は、ぎゅっとしっかりと右手に握る。そうしてふたたび走り出すと、またもや嘘の雨市の声が耳をかすめた。
「んがーーー! うるひゃい!!」
騙されるか。暗すぎてものすごく怖いけど、そのぶん亡者的な姿が見えないのは助かった。とにかくいろいろ考えるのはあとだ。いまはいっきに走りきれ!
――椿、おいで。
それは、母さんの声だった。でも、わたしは止まらない。だって、見たもの。ヤマどのの寝殿の水桶で、母さんに会えたもん。あれが母さんの姿だ。わたしは母さんにちゃんと会ったんだ。だから、この声も嘘だ!
光が親指の爪ほどになる。前だけを向いて走れば走るほど、身体が軽くなっていった。軽くなったのは、上の服もTシャツに変わったからだ。
裸足で軽やかに闇を抜け、ぐんぐんと間近になる光だけを見て、全速力で駆け続けた。
背中を叩かれる。ジャージの裾を引っ張られる。自分の名前を呼ぶさまざまな声が、幾重にもなってこだまする。でも、わたしはけっして振り返らずに走った。
あと少し、もうすぐだ。もうすぐで――。
「――あ」
光から出て視界に広がったのは、林だ。
朝露に湿った草が、足の裏を濡らす。枝葉が朝の光を受けて、きらきらと輝いていた。遠くで、カラスの声がする。土のにおいに包まれながらうしろを見ると、たくましく根をはる大木の幹だった。
ずいぶん古めかしい色合いの布の固まりを、右手に握っていた。口の中にあった異物を左手に吐き出すと、遠い年月を経たかのように錆びた、傘の飾りのネクタイピンだ。
日射しを受けたそれが、にぶく光った。
「……えっ。なに、これ」