捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ70
鏡は、大王のうしろから大柳雄一郎を見下ろした光景を映していた。
一度だけ庭園で見かけた上品な紳士、大柳雄一郎は、大王の前に正座して、額と両手を床に押し付けている。その両腕は恐怖のせいか大きく震えていた。無理もない。
「大王さまがお座りになっていた椅子の背もたれに、この鏡と同じ物がはめ込まれていたかもしれませんな」
鏡を見つめながら、ハシさんが言った。
「じゃあ、その鏡に映ったものをこの鏡が見せてるってこと?」
「さようです」
そんなのあったかなあ。大王の存在が強烈すぎて、記憶にない。でも、いろんなイリュージョンに満ちた宮殿だから、そういう仕掛けがあってもおかしくはない。
「鏡の様子も気になりますが、こうしてはいられません。急がねば」
ハシさんが女校長の机に戻る。ハシさんが引き出しの鍵を開けている間、わたしは廊下に耳をすましつつ、どうにも気になる裁判にも視線を向け続けた。
本物の筆を見つけた礼を、大王がのべる。大柳雄一郎はさらに頭を低くさせ、「めっそうもございません」と声を震わせた。やがて、通常サイズの役人男子が大柳雄一郎の前に立つ。床にまで落ちる長い巻物を引きずりながら、男子は大声で読み上げていく。
それは大柳雄一郎の、生前の細かな罪状だった。嘘をついたこと、誰かを妬んだこと、恨んだこと、傷つけたことなどなど。そのたびに大王は「本当か」と訊く。なにしろいちいち細かいから、おそらく大柳雄一郎も覚えていないことが多いのだ。ほとんど「わかりません」「覚えておりません」と答える。そのやりとりがずいぶん続いたあとで、大王は言った。
───わからぬ、覚えておらぬ。そればかり申すではないか。
「……ほ、本当に覚えておりませんので」
すると一瞬、鏡になにも映らなくなる。大王が立ち上がったらしい。見守っていると、また映る。大柳雄一郎の側に、巨人大王が立ちはだかった。
───では、見せてやろう。
そう言うやいなや、大王は床を踏んだ。地鳴りのような音がたった瞬間、床から九枚の鏡があらわれる。鏡に囲まれた大柳雄一郎は、あきらかに腰を抜かしていた。その鏡には、生まれてからいままでの自分の姿が、これでもかと映し出される。
───ようく見よ。己の姿を、ようく見よ!
このときおまえはこうした、あのときおまえはこのようにしたと大王に指摘されるたび、大柳雄一郎はめまぐるしく首を動かす。
「し、しかし! 覚えておりません! そ、それにわたしは本物の筆を手に入れました! ですから、わたくしが向かうのは極楽のはずでございます!」
───さよう。みなが賞金という名の褒美を目当てに、余の筆を探してくれた。しかし、奇妙である。貴様は褒美を己の父親へくれてやるのではなかったか? 己の父のために、筆を探していたのではなかったか!?
大柳雄一郎は答えない。尻餅をついた格好のまま、ずるずると大王から離れていく。
─── 貴様、己の保身にばかり奔走した、さもくだらぬ人生であったな。己の父がそんなに嫌いか。血のつながらぬ西崎なる男が、そんなに恨めしいか!
……うっわ、西崎! 久しぶりに思い出しちゃったよ。
「あ、あいつが盗んだのです。わたしが苦労して見つけた筆を盗んだのは、あの男です。あいつこそ地獄でしょう!」
叫んだことで勢いがついたのか、大柳雄一郎はまくしたてた。
「父上があの男ばかりをかわいがるから! あの男ばかりを信用するから! わたしを無能扱いし、わたしになにひとつ、金以外のものを与えてはくれなかった。だから湯水のように使ってやっただけです!」
すごい。ドロドロのドラマみたいなセリフだ。清楚女子の旦那さんだった大柳雄一郎の声は、うわずっていた。上品そうな人だと思ったのに、中身はまったく違ったんだなあ。人は見た目で判断できないんだなあ。
なるほどと、大王がつぶやく。
───西崎なる男を裁くは、貴様ではなく余である。貴様の父を裁くのもまた、貴様ではなく余である。誰が地獄へ行くべきか、すべてを決めるのもこの余である。貴様、なぜ嘘をついた!
「嘘!? 嘘などついておりません!」
ははははと、大王は乾いた笑い声を上げた。
───それがすでに嘘。貴様、父を極楽へ行かせる名目を、なぜこの期におよんで己としたのか。申せ!
大柳雄一郎は、身体全部で震えていた。そういうわたしも、鏡を見ているだけなのに同じく震えていた。
わたし、この大王に説教したんだよね。わたしもたぶん地獄行きだよ。あはは……とか、苦笑してる場合じゃない。
大王さま、めっちゃ怖い。すみからすみまで怖すぎる!
大王の問いに、はじめの名目はそうだったと大柳雄一郎は告げる。でも、本物の筆を見つけたことで欲が出た。ずっと自分をしいたげてきた父親に、どうしてそこまでしなければならないのか、わからなくなったのだと語る。
なるほどと、大王はまたつぶやく。それから、おもむろに大きく両腕を伸ばし、バンッと手を叩いた。
───大柳雄一郎。享年四十五。罪名。どん欲、邪淫、妄語。よって、等活地獄より精進せよ!
どどーんと銅鑼が鳴りひびいた。
筆を見つけたのになぜ極楽ではないのかと、大柳雄一郎は叫ぶ。もっともだし、わたしも気になるポイントだ。大王はその訴えを無視し、ふたたび床を踏みしめる。鏡は消え、四方にある鬼面の扉のひとつがゆっくりと開いた。その向こうからあらわれたのは、体長が二メートルは軽く超えそうな、本物の鬼だった。
「うっそ。あれマジ?」
見開かれた目、両耳まで裂けた口。顔とか髪はカツラとお面にうりふたつだけれど、コスプレの鬼とはあきらかに体格が違う。
なにやら叫んでいる大柳雄一郎の襟元を、鬼がは有無を言わさずむんずとつかむ。そうしてのっしのっしと大柳を引きずりながら歩き、やがて扉の向こうに消えてしまった。
……ってか。え?
「……ハ、ハシさん師匠?」
振り返ると、ハシさんはすでに分厚い書面の束を持っていた。
「椿さんのもございましたが、まとめてほかの女官の方々のものも見つけてしまいました。どうせですから、いっさいがっさいいただいてしまいましょう」
風呂敷の中にしまってから、「いかがなされました?」と首を傾げる。
「ふ、筆を見つけたはずの大柳雄一郎が、な、なんでか地獄行きになってしまいました」
「なんですと!?」
見たものをそのまま伝えると、ハシさんはこれ以上ないほど目を丸くした。
「ほほう! それはやれやれでございますなあ。しかし、大王さまははじめからそのつもりだったのではありませんか?」
「えっ? そのつもりってどゆこと?」
風呂敷を背負い、ハシさんは言う。
「大王さまは誰が筆を見つけたとて、そもそもはじめから極楽へなど行かせるつもりはなかったのやもしれませんな」
ええ?
えーと、それってつまりさ。もしもそうだったら、大王こそ嘘つきってことになるんじゃないの?
「はああ?」
それとも、閻魔大王だけは特別ってこと? まあ、この世界の大王なんだから、自分が法律みたいなことかもしれないけどさ。
なにが正しくてなにが正しくないのか、わけがわかんなくなってきた。もしもハシさんの言うとおりだとすれば、雨市の苦労はどうなんの?
あまりのもやもや具合にいまここで暴れてしまいそうなんですけども!
「うそでしょ、なにそれ。えええええ!?」
「それについてはのちほど検証するといたしまして、ひとまずここから去りましょう」
はっとする。そうだ、ぼやぼやしてはいられないのだ。急いで鏡の扉を閉めようとした矢先、大王が言った。
───あー疲れた。して西崎なる男は、このあと何人目に来る予定なのだ?
役人男子が書類の束をめくりながら答える。
「……はい。千三百二十二人目でございます」
面倒くさ、とささやく大王の声が聞こえたのは、わたしの気のせいかもしれない。それに続き、どんな男なのかと大王が訊ねた。
「調べによれば、罪名のすべてを背負ったような男です。しかも、執着して恨んでいる者がおるようで、向こうの役人の調べではかなりしつこい恨みのようです」
───それまた面倒な男だ。誰をそんなに恨んでおるのだ。
役人男子がきっぱりと答えた。
「娘のようです。子孫にかけてでも自分のものにしてやると、どうやら誓っておるようでございます」
くだらぬと笑った大王は「次!」と声を荒らげ、手を叩く。またもや銅鑼の音がこだまする中、大柳雄一郎の連れて行かれた扉とは別の鬼面の扉が開く。そこでやっと、わたしは鏡の扉を閉じた。そうする自分の手先が震えていることに気づく。
これはわたしの勘にすぎない。でも、とってもとっても嫌な予感がする。
そもそもさ、似てるなあって思ってたんだよ。ってか、似すぎだろってくらい似てるんだよね。
ま・さ・か……?
「ハ、ハシさん」
「はい?」
「い、いきなりなんだけども、西崎って独身?」
「はて、どうだったか。生涯独身のはずですけれども、ずいぶん前には外に女性を囲っていたという噂でございましたよ。いわゆる内縁の仲ですな。その方は筆が無くなる以前、他界されていたような話を聞いた覚えがございます」
「そ、それでその、子どもさんとかは……?」
「お二人が別れる前より、男のお子さんがいたはずですなあ。女性が引き取ったものの他界なさったのちは、いかんせん両親のいない子になってしまいましたから、どこぞのお寺の住職が養子にしたような……」
「え」
はい、それガチです。間違いない気がします。ってか、マジか。どうしよう、ものすごく娑婆に帰りたくない。
だって、西崎の子孫って、絶対あいつだもん
――わたしの天敵、村井衣心だもんね!