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捌ノ章

記憶を映す水の底

其ノ73

 地獄色の空が、のどかな夕焼け色に変わっていく。

 庭園の枯れていた木々や草花が、早送りで逆回転する映像みたいに息を吹き返す。むくむくと緑の葉をつけ、ほんのりと鼻をかすめる硫黄のにおいの風にそよぎはじめる。巨人大王がヤマどのに戻った証だ。

 意味深なにんまり顔を消した宋帝王は、それ以後沈黙を守り抜き、二体の極卒と雨市たちを引き連れて去ってしまった。わたしはおとなしく部屋に戻り、お世話係のクローンチームが持って来た夕ご飯をのろのろと食べる。食べている間、雨市の言葉に返答した宋帝王の様子を思い返した。

「……雨市の言うとおり、わざと自由にしてるっぽいんだよなあ、あの顔からして」

 でも、なんで? まったく謎。それに、昨日わたしがヤマどのを激昂させた件について、まったく触れもしなかったのがさらに不気味だ。

 ものすごいもやもやする。そのせいでずいぶん夕食を残してしまった。こんなの、わたしにしてはありえないことだ。

 窓の外が暗くなり、カーテンを閉じようとしたとき扉が叩かれた。食器を取りに来たクローンチームだ。

「本日のヤマさまはかなりお疲れのご様子ですから、ほかの方がお相手をいたします。ですので、あなたのお仕事はございません」

 それはめでたい! 

「了解です!!」

 嬉々として告げるも「まだわかりませんけれど」と、念を押された。いやいや、あんな暴言を吐いてヤマどのを怒らせたんだから、もしかしたらこのままずっとわたしのお仕事はナシかもですよ!

 そしてナシのまま、わたしは無事娑婆へ戻るんです! そう思って、はっとする。

 そういえば頼みの綱の初江王は、いったいどこにいるんだろ。

「あのー……初江王さまって、どのあたりのどのへんにいたりするんですか?」

 二人がけげんな表情を浮かべる。

「なぜ、そのようなことを訊ねるのです?」

 娑婆に戻るためです。

「いえ……ずいぶんお会いしていないなあと思いまして……」

「わたくしたちは存じ上げません」

 知らないらしい、がっかりだ。

 クローンチームが去っていく。一人になったとたん、妙に不安になってきた。

「……このまま戻れなかったら、どうしよう」

 記憶が消えていって、永遠にヤマどのの相手をするはめになるんだろうか。それはなんとしてでも全力で避けたい。

 とりあえず、女官になります契約の書面はハシさんが盗んでくれたから、もうここに足止めされる理由はないはず。問題は、どうやって戻るかなのだ。だから初江王を頼りたいのに、その重要人物は行方知れず。おまけに、わたしは阿弥陀如来の使者じゃないときた。

「……ネズミだもんね」

 ありがたい阿弥陀如来の使者なら、大王の筆からきっときれいなものをあらわしたはず。それなのにわたしが出したのは、小さいネズミだったわけで……って、なんかガチで落ち込んできた。

「はあ……」

 ベッドに横たわり、枕に突っ伏してまぶたを閉じた。でも、ここまで来て悪かったことばかりじゃない。雨市たちにも会えたし、母さんの様子もわかったんだもん。

「そういや、父さんが言ってたな。いいことも悪いことも、全部あとからになってみないとわかんないって」

 それにわたしは、恋をしている。ああ、雨市もハシさんも竹蔵も、それにセツさんにも、なんとか極楽に行ってもらいたかったな。でも、なんの権限もないわたしじゃ無理だ。

 脳裏に、さっきの雨市の様子が過った。雨市の目にはセツさんが、どんなふうに映ったんだろう。そんなことを考えているうちにまどろんで、すっかり眠ってしまったのだ。

 

♨ ♨ ♨

 

 煙草のにおいがする。ぼうっとした頭で寝返りをうち、うっすらとまぶたを開ける。そのとたん、視界に飛び込んだ人物にぎょっとして起き上がった。

「えっ!」

 シャツにゆるいネクタイ、ベストとズボンといういつもの格好で椅子に座る雨市が、テーブルに肩肘をついて煙草を吸っていた。

 いつの間に? っていうか、これ夢かも? だって、雨市が変装してないもん。目をこすってみたけれど、雨市はやっぱりそこにいて、わたしを見るとにやっと笑った。

「すげえ顔で寝てたぞ」

「い、いつから?」

「ついさっき、窓からな」

 煙草をくわえたまま、くいっと窓をあごでしめす。

「……ってか、変装してないじゃん」

「変装はしたぜ? ほら」

 足元に転がる極卒コスプレセットを、靴の先で軽くつついた。なるほど、コスプレを脱いだだけらしい。

「そ、それにその煙草、どこで調達したの?」

「煙草は裁判受けた誰かの落した物だってよ。飯持って来たおまえの手下が、捨てるだけだからいらねえかってくれたんだ」

 ハイコウ、親切すぎる……。そして、しつっこいけどマジですまない。

「その極卒セット、宋帝王に取られなかったんだね」

 雨市はお面を見下ろした。

「ああ……」

 そうささやいた瞬間、なぜかさらに頭を低くした。

「……あ?」

  テーブルの下に腕を伸ばし、なにやらつかむ。わたしを上目遣いにするや、つかんだそれを軽くかかげた。

「おい。なんで竹蔵の草履がここにあるんだ?」

 そうだった。ヤマどのから逃亡したあとで竹蔵に出くわし、足元でバレるバレないのやりとりをしてから、結局わたしが持ち帰るはめになったんだった。それで、テーブルの下に置いていたのを忘れてた。

「あ、それ竹蔵に返さないと!」

 お願いしますと頼もうとして口を開きかけると、鼻緒に指をひっかけた雨市は、しかめ面で椅子から立った。

「……椿。俺が訊いてるのはそういうことじゃねえぞ。どうしてここに竹蔵の草履があるんだって訊いてんだ」

 ぶらぶらと草履を揺らしながら、かなり静かな口調で訊かれた。そういえば言ってなかったか。というわけで、寝殿からの逃亡劇、途中竹蔵に出くわして、物置に隠れてからのビミョーなやりとりは触れずにすっ飛ばし、そのあとの流れまでを語ってみた。雨市は無言で聞いていて、しゃべり終わったわたしを見下ろすと、探るみたいな目つきになる。

「……そんだけか?」

 いいえ、それ以外にもありました。

「は、はあ」

 目をそらす。それがダメだったらしい。

「挙動が不審だぜ、おまえに嘘つけるわけねえだろ。なんだよ、なんかされてんじゃねえか」

 バレた。

「いや、されてない、されてない! ちゃんと和解したみたいな感じだから!」

 ちらっと雨市を見上げたら、右手の指に鼻緒をぶら下げ、左手はポケットに入れた格好で、くいっと片眉を動かす。

「……本当か?」

「ほんとだよ。わたし的には」

「『わたし的には』ってな、どういうこった。つまり、どっちなんだよ」

「わ、和解したって。わかってもらえたと思うのだ。だから、大丈夫です!」

「……はあ」

 雨市は呆れ顔で息をつき、わたしに近づくと隣に座った。

 草履を床に放ると、ポケットからくしゃくしゃの煙草を出してくわえる。なぜかそのとき、にやっと笑った。口の端を上げた顔つきで、マッチをする。煙草に火をつけると気持ちよさそうに煙を吐き、声も出さずにまた笑った。

「なんでちょっと笑ってんの?」

「……べつに。こんなふうにやきもち妬くのも、いまだけだなと思ってよ。怒ったってもうしゃあねえよな。おまえはどうせ娑婆に帰っちまうし、そうしたらこれもいい思い出ってやつだ」

 雨市の口から、すっとひと筋の紫煙が舞った。いい思い出か。そうだ、いま経験してることは全部、わたしの過去になっていくんだ。過去になって思い出になって、みんなには記憶の中でしか会えなくなる。

 もちろん、雨市にも。

 煙草は嫌いだけど、このにおいを嗅いだらわたしはきっと、いつも雨市を思い出すんだろうな。そんなことを考えていたら、なにも言えなくなってしまった。そうしてぼうっと、吐き出される煙を眺めていると、ふいに雨市が言った。

「母さんに会えてよかったな」

「……うん」

 そういえば、雨市に訊きたかったことがあったんだ。

「あのさ、さっきの水桶で、雨市はなにを見たの?」

「ああ……」

 のろりと雨市は腰を上げた。窓を補足開けて外に灰を捨て、わたしの隣に座りなおした。

「……お百度参りって知ってるか?」

 聞いたことはあるけど、詳しくは知らない。よくわからないと答えると、お寺や神社の入り口から本堂や拝殿までを、百回往復して祈願することだと雨市に教えられた。

「そいつをやってた」

「え?」

「セツがそいつをやってたんだ。俺はたぶん、カラスになってた。自分の黒いくちばしが見えてたからな。巾着に百個小石を入れてて、何度も何度も往復してんだ。それを近くでずっと見てただけだ。なにを祈願してんのか、本堂のそばに行って耳をすましてたら、セツの声が聞こえちまった」

 ふうと息をつきつつ両手で顔を撫でた。その指から、雨市のかすれた声がもれた。

「心中した自分は地獄だ。でも、兄は極楽へ行けますように。近頃見あたらないのは、裁判が近いからだろう。たしかに兄は罪人だ。けれども、兄が騙してきたのは人をおとしめる者たちばかり。兄は自分の生い立ちから、弱い身の上の人たちを放っておけない性分だった。だから兄だけは、極楽へお願いします……だとよ」

 哀しいのに無理に笑ってるみたいな眼差しで、雨市はわたしを見た。

「全部知ってたんだ。自分が生きてねえことも、自分のいる世界のことも、なにもかも。俺はひとっことも言ってねえのに、黙って気づいてたんだな」

 雨市は笑みを浮かべる。でも本当は泣きたいみたいに見えた。セツさんが自分のことをかえりみず、雨市の幸せを願っていると知って、切なくなってしまったのだろう。もちろん、わたしもだ。

 ここにハシさんがいたら、間違いなくこういうな。

「愛、ですなあ」

「あ?」

「あ、いや。なんかさ。雨市もセツさんのことが大事だし、セツさんも雨市のことが大事だっていうか。だからそういうの、愛じゃん。兄妹愛っていうかさ。わたしは兄妹いないけど、そういうの、なんかいいね」

 雨市は黙って、わたしを見つめる。わたしも思わず見つめ返した。

 それにしても、しみじみする。本当にいいお顔だ。全体的に品があるというか、眉も鼻も口もバランスが整ってて、なにしろ瞳がとってもいい。それに、やっぱり髪型も好きだな。チャラくない黒髪は、雨市によく似合ってるんだ。

 娑婆に戻っても思い出せるようにと見入っていると、雨市が優しく微笑んだ。そうしてわたしの頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと女官スタイルの髪をかき混ぜる。おかげですぐに髪型が崩壊した。

「く、崩れてきた」

「崩してんだ」

「へ?」

 とうとう無惨に崩れて、ばさりと胸まで髪が落ちる。雨市は、わたしの髪を撫でながら指で梳いて、毛先を右手に包むと目を伏せ、鼻先へ寄せた。

「く、くさくない? いちおう、昨日お風呂に入ったんだけど」

 心配になって訊く。

「いいや」

 手にした髪を鼻に寄せたまま、雨市は真顔で、わたしを上目遣いにする。

「おまえのにおいだ。俺の好きなにおい」

 くさくないみたいだ。それはよかった。

「でもこれ、あの魔術的な櫛で梳いたら、元の長さ」

 に戻るんだよね? と訊けなかった。

「これが最後かもな」 

 そう言った、雨市の声にさえぎられたからだ。

「さ……最後?」

 雨市が手から髪を離す。それから、わたしの腰にゆっくりと右腕をまわした。引き寄せられて、雨市の肩に額があたる。シャツからうっすらと、煙草のにおいがした。

 女官制服の襟元に、雨市の左手がすっと入る。自分の肌に、雨市の指先を感じた。そこで、雨市の指の動きが止まる。いきなりでびっくりし、見上げたら目が合った。雨市は視線をそらさずに、まっすぐにわたしをのぞき込むみたいにして、いった。

「……どうして欲しい?」

 え。

「え? ど、どど、どう、て?」

「この先に行くか、戻るか。おまえが決めてくれ」

 肩に、じかに、雨市の指が軽くくいこむ。それはつまり、大人の階段を上るべきか否か……ってことだ。

 そのとおりだ、山内よ。さすがにわたしも学んだよ! なんて、胸を張る時間はない。

「ど、どう……」

 ……しようか!?

 

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