捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ74
思い返せば、いろいろありすぎた。
お金欲しさに応募した賞の賞金が、あろうことか現金じゃなくてただの筆で、たった一本の不気味なその筆(と自分の金銭欲)のせいで、いまや地獄の宮殿内。その宮殿内の一室で、わたしが生まれるよりもずっと昔に人生を終えたイケメンに、いま肩をつかまれている。
「どう……」
したいんだろ、わたしは。
鎖骨のあたりに添えられた雨市の親指に、かすかに力がこもるのが伝わる。
「ちょ……ちょっとお待ちを! い、いま、めっちゃ考えてるから」
肩を揉んでくれるマッサージ師みたいに、雨市の親指がじりじりとビミョーに動いた。同時に、雨市の唇がわたしの額に触れる。
「頭で考えることじゃねえだろ。人生にはそうじゃねえこともあるんだぞ」
かすれ気味の低い声に合わせて、唇が動く。考えるな、感じろ! ってことか。そういえばたしか、父さんの好きなブルース・リーも、なんかの映画で同じことをいってた気がする。
そうだよね。っていうか、そうなのだ。
わたしが娑婆に戻ったら、もう会えなくなる。
二度と、絶対に、絶対にだ!
「よ、よし」
雨市の背中に、腕をまわす。そうしてまぶたを、きつく閉じる。わたしにだって女子としての心意気がある。いや、女子としての心意気ってよくわかんないけど、ようするに、別にあわてて経験したいことじゃないけど、どのみち上る階段だったら、自分が超好きな相手に手を引っ張ってってもらいたいってことだ。
そうだ。そのとおりだよ、山内。そしてそれは、おそらく確実にいましかない!
「いいだろう!」
決意をかため、背中にまわした手に力を込めつつ、雨市のベストを握る。
「来い!」
目を閉じたまま叫ぶと、色気がねえなあと雨市が笑った……ってか、そういえば?
「あ、あのさ、ハシさんは?」
「寝てた」
「じ、じゃあ、竹蔵は?」
「寝たふりこいてた」
「ふり?」
ぱっとまぶたを開けると、雨市の口がわたしの鼻先寸前で止まった。わかっていたもののあまりの近さに息が止まりそうになって、もう一度目を閉じた。
「知らねえけど、気を利かしてくれたのかもな。そんだけおまえのことを気に入ってんだ」
「え」
なんでそうなる? わたしのことが気に入ってるから、雨市に気を利かして寝たふりをこいたっていう流れが謎すぎる。
「ど、どういう?」
右肩が、雨市の大きな左手に包まれる。
「俺の邪魔はしてえんだろうけど、気に入ってるおまえの邪魔はしたくねえのさ。だから、おまえのことを思って、俺を見逃したんだろうな」
しゃべりながらもその手はぐっと横にずれ、女官制服の襟元が二の腕まではだけた。素早い、慣れてる、鮮やかすぎておそろしい! おそろしすぎて全身の筋肉が硬直する。人形みたいに固まるわたしの首筋に、雨市の息がかすかにかかる。ひいっと肩をこわばらせると、怖いかと雨市に訊かれた。未知なる世界の想像がまるでつかないので、なんとかうなずく。
「ど、どうせだし、か、階段は上りたいんだよ、ものすごく」
「階段?」
「お、大人の階段だよ。その階段がすんごい急な気がして、上れるのか不安っていうか……!」
目を閉じたまま言うと、雨市はわたしのうなじに右手を伸ばし、髪の中へ指を入れ、包んだ後頭部ごと自分の胸のあたりに押し付けた。それから、くしゃりとわたしの髪をかき混ぜはじめてつぶやいた。
「……階段、か」
急すぎる大人の階段の行く末を案じつつ、さらにぎゅうっとまぶたを閉じる。だけど、雨市の指はずっとそのまま、まるで迷ってるみたいにぐるぐると髪の中で動くだけで、ずいぶん長いときが過ぎた。
……あれ。どうしたんだろ。
やっとの思いでまぶたを開けようとすると、ふいに襟元がつかまれる。と、すっぽりと肩が隠された。
えっ?
雨市の胸に額が押し付けられた状態で、驚いて大きく目を見開く。
「なんつーか……」
雨市は襟をただしてくれたその手で、わたしの腕を優しく撫ではじめた。
「……なんだかなあ」
ため息混じりで雨市は続けた。
「いまさら気づいちまった。俺はおまえのことを、どうにもしてやれねえんだよなあ」
「え?」
「俺が生きてりゃ、嫁にもらってやるさ。おまえみたいな強え娘、まともに相手にできるのは俺ぐらいだからな。そうできるんならいますぐにでも、好きにさせてもらう。けど、現実の俺は死んでる。でも、おまえは生きてんだ。この先、誰も好きにならねえとか言ってたけどよ、そんなことは誰にもわからねえのが人生だ。俺だって、まさか死んじまってから、好きな娘ができるとは思いもしなかったからな」
雨市は髪から手を離して、わたしの背中を抱いた。
「……大人の階段は、いつか会うかもしれない、生きてる野郎とちゃんと上れ」
びっくりして、上目遣いに雨市を見る。雨市はわたしを見下ろして、にやりと口元をゆるめた。だけど、眼差しはさみしげだ。
「責任とれねえんだよ、俺は。おまえが遊び慣れてんなら話は別だけど、そうじゃねえだろ。こんな瀬戸際で固まってどもりまくってる惚れた生娘を、誰が自分の欲にかられて傷もんにしてえんだ? 俺には無理だ。そいつは違う、全然違うな。そんなのは腐った野郎のすることだ。男じゃねえよ」
「ち、違うって、なにが?」
わたしから離れた雨市は、シャツの襟をゆるめて靴を脱ぐ。よ、とベッドに足を伸ばして横たわり、にっこり微笑むと左手を差し出した。
「来いよ、椿。手をつないで横になろう。おまえが生きてる時代のことを教えてくれ」
伸ばされた手をつかんだとたん、力強く引っ張られた。うおっ! とうつ伏せの格好でベッドに倒れると、それが間抜けだったらしく雨市は声を上げて笑った。
「考えてみたら、俺はおまえのことも、ずっと先の時代についても、ほとんど知らねえ。おまえの家が寺ってのと、女学生だってのと、日本語がおかしいってのはわかってるけどな」
「日本語、そんなおかしいかなあ?」
「ときどき外来語が混じって、ずいぶんヘンだぞ。まあ、そういう時代なんだろうけどな。筆を探しまわってたとき、何度かおまえの時代を見たけど、はじめて見たときは腰を抜かしたぜ。夜中に走ってる車は早えし、どこもかしこも明るくて、月も星もまともに見えやしねえ。それに、髪の茶色いヤツがいっぱいいたな。あいつらは俺みたいな混血か?」
オシャレとしてわざと染めてると教えたら、すげえなと雨市は感心した。
「あと、ありゃなんだ? 動く絵が入ってる薄い板みてえのは?」
テレビだ。どういう仕組みかと訊かれたから、中は機械で、電波で映像を映していると説明してみた。雨市は、並んで横たわるわたしの手を握ったまま、わけがわからねえと目を細めた。
雨市の肩に、ちょっとだけ頭を寄せる。なんでだろうなあと思う。握ってる手にはぬくもりがあるのに、雨市はわたしと同じじゃない。同じじゃないから、大人の階段は生きてる野郎と上れと言ったんだ。
それで、いいのかな。
覚悟を決めたものの、わたしは雨市といまみたいに一緒にいられれば、それだけでめちゃくちゃ満足だ。でも、雨市はそれでいいんだろうか。
「……雨市」
「あ?」
「なんていうか。……いいの? そのさ。わたしは雨市と一緒にいられれば、なにがどうでも全然いいんだけど、雨市はそれでいいのかなと思ってみたり……してみたり?」
雨市はわたしを横目に見て微笑み、天井を向いた。
「竹蔵に言わせりゃ、やせ我慢のええカッコしいってやつだ。そりゃまあ、欲はあるぜ? けど、いざとなったら固まってるおまえがかわいそうになっちまった。それに、なんかしっくりこねえ。頭で考えたわけじゃなくて、なんかそう感じたんだ」
言葉をきって、こっちを向く。まっすぐわたしを見つめると、雨市は真顔で告げる。
「遊びじゃねえって意味だ。だから、おまえは娑婆に戻って、ちゃんとした野郎とちゃんと結婚しろ」
にやっとする。
「それはそれで腹立つけどな。でも、おまえが幸せならなんだっていい」
びっくりした。母さんも同じことを言っていたから。
雨市がぎゅっと、わたしの手を強く握った。
「ちゃんとした野郎ってのは、俺みてえなヤツだぞ。いざってときに、おまえのことを思って我慢できるヤツだ。つっても、職業は別だぞ」
冗談めかす雨市の手を、わたしも強く握り返す。
「どうせ独身だよ。そう言ったじゃん。それに、雨市みたいな男子、娑婆にはいないよ」
「まあ、そりゃそうだろうな」
ハハハと笑う雨市の腕に、肩に、頭を寄せて思う。娑婆には戻りたい。でも、雨市と会えなくなるのはやっぱりいやだ。けど、仕方がないのだ。
だって、わたしは生きてるんだから。
なにもかも、仕方がない。どうにもならないことが人生にはある。それを受け入れて前に進むしかないときもある。
母さんが死んだとき、父さんが子どものわたしにそう言ってくれたことを思い出した。
「……あのさ、もしもなんだけど。わたしの寿命が二百年とかだったら、雨市は寿命の半分をもらってくれる? まあ、そんなことありえないんけど、もしもってことでさ……」
雨市が苦笑する。
「そうだなあ、それだったらもらってやってもいいぜ。けど、そうすりゃおまえは魔物の俺に、永遠に憑かれることになるんだぞ?」
「むしろ願ったりっていうか、全然ありだよ」
小さく笑った雨市は、どことなく呆れた様子で息をついた。
「……ありえねえ話だ、くだらねえ」
たしかに、くだらない。でも、夢見ちゃうんですよ! どうにもならない無情な現実に苛立って、雨市の肩にぐりぐりと額をこすりつける。もぞりと寝返りを打った雨市は、こちらを向いてわたしをのぞき込み、そのままなにもせずに見つめていた。
「なに?」
「目に焼き付けてんだ。おまえの顔を覚えておきてえからな」
ああ、それめっちゃわかる。わたしも密かに何度もしていることだもんね。
考えることは同じかとにやけた瞬間、さらりと鼻先にキスをされる。はっとして息をのみ、本格的なちゅーがくるぞと目を閉じた。でも、少し待ってもなにもない。こっそり片目を開けると、雨市と目が合った。
「娑婆に戻ったら、いいこといっぱいしとけよ、椿。絶対に地獄に来るんじゃねえぞ」
それはそうしたいけれども、この世界の権力者(=巨人大王)を怒らせているので、いいことをいっぱいしても足りない気がする……と考えてから、思い出した。
せつなさいっぱいのこの空気感で、かなりな空気の読めない発言だけど、それを承知で口を開く。
「そういえばさ、雨市。いきなりだけど、大柳雄一郎がガチ地獄行き決定です」
「あ? なんで、それを知ってんだ?」
うっかり言ってしまったとはいえ、ハシさんにくっついて女校長の部屋に入ったからですと、答えなくてはならないはめにおちいってしまった。だんだん険しげになっていく雨市の表情から視線をそらし、叱られるのを覚悟して説明する。もちろん、ハシさんはなにひとつ悪くない。ついて行ったのはわたしなのだ。
「……やっぱりか。おまえならやりかねねえなあと思ってはいたから、それはいい」
ああ、よかった、許された。ってか、それはいいってなんだ?
「あれ。じゃあ、なにがダメ?」
眉を寄せた雨市は、わたしから手を離すと起き上がってあぐらをかいた。
「本物の筆を見つけた野郎だぞ? なのにどうして地獄なんだよ」
「わかんないけど、はじめは父親を行かせるつもりだったくせに、自分が行きたいってなって、それで嘘ついただろみたくなって、巨人大王が怒ったんだよ。そしたらハシさんが、大王ははじめから、たとえ筆を見つけた人であっても、極楽になんて行かせるつもりはなかったんじゃないかって言ってたんだ」
考え込むように、雨市はうつむく。
「ハシさんがなんにも言ってなかったのは、だからか」
「だからって?」
「本物の筆を見つけた野郎が地獄行きだぞ。俺の労力を考えて、黙っててくれたんだろ。でも、わかってよかったぜ。まあ、大王のいい分もわかるけどな。つってもどうにもなにかがひっかかる」
ポケットから煙草を出してくわえ、火をつけた。
「それはそれとしても、初江王がどこにもいねえ。秦広王のじじいもずいぶん見かけてねえしな」
考え込みながら、煙をくゆらせる。
「この宮殿には大王のほかに、王と名のつく十人の審問官がいる。ほかの審問官どもも、裁判がはじまって大忙しなんだろうが、宋帝王は俺たちを見逃して、初江王も秦広王も不気味に静かだとすると……まるでなにかを待ってるみてえなんだよなあ」
「待ってるって、なにを?」
雨市はくわえ煙草でがしがしと、自分の髪をかきながら続ける。
「……さあな。けど、たぶんなにかを待ってんだ。だから、宋帝王はハシさんに、盗んだ書面を黙って持ってろって言ったのかもしれねえ」
「えっ?」
「初江王も秦広王のじじいも宋帝王も、全員グルかもな。もしくは、いつかの時点で手を組んでる。宋帝王は『ここはいままで、誰・に・も・邪・魔・さ・れ・る・こ・と・な・く・栄えてきた、地獄の宮殿である』って言いながら、俺たちのことを見逃した。それが大王に伝わってる気配もねえ。ってことは、だ」
「って、ことは?」
雨市は片目を細めると、にやりと笑った。
「邪魔してくれるなにかを、あいつらは待ってんだ。そいつはもしかすると、俺たちってことかもな」