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玖ノ章

サクラ散ル、サクラ咲ク

其ノ78

 雨市の手にした筆が描いた桜は暴風と雨をもろともせず、天にとどくほどの巨木と化していく。小さなつぼみは次々と開き、ごうっとうねる強風にその花びらを散らしていった。
 中庭が、たった一本の桜の枝葉に埋もれはじめる。雪のように舞う桜の花びらに、雨を降らせる空が隠れて見なくなる。それまでわたしを羽交い締めにしていたヤマどのの腕がゆるんだ。振り返ると、ヤマどのは呆気にとられた顔で桜を見上げていた。やがて、わたしとヤマどのの間にも枝葉がのびてくる。そのすきに、わたしはヤマどのから離れた。
 まだ止まらない。まるで、開花する桜を早送りの映像で見てるみたいだ。どこまでもどこまでも、雨市の持つ筆から放たれた桜は、命を宿した美しい怪物のように自ら成長し続ける。腰をぬかしそうになったとき、筆を持ったまま呆然としている雨市が枝葉のすき間から見えた。
「うっ……!」
 雨市の名前を叫ぼうとした矢先、うしろからぐいと腕を引っ張られて飛び上がる。わたしの腕を引っ張ったのは、竹蔵だった。
「たた、竹蔵!?」
「こりゃまたすんごいもん出しちまってんねえ。なにがどうなってこんなことになってんのか知りたいけど話はあとだ。逃げるよ椿。初江王を見つけた」
「えっ」
「すぐに娑婆までの通り道を開いてくれるとさ。あんたが名前を書いた女官の書面はハシさんが持ってる。娑婆に戻るならいましかない。来な」
 竹蔵はわたしを引っ張り、屋根からぶら下がっている縄を差し出しながら「握りな」と言う。
「ほら、こいつで屋根に上がるよ」
「で、でも、雨市がまだ」
 まだ中庭にいて、筆が描く桜の巨木から見え隠れしている。でも、そのせいでわたしと竹蔵に気づいている様子はない。振り返るわたしのあごをつかんだ竹蔵は、ぐいと強引に自分へ向けさせた。
「いまさら長々と別れの挨拶かい? こういうときはいきおいつけて、感傷に浸らないまま去るのが互いのためだ。あいつはあいつでなんとかするさ。それにどのみちアタシらは、この宮殿から出られない。でも、あんたは娑婆に戻るんだ。ハシさんと初江王が門の前で待ってる、いいからこの屋根に上がりな!」
 竹蔵の声に、ヤマどのが気づいた。
「誰じゃ!? くそう、桜が邪魔で見えぬわ!」
「早くしなっ」
 竹蔵に急かされて縄を握る。雨と風にあおられながら屋根に上がろうとしたものの、いまだ成長を続ける桜の枝葉に邪魔をされてうまくいかない。
「まったく!」
 枝にしがみついた竹蔵が、先に屋根に上がる。
「ほら、アタシの手をつかみな!」
 ふたたび振り返ると、雨市の姿は淡い色の花びらにすっかりおおわれ、見えなくなっていた。
「で、でも……っ!」
「早くしな!」
 このまま戻るなんて嫌だけど、躊躇している場合じゃない。バキバキと枝を折る音に気づいた瞬間、般若のような形相のヤマどのがあらわれてしまったからだ。
「貴様ら……!!」
 直後、中庭に通じる扉の開く。とたんに騒々しい気配がなだれ込んできた。
「なんだこれは!?」
「ど、どうなっているのだ!」
 戸惑う人たちの声に、ヤマどのの怒号が重なる。急がないと!
 意を決して竹蔵の手をつかみ、屋根の上に上がった。
「追いかけるのじゃ!」
 ヤマどのの叫び声がこだました。わたしの手を握った竹蔵は、屋根の上をひたすら走る。
「振り返るんじゃないよ。転んで落っこっちまうからね!」
 もしかして、このまま雨市とはお別れなのか? まさかこんなふうに「さよなら」も言えないまま、娑婆に戻らなくちゃいけないのか!?
「ちょっ! で、でも、なんでいきなりいまなの!?」
「雨市が言ってたのさ。初江王はどこかに行っちまってるんじゃない。極卒の格好で、ずっとこの宮殿の中をうろついてたんじゃないかってさ」
「えっ? 極卒の格好!?」
「ここにいる極卒が立ってる場所っていやあ、門かあの牢だ。ハイコウとかいうちびっこいのに自分の役目を渡したふりをして、ハシさんが書面を盗むのを待ってたとすれば? なにしろ女官のいる場所は男子禁制だろう。初江王にはどうすることもできなかったんだろうさ」
 女官ゾーンの廻廊部分にあたる屋根の上で、竹蔵が足を止める。一瞬振り返ると、桜はまだ伸び続けていて、ヤマどのの寝殿の屋根からすっかりはみ出していた。刹那、闇夜がパッと光る。間をおいて、遠くの空に稲妻が走った。
「あんたがあの寝殿にいる間、アタシと雨市は極卒の格好をしてるやつらの面を片っ端からはいでいった。そのうちに嵐が起きたもんだから、雨市はあんたのところへすっ飛んで行っちまって、代わりにアタシがはぎまくってたのさ。で、いたさ。光明院の外の門の前に、極卒の格好で金棒持って立っていやがった。案の定、アタシたちが牢にぶち込まれたときは牢の見張りだったとさ。あんた」
 竹蔵がにやっと笑う。
「初江王の腹を殴っただろう?」
 マジで!? たしかに、秦広王と一緒にいた背の高い極卒に苛立って殴ってしまったけれども、あれは初江王だったってこと!?
「ええ? ってことは……初江王と秦広王は、なんていうか、仲良し?」
 いつからだ。いや、どこからだ? 
「さあね。初江王に訊ねる時間がなかったからアタシにもさっぱりだ。ともかく、女官の書面を盗んだって教えたら、待ってましたといわんばかりに言われたよ。いますぐ娑婆への道を開くから、あんたを連れて来いってさ」
 仲良しなのか? 誰が誰と仲間なのだ? なんかもうわけがわからない! 
 自分の髪を両手でわしづかみそうになった寸前、ゆらりと足元が揺れた。
「うおっ」
 ズンッと音をたててまたもや揺れ、屋根の瓦が崩れ落ちる。はっとした竹蔵はわたしの手をまたもやつかみ、駆け出した。でも、大きく揺れた屋根が崩れはじめる。
「うわっ、うわわわわ!」
 舌打ちをした竹蔵は、崩壊する屋根に手をかけるや、とっさに地面に着地した。そうして顔面を蒼白させ、わたしを見上げると両腕を広げた。
「椿、早くしな!」
 左右にぐらぐらと揺れる屋根にしがみつき、とっさに飛び下りる。抱きとめてくれた竹蔵もろとも地面に転がる。と、その肩越しにありえない光景を目にしてしまい、絶句した。
 なんと。屋根を支えていた鬼型の彫像が、動き出していたのだ。
「う……うううっそ!!」
 なにあれ、どーなってんの! いや、わかってる。ヤマどのの必殺イリュージョンだ!
「あーらら。さすがは大王の宮殿だ。いつか動くだろうと思ってたけど、いまになってかい。よっぽどあんたに腹立ててんだねえ」
 わたしの上で四つん這いになって、竹蔵が言う。のんびり振り返って感心してる場合じゃないから!
「で、でも! そもそもわたしを戻してくれるって、さっき自分で言ってたんだよ、大王が!」
「てめえで言っておきながら、すぐに気分が変わるわがまま野郎だ。信じてたらバカ見ちまうよ」
 鬼の彫像が、崩れ落ちた屋根をズシンと踏みしめた。立ち上がった竹蔵は、わたしの腕を引っ張って起き上がらせてくれ、庭園に向けて駆け出した。
 屋根の崩れるけたたましい音が、あちこちから聞こえた。慌てふためく無数の声もとどろく。雨は土砂降りで、雷が鳴り、風がうねる。庭園の木の幹に隠れた竹蔵は、ふいに立ち止まると息をととのえつつ、こちらを向いた。
「さて。本当にお別れだよ、椿」
「えっ」
 竹蔵は、雨に濡れながらわたしを見つめ、微笑んだ。
「あんたは娑婆に戻って、自分の人生を生きな。縁があったらまた会おう、この地獄でね。そうならないほうがあんたのためだけどさ」
 にやりと口角を上げる。
「地獄の蓋が開いたら、あんたに会いに行くさ。それで枕元に立ってやるよ。まあ、あんたは気づかないかもしれないけどね」
 そう竹蔵に言われて、はっとした。そうだ。この世界の出来事を、娑婆に戻ったらなにもかも全部忘れてしまうんだった。でも、竹蔵にそのことは言えない。
 雨市の家で、あの不思議なまちで、竹蔵と一緒にお寿司を食べたし、生まれてはじめて着物も着た。たくさんの思い出も記憶も、娑婆に戻ったらすべて消えてしまう。はかない夢から目覚めた朝みたいに。
 雨市のネクタイピンは、カボチャみたいなパンツにひっかけている。でも。
「娑婆に持って行きたいから、な、なんかちょうだい!」
 忘れるなんて嫌だ。でも、なにかがあればきっと思い出す。そのなにかが欲しくてすがりたくて、とっさに手を差し伸べた。少し目を伏せた竹蔵は、ふっと笑うと帯から短刀を引き抜いた。 
 自分の着物の袖を握り、短刀をあてると細長く切り裂く。それを口にくわえると、今度はすっかり濡れた自分の髪を握った。短刀を添えてざっくり切ると、その髪の束を裂いた布でぎゅっと縛り、差し出してきた。
「娑婆に戻って、こいつが残ってるかどうかわかりゃしないけど、アタシがあんたにやれるのはこれしかない」
 忘れないように忘れないようにと自分に言い聞かせながら、竹蔵の髪を両手で抱きしめる。
「うん。ありがとう」
 なくさないよう、女官制服の胸に押し込める。すると、竹蔵が言った。
「それで? あんたはアタシになにをくれるんだい?」
「へ?」
 びっくりして竹蔵を見る。わたしも髪くらいしかないかもだよ。
「お、おんなじものになっちゃうけど、それでよければ短刀を貸して?」
 竹蔵が苦笑した。
「違う。そうじゃない」
 濡れた冷たい手で、わたしの頬を包んだ。
「別れの口づけくらい、雨市に許してもらいたいね」
「え……」
 竹蔵の唇が、わたしの唇に触れた。別れの挨拶代わりだと思うと、拒否できなかった。それに、結局わたしは、竹蔵になにもしてやることができなかったのだ。
 強く押しあてられた柔らかい感触は、降りしきる雨とともに涙の味がした。たぶん、わたしの涙の味だ。静かに、竹蔵の唇が離れる。ゆっくりとまぶたを開けたとき、目の前に一枚の、風に舞う桜の花びらがあった。
「……閻魔の筆から桜ってことは、雨市が誰かを深く愛してる証拠だろ。礼鈴とかいう女が、たしかそう言ってたはずだ。あの男がねえ」
「助けに来てくれた雨市が、大王を威嚇するためにあの筆に墨をつけたんだ。てっきり大柳の屋敷のときみたいに、鷹が出るかと思ったのに……」
 実際は、あんなに大きな桜だった。見上げればその花びらが、雨に混ざって闇夜をおおい、舞っている。満点の星のように淡い色合いの花びらはきらめき、ヤマどのの怒りをあらわす雨も風も突き抜けて、ゆったりとこの世界をたゆたっていた。
 ――ズンッ。
 またもや地面が大きく揺れて、はっとする。宮殿の柱だった鬼の彫像が、わたしと竹蔵を探して動きまわっている気配がして焦る。
「行くよ」
 竹蔵はわたしの手を取り、門のある北を向いて足を踏み出そうとした。直前、また花びらが目の前を過ぎ、ふわりと天に向かって舞い上がっていく。それはまるで……っていうか?
 ちょっと待って。なんだこれ?
「……ち、ちょっと待った。竹蔵、見て」
 竹蔵が振り返る。無数の花びらは寝殿に向かって大きな渦を描きつつ、上昇していた。しかも、じっくりと目をこらすと、花びらじゃなかった。
 視界に映る、散りはじめたそれらは。
「蝶……?」
 竹蔵が困惑した。
「……だよね」
 いつの間にか花びらは、翼を広げた蝶に変化していた。
 うねりながら闇夜を包む桜色の蝶の群れは、やがてしばらくするとひとつの形を象っていく。
 二本の足、ゆったりとした衣、右手の指先は地を、左手のそれは天をしめし、ふくよかな頬、おだやかな口元、閉じられたまぶたに、頭の中央部が盛り上がった……裸髪。わたしにとってはあきらかに、どう見ても、子どものころから慣れ親しんだお姿だった。
「……う、うっそ」
 庭園の木々の向こうに、アニメのロボットさながらな超巨大&特大サイズの、桜色の物体がそびえ立っていた。あごが外れるほどあんぐりと口を開け、見上げることしかできない。たぶん、いまここにいる誰もが同じ顔つきで呆然としているはずだ。
 土砂降りが小雨になり、風も凪ぐ。地獄の宮殿にあらわれた蝶の群れは、たっぷりと時間をかけてまぶたを開けた。ふたつの眼が、黄金の屋根の下へそそがれる。
 流れ落ちる滝のような大音声で、巨大な如来像は告げた。
 ─── ああ、やれやれ。やっとこちらへ来られましたよ。閻魔大王。

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