捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ71
衣心のことなんてすっかり忘れてた。そういえばこっちに来る前、あいつからめちゃくちゃキモいイジメを受けたんだった。うえええ……思い出しちゃったよ。
ハシさんと屋根裏に入り、いざ外へ出る直前になってうなだれてしまった。
「おや、いかがなされました?」
ハシさんが振り返る。
「い、いえ。なんでもないでっす」
きれいさっぱり忘れてたけど、西崎とのつながりを考えたら胸焼けが起きてきた。でも、そんなことにかまけている時間はいまはない。キモいしモヤモヤするけど、この件はいったん保留だ。
いざ、黄金の屋根の寝殿めがけて、入り組んだ建物と廻廊の屋根をこそこそとつたって歩く。いまも大王は裁判中だ。空は朱色で庭園は絶賛荒廃中だから、わかりやすい。
女子ゾーンの建物から寝殿までは、廊下でつながっていた。その廊下にあたる建物部分の屋根をするすると歩いていると、にぶく輝く黄金色の屋根に立っている三人を発見する。雨市と竹蔵と遠野さんだろうと思って目をこらしてみるものの、なにかがおかしい。近づけば近づくほど、三人の輪郭がはっきりと視界に飛び込んでくる。瞬間、はっとして慌てたわたしは、ハシさんの上着をつかんで引っ張った。
「ちょっ、ハシさん待った! あれ鬼だよ! 極卒コスプレ!」
寝殿の屋根にいたのは、なんと。二体の鬼と、役人制服を着た男子だったのだ!
危っな~! うっかり近づくところだったよ。ってか、これってバレたってことだよね。そんで、待ち伏せされてたってことだよね!?
「おやおや、これは大変」
ハシさんも足を止めた。
「に、逃げましょうか。師匠?」
間髪入れず、ハシさんはうなずいた。
「はい、逃げましょう。そういたしましょう」
二人同時にくるんと背を向け、その場から立ち去ろうとした寸前。一体の鬼がひらひらと、招くように手を振りはじめた。
「あれ?」
「なんでしょうな。こちらに来い、ということでしょうか?」
鬼コスプレらはまだ手を振っている。それでも近寄らないわたしたちに気をもんだのか、手を振るのをやめるとお面を取った。
「……って、なんだよもう!」
雨市だった。手にしたお面をふたたびかぶる雨市を目にしたハシさんは、ほうっと深く息をつく。
「安堵いたしました。すでにいらっしゃっていたようですな!」
そう言うが早いか、屋根の上を駆け出した。
「うわっ、早っ!」
待ってー! ハシさんのスピードがどんどんアップしていく。あんな速さでこの斜めな屋根を走れるとか、マジで信じられん! ってか、滑る、マジで滑るよ!
わたしのほうが全然若いのに、ハシさんのバランス能力と体力に追いつけない。世が世なら、ハシさんはオリンピック選手とかになってるかも? 泥棒以外にその才能を使うべきだったとアドバイスしたい。ホントにいまさらだけども!
体勢を低くする雨市たちもこちらに向かって来た。寝殿の屋根は廊下の屋根より少し高い位置にあるため、腹這いになった鬼コスプレの雨市が、ひさしから腕を伸ばしてくれた。まずはハシさんがその手をつかんで上がる。続いてわたしも、雨市の手をしっかりとつかんだ。ぐいと引っ張り上げられて寝殿の屋根に上がり、こざっぱりとした身なりの遠野さんを見て、納得した。伸びきった髭をきれいに剃って天然の長髪を結い上げていたから、役人男子に見間違えてしまったらしい。ただし、眼鏡のつるはハシさんの泥棒道具になっちゃったから、情けない感じの紐になってるけれども。
「大王の水桶のことなど、僕も知りませんでしたよ。さすがにこの寝殿へは、一度も招かれたことがありませんでしたからね」
遠野さんは嬉しそうに目を細めて言った。よほどありがたいのか、「嬉しいです」と両手をあわせて何度もつぶやく。
「どのような形でもよいのです。妻にひと目でも会うことができれば」
「そうだろうねえ。そのためにいろーんな人に、迷惑かけてきたんだからねえ」
もう一体の鬼コスプレが、腕を組んで言った。あきらかに竹蔵だ。
「その極卒衣装、どうやって手に入れたの?」
「おまえの手下に用意してもらったんだ。いっそこの格好のほうが誰も気にしねえからな」
極卒スタイルの雨市が言った。
「そ、そっか。なるほどです……」
またもや罪悪感におそわれてきた。ああ、ハイコウ。こんなにしてもらっても、わたしはなーんにもお礼ができないんだよ……。本当に申しわけない。こうなったら別れ際にでも、土下座して謝ろう。
どうやって牢を出たのか雨市に訊ねると、裁判のはじまる前、朝食を持ってあらわれたハイコウに手引きを頼んだのだそうだ。忙しい役所ゾーンのみなさんは、自分のことだけで手一杯。そういうわけで、ハイコウをクリアすれば外に出られるという、ゆるゆるな状況だったらしい。
遠野さんに役人男子の格好をさせ、雨市と竹蔵が鬼コスプレをすれば、誰も気にしない絵面が出来上がる。そのまま役所ゾーンを通り抜けて庭園を走り、鬼型の柱をつたって屋根に登ったのだそうだ。たしかにでこぼこがいっぱいあって、足場に不自由はしなさそうではある。そんなこんなでなにはともあれ、お互いになんとかここまでたどり着けたわけだけれども。
「さて、と」
枯れ果てた中庭を見下ろして、雨市が言った。
「まずはあの地蔵どもを、なんとかしないとな」
そう。中庭には大王化身のお地蔵さまが、ぐるりと四方を囲んでいるのだ。
「すごいあるよね。何体あるんだろ……」
わたしが遠い目をすると、竹蔵も半眼でやれやれとつぶやく。
「たしかに、あれはまいりますなあ」
ハシさんが言うと、遠野さんがおもむろに庭を指した。
「すべての地蔵が化身ではありませんよ。あちらこちらに地蔵はおりますし、なにしろ娑婆にもありますから、それらのすべてを大王は把握できません。ですから、この庭のように数が多くてもほとんどはお飾りで、周囲を監視しているのはこの中にあるどれか一体です。その地蔵が見聞きしたものを、大王も見聞きしているというわけです」
「へえ! そうだったんだ!」
すごい豆知識だ。
「なるほどな。じゃあ、あん中にある地蔵のうち、どれか一体の目と耳をふさげばいいってことだな?」
なんだ、めっちゃ簡単……じゃないし! どれ? どれがその一体なのだ? 二体の鬼コスプレとわたし、ハシさんは、屋根にしゃがんで首を傾げる。
「悪いけどさ、どれもこれも同じだよ」と竹蔵。
「きれーに同じ大きさだしな」と雨市。
「うーむ……悩ましいですなあ」
「どうやって見分けりゃいいのさ」
竹蔵の問いに、遠野さんはあっさり返答した。
「すみません。それはぼくにもわからないのです」
それは残念……って、あれ? 中庭にあるだけだったっけ? 何度かここに来ているし、いままでまったく気にしたことがなかったけれど、ここはヤマどののリラックスゾーン。ってことは、中庭以外にもあったりして?
屋根の上で体勢を低くし、アジアのリゾート地さながらな空間に目を凝らした。ヤマどのが眠るベッドには、足を向ける方向に漆でてかてかな低目の棚があり、その上に皿やら小さな壷やらが飾られてある。
裸眼二・○という能力を駆使して、棚に飾られた物体を一つひとつ確認していく……。
「……あっ!」
やっぱりあるじゃん、ミニお地蔵さま!
「あそこにもあるよ!」
木彫り製の小さなお地蔵さまを指さすと、雨市は鬼のお面を取って目を細めた。
「ほかのよりもずいぶん小せえけど、たしかに地蔵だな。どうにもあれな気がするぜ」
遠野さんは眼鏡を拭いてかけなおす。
「うすぼんやりとしか見えないのですが、もしやあれは木彫りですか?」
「たぶんそうです。絶対木彫りっぽいです」
遠野さんは神妙な面持ちでうなずいた。
「あそこにある一体だけが木彫りとは、どうも不自然ですね」
「なんにせよ、急いだほうがいいんじゃないかい? のらくらしてたら裁判が終わっちまうよ」
竹蔵の言うとおりだ。雨市はハシさんを見た。
「ハシさん、どう思う?」
「はっきりとは見えませんのでなんとも答えにくいのですが、あの中のどれを盗るかと問われましたら、わたくしは迷うことなくあの木彫りと答えますなあ。もしや檜やもしれませんし、そうではなくとももっとも高価であると断定できますからな」
しばらく黙って置物を見すえた雨市は、
「大王にバレたときは俺がなんとかする。奴が見聞きしてる地蔵は、おそらくアレだ」
ふたたびお面をかぶり、そう告げた。
♨ ♨ ♨
屋根を歩き、寝室ゾーンの真上に立つ。軒から縄を垂らし、まずはミニ地蔵の目鼻をさえぎるため、先にハシさんが縄を下りた。
軒から顔を出してハシさんの様子をうかがうと、ほっかむりしていた手ぬぐいを取り外し、ぐるぐるとねじりはじめる。そうして、中庭を向いているミニ地蔵にうしろから近づき、目と耳にそれを巻き付けると、いっきに結んだ。鮮やかすぎる。
「ようござんす」
ハシさんにうながされ、遠野さんがあとに続く。そのとき、ふと気づく。帰るためには、縄を垂らしたままにしなくちゃいけない。だけど結べそうなところはないから、縄を持った誰かがここに残る必要があるのだ。
「縄、どうするの?」
わたしが訊くと、「俺が残る」と雨市が言った。すると、竹蔵がそれを拒否する。
「やめとくれ、アタシが残るよ。のんびりしてもいられないけど、せっかくだ。みんな会いたい誰かに会えばいい。けど、アタシには会いたい人間なんていやしないからね」
「俺だってそうだぞ」
雨市の言葉に、竹蔵はふっと鬼の面から息をもらす。
「まーた、嘘こきやがる。あんたには家族がいるだろう? これが最後かもしれないんだから、妹に会ってやんな」
鬼の面をつけた雨市の肩が、ぴくりとかすかに動いた。竹蔵は縄を肩に巻き付けながら、念を押す。
「あんたなんかどうでもいいさ。セッちゃんのために言っんだ」
雨市は少しうつむいた。
「……そうだな。すまねえな」
ぽつりとそうささやき、わたしと竹蔵の引っ張る縄を下りていった。
最後になったわたしが両手で縄を握ると、竹蔵はそれをぐっと引っ張る。
「どうだい、椿。アタシもなかなかいい男だろ」
わかってるさ、もちろんだ。
「いやいや。竹蔵ははじめからいい男だよ、マジで!」
すると、はははと竹蔵は満足そうに笑った。
「マジかい」
そう、マジでね。