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捌ノ章

記憶を映す水の底

其ノ72

 ごろんと寝転がった竹蔵を屋根に残し、わたしたちは水桶を囲んだ。

 澄んでいるはずの水は真っ赤な空を映していて、まるでキムチ鍋のスープみたいだ。そんな貯まり水に、四人の顔が映り込む。

「……じゃあ、やるか」

 そう言った雨市は、お面を取って足元に置いた。しゃがんだハシさんは、風呂敷からハサミを出して遠野さんに渡す。

「ささ、どうぞ」

「え! 僕からでよろしいのですか?」

 はい、よろしいのです。そもそもはそれが目的なんで。

 遠野さんは指で髪をつまみ、少し切った。その髪を水に落とす。ひとさし指を水面に浸し、左まわりに円を描きながら呪文を唱える。三度同じ呪文を繰り返すと、遠野さんは指を止めた。

「あ」

 遠野さんは水桶に両手をついて、深くのぞき込んだ。わたしたちも底に見入ってみたけれど、ぐるぐると小さな渦を巻く水の奥には、なにも見えない。でも、遠野さんはあきらかになにかを見ている様子だった。

「……コトがいる。ああ……コトだ!」

 遠野さんは額が水についてしまうほど顔を近づけ、感激をあらわにした。どうやらこれは本人にしか見えないものらしい。わたしと雨市、ハシさんは、そんな遠野さんを見守った。

「僕は元気だ。ああ、元気だよ。きみはどうだ? そこで不自由はないかい?」

 遠野さんはうなずいたり、ひとりごとのようになにやらしゃべり続ける。やがて、うつむいた遠野さんの顔からぽつりと滴が落ちた。泣いてるんだ。

「本当に会いたかったのですなあ」

 ハシさんがつぶやいた。そのために偽物の筆をばらまいて、大王の裁判を滞らせていたんだもの。それなのに、牢に入れられて会えずじまいだったのだ。やっと思いが叶って感極まっているのだろう。

「よかったね」

 ちょっとは誰かの役に立ったみたいな感じがして、わたしもなんだかいい気分だ。

「きみがずっと恋しかった。ああ、わかってる。そうだね。もしもいつか生まれ変わるなどということがあったら、また一緒に暮らそう」

 そう言って、遠野さんははははと笑う。

「ああ、約束だ。けれども、僕は人ではないかもしれない。犬かもしれないし、猫かもしれないよ」

 遠野さんは自分にしか見えない水の底の奥さんに向かって、何度もうなずいた。やがて、震える声で最後に告げた。

「約束だ。僕は必ず、きみを見つけるよ」

 その言葉を耳にしたハシさんは、愛ですなあと微笑んだ。

「そうだね」

 そう答えたとき、ふと雨市の視線を感じて顔を向けた。腕を組んでいた雨市は、せつなげな表情でうつむいていた。

「……終わりました。ありがとうございます」

 遠野さんの声に雨市ははっとし、顔をあげた。

「女房は元気だったか?」

「はい、元気そうでした。裁判まではまだ間がありそうです。なにやら住まいの鏡に僕の顔が突然映ったそうで、びっくりしておりました。とにかく、会えて本当によかった。ありがとうございました」

「そうか」

 微笑んだ雨市は、持っているハサミをわたしに差し出した。

「おまえの番だ、椿」

 ひらがなで書かれた半紙の呪文を、ハシさんが掲げてくれる。それを唱えながら、桶の水に円を描いた。摩訶不思議なイリュージョンがどんなふうにあわられるのか、実はけっこうワクワクしてる。だって、娑婆にいたらこんなこと絶対経験できないもんね。でも、そのワクワク感はすぐに驚きに変わった。

 桶の底にうっすらと、なにかが映りはじめる。

 指を離して目を凝らすと、景色が縦横無尽に変わっていく。はじめは入道雲がもくもくと浮かぶ真っ青な空で、見覚えのある山々が遠くに見えた。そのうちに黒い瓦屋根が眼下にあらわれる。その屋根にも見覚えがある。裏手にお墓があって、古ぼけた離れがあり、離れのそばにはひまわりの揺れる花壇があった。

 飛んでいる、と思った。なぜだかわからないけれど、わたしはいま飛んでいで、上空からの光景を眺めているんだ。

 見覚えのある建物から、ひとりの女の人があらわれる。両手に洗濯カゴを抱えて、こちらをあおぎ見る。ひっつめた髪に花柄のエプロン、ジャージに健康サンダルという出で立ちの女性は、仏壇に飾られた写真と同じ顔で、水の底からわたしを見上げて微笑んだ。

 ──あら。きれいな蝶。

 母さんだった。

 どうやら水の底が映しているのは、母さんのまわりを飛んでいる蝶が見ている光景らしい。

 母さんはあの家に──あの傾きかけたお寺にいた。そこは、思い出と執着が生み出した母さんの世界だ。裁判を待っている間に過ごす、母さんの待ち合い所なのだった。

 洗濯物を干す母さんの肩で、目線が止まる。母さんはにこにこしながら、こちらを見下ろした。

 ──きれいな蝶は、あの世とこの世をつないで伝言を伝えてくれる郵便屋さんみたいなものだって、お祖母ちゃんに聞いたことがあるわよ。ということは、おまえは父さんかな? それとも、椿?

 わたしだよ、と心の中で答えてみる。それが伝わったのかは謎だけど、母さんはふふふと笑った。

 ──ハゲな父さんがきれいな蝶ってのも、おかしいわね。

 おい待て。いや、あれは仕事上、髪を剃ってるからであって!

 ──きっと椿だわね。そういうことにしておきましょう。はい、母さんはとっても元気です。先に人生を卒業しちゃったけど、母さんはいつでもハゲと椿を思っています。

「……だから、ハゲ言うな」

 この人は……。そういえばこういう人だった。思わずにやけてしまう。

 ──椿はきっと美人になっていることでしょう。なにしろこのわたしの娘だもの。それはもう、モデル事務所からスカウトがくるぐらいの美人さんよねえ。想像つくわ~、わかるわ~。

 しみじみと勝手に納得していた。

 ──でも、そんな見た目におごることなく、心優しく忍耐強い、しっかりした芯のある女の子になって欲しいなあと、母さんは思っています。そうじゃないと、のんびり屋さんの父さんの面倒は見きれないものねえ。

 さすが、父さんのこと知り尽くしてる。

 母さんが蝶の羽をそっとつまんだようだ。真正面のアップでにっこりした母さんは、父さんと椿が幸せでありますようにと言った。

 ──貧乏でも笑って暮らせますように。それから、椿に素敵な恋人ができますように。でもまあ、なんでもいいわね。ずうっと独身でも、誰かと結婚したとしても、椿が幸せならそれでいいわ。ずいぶん長いことここにいるけれど、そのうち会いに行けるでしょう。とりあえず、父さんのお経はいつも届いてるって伝えてちょうだいね。

 パッと指を離す。舞い上がった視界の眼下で、母さんの姿が小さくなる。そうして、すべてがゆっくりと水の底に溶けていった。

 ぽつりぽつりと、水に涙が落ちていく。でも、哀しいわけじゃない。ただ、嬉しくて。

 写真じゃなく、動いている姿が見られて、声が聞けて、嬉しくて。その涙だ。

「……相変わらずだったなあ」

 なんだか笑ってしまう。ふふっと笑みをもらすと、

「嬉しいか」

 雨市が訊いてきた。わたしは涙をぬぐいながら答える。

「うん。元気そうだったし、記憶にあったそのまんまだったから安心した」

 しかも、父さんをハゲ呼ばわりするし……と思い返して、苦笑する。情緒感ゼロだもんなあ。

「さすがわたしの母さんだなあって」

「なんだ、そりゃ」

 わたしの言葉に、雨市が笑った。そんな雨市に、ハシさんが言う。

「わたくしの両親はすでに裁判を終えておりますので、雨市さんどうぞ」

 ハサミを握った雨市は、眉をひそめて水底をにらむ。

「そうか」

 ふうと息を吐いてから、前髪をつまんで少し切った。

「じゃあ、会わせてもらう」

 

♨ ♨ ♨

 

 雨市は険しい顔で押し黙り、水の底を見ていた。と、やがて桶に両手をつけ、きつく眉をひそめる。

 雨市はいったい、セツさんのどんな姿を見ているんだろう。

 心配になって近づいたとき、

「そうか。そうだったのか」

 喉の奥からしぼり出すように、雨市がささやいた。直後、大音量の銅鑼の音がとどろく。屋根にいる竹蔵が、庭園の真正面をあごでしゃくりながら声を張り上げた。

「いやな気配だ。引き上げるよ、急ぎな!」

 急いで逃げようとした矢先、二体の鬼コスプレを連れた宋帝王が、扉の向こうからあらわれてしまった。うっそ、なんでバレたの?……って!

「えええ~! やっぱ見聞きしてる地蔵はあの置物じゃなかったんだ!」

 わたしが頭を抱えると、中庭に足を踏み入れた宋帝王は、

「いや、あれである」

 そう言って、ハシさんが目と耳を隠した木彫りのお地蔵さまを指した。

「えっ、そうなの?」

 やれやれと嘆息した宋帝王は、半眼でわたしたちを見まわした。

「地蔵が見聞きせずとも、私にはまるわかりだ。屋根を歩く怪しげな無数の人影に気づいたものの、しばし様子をうかがっていたまでのこと」

 どことなく呆れたように息をつき、ハシさんを見すえる。

「あの牢からどのようにして出られたのかは訊かぬし、貴様がどこへ入ってなにを盗み背負っているのかも、いまは訊かぬ。だが、その包みの物は、しばしそのまま持っておられよ」

 女校長の部屋に入ったことも、すっかりバレてるっぽい。でも、謎すぎる。

「持って……おられよ?」

 まだ捨てるなってこと? 首を傾げるわたしを無視し、宋帝王は淡々と言葉を続けた。

「本日の裁判も終盤にさしかかった。さっさとここから消えるがよい。人間界の娘以外は牢まで連れて行く。来い」

 くるんときびすを返した。えっ? まさかそれって、見逃してくれるってこと? ってことは……ん? なんだろ、どういうこと?

「ちょい待ち」

 縄とお面を放り投げ、屋根に手をかけた竹蔵が飛び下りてきた。

「ずいぶん妙じゃないか。あんた、このことを大王に内緒にしてくれるって言うのかい?」

 立ち止まった宋帝が振り返る。すると、

「ほんとにきなくせえんだよ」

 雨市が言った。

「この宮殿は見張りがゆるすぎる。誰からも攻められねえっつっても、俺たちみたいな罪人が中に入っちまったら、いまみたいなことになるだろう。それなのに、わけがわからねえ。おまえの目的はなんだ? 大王の手下なら見逃すなんてことあるわけがねえ。いったいなにを企んでやがる?」

 じっとりとこちらを見る宋帝王は、涼しげな表情を崩さずに口を開いた。

「ここはいままで、誰・に・も・邪・魔・さ・れ・る・こ・と・な・く・栄えてきた、地獄の宮殿である。牢にくくられたはずの罪人が自由に出入りできている理由を、しかと考えるがよい」

「どういう意味だい?」

 竹蔵が訊く。

「考えるがよい」

 雨市は宋帝王をにらみすえた。

「……やっぱりか。わざと俺たちを自由に出入りさせてんだな。その目的はなんだ?」

 宋帝王は、ただにんまりと唇を弓なりにさせたのだった。

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