捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ68
廊下にクローンチームを待たせて、礼鈴さんは部屋に入って来た。ふわりとただよう甘すぎる香りにうっとり……じゃない。
「それで?」
なまめかしい眼差しに思わず吸い込まれそう……じゃなくって!
「あなた、ヤマさまを怒らせましたわね? あなたの噂でもちきりですわよ。人間界から来たお嬢さんに、ヤマさまがひっかきまわされていると。あの方もいったいなにをしているのやら。力づくでどうにでもできるでしょうに」
そうなったらいつでも殴るつもりでいることは、内緒にしておこう。
「わたくしになにか教えて欲しいことがあるとか? いったいなにを知りたいのかしら?」
「ヤ、ヤマどのさまにうまいこと対応する方法と言いますか、そんなような感じのことを教えていただけたらなあと思いまして!」
礼鈴さんがじっとわたしを見つめる。と、ふいに唇を弓なりにさせた。
「嘘ね」
「えっ」
礼鈴さんが近寄って来た。こちらを見透かすような目が怖い。
「うっ、嘘ではないです」
「わたくしには、嘘をつかなくてもよろしいのよ?」
「う……」
完全にバレてる。もうなにもかもぶっちゃけちゃって、直球で訊いてもいいような気がしてきた。どうしようかと迷っていると、礼鈴さんが口火をきる。
「わざわざわたくしを招いてまで、いったいなにを知りたいのかしら? ヤマさまのこと? それとも、わたくしたち女官に生前の記憶がないことかしら?」
「え!」
先にぶっちゃけられてびっくり。目を丸くするわたしを見つめながら、礼鈴さんは苦笑した。
「玉瀾は口が固いけれど、気に入った方にだけはおしゃべりになるのよ。きっとあなたを気に入って、あれこれと話していたのでしょうね。困った子だわ」
「玉瀾ちゃんは悪くないんです。わたしがあれこれ詮索したから、しかたなく教えてくれただけで……」
「玉瀾を責めるつもりはないから、かばわなくてもよろしいのよ。秘密というわけでもありませんもの」
あ、そーなの? だったらちょっと安心……じゃなくって!
「じゃあ、あの。ここにいるみなさん、全員そうなんですか?」
「女官はそうですわよ」
あっさり返答すると、にんまりとした笑みを向けてくる。
「ただ日々の記憶が薄れていくだけのことですもの。なにも恐ろしいことはありませんわ。そうして、ヤマさまのお世話をしてたくさん子を生み、平和に暮らしているだけです」
えっ、ちょっと待って。それって平和? わたしの困惑を察したのか、礼鈴さんは言葉を続けた。
「寝食に困らないですし、ずっと若く美しいままでいられる。こんなに恵まれたことがあるかしら? 人間界の方々は、貧困や病、老いなどの苦しみから避けることはできないというじゃございませんの。そんなの、わたくしは耐えられませんわ」
「じゃあ、あなたは生きてたころの記憶がなくても、全然いいってことですか?」
思いきって訊ねると、礼鈴さんはきっぱりと告げた。
「ええ。わたくしには不要よ」
「それじゃあ……たとえばですけど、記憶が戻って自由になれる方法があったとしても、ずっとここにいたいってことでか?」
礼鈴さんの顔から、笑みが消えた。
「記憶はなくてもどのような人生を歩んでいたのか、心のどこかでは察しているものよ。わたくしは他人に雑に扱われる、虫けらのような女だったのだと思うわ。それでもこの美貌を武器にして、なんとか生きていた気がするの。
「で、でも……! そんな気がしているだけで、本当のことはわからないんですよね? 違うかもしれないし……」
「いいえ、わかるの。予感のようなものでね。思い出したらがっかりするようなどうしようもない女よ。それがわたくしの過去。きっと、わたくしの過去だわ」
冷笑する。
「過去のことなど知りたくもない。それに、自由になってどうするのです? この宮殿の外へ放り出されてしまったら、そこは文字どおりの地獄なのですわよ」
有無を言わせない声音だった。
自分の過去を拒否する人がいるということに驚き、同時になんだかやるせなくなる。
しょんぼりとうつむいていると、礼鈴さんは息をつく。
「ねえ、あなた。あなたの知りたかったことって、まさかこんなことでしたの? お若いのね、本当に」
そう言った礼鈴さんは、バカバカしいとでも言わんばかりに背中を向け、扉に手をかけた。いや、違んです! とっさに彼女の袖をつかみ、思わず直球で訊ねてしまった。
「だ、大王のお部屋の水桶の底に、どうやったら会いたい人が映るのか、知りたいんです!」
♨️ ♨️ ♨️
方法。
まず、はさみで自分の髪をちょっとだけ切る。それを水に散らし、指で円を描く。次に、呪文を唱える。呪文は意味のわかんない言葉だったけれど、天井にいる雨市チームが覚えていてくれるはずだ(ほんと、いてくれてよかった)。その間も指は動かし続けなくてはいけない。そうしていると、やがて渦の底に見えてくるそうだ。そこで、円を描くのを止める。
「ありがとうございました!」
体育会系のノリで身体を折り曲げ、頭を下げて礼を告げる。
「おかしな方。こんなくだらないことを知りたいだなんて」
礼鈴さんが苦く笑う。記憶のない礼鈴さんには、くだらないことなんだ。その事実がめちゃくちゃ切ない。だって、会いたい人がいるかもしれないのに、そのことすら思い出せないってことだもの。
ため息をつくと、礼鈴さんが冷ややかな視線を向けてくる。
「あなたには会いたい方がいらっしゃるのね。せいぜい記憶のあるうちに、目に焼き付けておくとよろしいわ。でも、ヤマさまにかわいらしくお願いすればすぐに見せてくださるわよ? まあ、怒らせたあなたには難しいことかもしれませんけれど」
はい、そのとおりです。
とにかく、ミッションは完了した。もう一度お礼を伝えたとき、礼鈴さんがささやいた。
「きっと、あなたはネズミね」
ん?
「えっ、ネズミ?」
「あなた、ヤマさまの筆をご存知でしょう? そもそもはあなたとあなたのお仲間が見つけたとか?」
「そ、そうですけど……」
ふふふと礼鈴さんが笑う。
「あの筆をヤマさま以外の者が使うと、その者の内面を勝手に描いてしまうの。だから、もしもあなたが使ったのならネズミかなと思っただけ」
「えっ!?」
この宮殿に来る前、一度だけみんなであの筆を使った。わたしはそのとき、まさにネズミを出してしまったのだ。
「な、なんでわかるんですか!?」
たしかに一度だけ、みんなであの筆を使った。わたしはそのとき、まさにネズミを出してしまったのだ。どうして礼鈴さんはそれを知ってるんだろう?
目を丸くした礼鈴さんは、一呼吸おいてから笑い出した。
「まあ! あなた、あの筆をお使いになりましたの? あれはヤマさまが閻魔大王となって、裁判の最後に署名をする大事な筆でございますのよ。それなのに、困った方! あらあら、そうですの。本当に、まさかネズミとは……!」
口元を袖でおおって、クスクスと肩を揺らし続ける。
「すべてのものには、ちゃんと意味がありましてよ。ご存知?」
そうなんだ!
「い、いいえ」
どうやらあれには意味があるらしい。たしかにハシさんも、「心醜き者の手にあれば、巨大な獣が筆の先より姿をあらわす。美しき者であれば、華やかなりし桜が散る」とかなんとか言っていたけど、もっと突っ込んだ意味があるんだ!
だったらぜひとも、知りたいです!
「ネ、ネズミの意味はなんですかっ!?」
礼鈴さんにしがみつくと、「いやだお離しになって」と振り払われる。いやいや、教えていただけるまではお離しになれませんので!
「教えてください!」
「まったく! わかりましたわ。わたくしにはどうでもよろしいことよ。いいから、落ち着きなさい!」
叱られた。はい、すみません。
手を離してうなだれると、礼鈴さんは袖の皺を伸ばしながら、さらりと言った。
「己の身だけを案ずる未熟者が、ネズミですわよ」
「えっ」
「周りの好意に気付けず、己の力のみで生きようとする。それはさもしい、愛を知らない未熟者のネズミ」
うっ……! 身に覚えがありすぎてめっちゃ刺さる! 思わず胸をおさえてしまった。
「そ、そうっすか……。それじゃ、ほかは? ほかにもありますよね?」
面倒そうに息をつきつつ、礼鈴さんは教えてくれた。
「ございますわよ。悪意に満ちし者は、地を這う獣。命を粗末にする者は、羽を持つ獣」
心臓が波打った。命を粗末にする者って、雨市だ。
「純粋な心の持ち主は、はかなき星の花」
「星の花?」
「花をかたどった炎のことよ」
花火のことかな。だったらハシさんだ。ああ、なんかわかる。
「誰かを深く愛する者は、桜。そして」
礼鈴さんはわたしに背を向け、扉に手をかける。
「仏の心を代弁する者は、蝶」
肩越しに振り返り、わたしを見た。
「……もうよろしいかしら? おかしなことばかり話してしまったわ。今夜のことは、ヤマさまには内緒にしておきましょう。なにが逆鱗に触れるかわかりませんし、触れてしまったらまた嵐になってしまう」
「は、はい」
うなずくと、礼鈴さんは意味深な笑みを見せた。
「あなたがどんな方が少しわかって、面白かったわ。それにしても妙ですこと。阿弥陀さまの使者であれば筆から蝶があらわれるはずですのに。ネズミだなんて」
たしかに。
わたしはやっぱり、使者じゃないのかもしれない。そうだとしたら、雨市たちを極楽に行かせるなんてめちゃくちゃ無理だ。
不安におそわれていると、
「わたくしがお世話したあの殿方も、たいした殿方じゃありませんわね。ネズミのあなたを好いているんですもの」
礼鈴さんが言い放つ。雨市のことだ。
「己の身だけを案ずる者と恋仲なうえ、わたくしの誘いを断るだなんてどうかしているとしか思えませんわ。もっとも、ヤマさまに堂々と嘘をついた方ですし、その嘘が本当かどうか調べろとヤマ様に頼まれたからそうしただけのことですから、べつにどうでもよろしいのですけれど。とにかくおかしな方たちね。あなたも、あの殿方も」
そう言って、礼鈴さんは部屋を出て行った。
閉じられた扉の前で呆然としていると、
「おい、ネズミ」
いきなり頭上から、笑みをこらえたような雨市の声がした。
「うっ……。それはやめてください」
ほんと、お願いします。
「いやあ、言葉の端々に棘のあるいい女だねえ。すっかり汚れちまった、まさに女の中の女だ。ああいう女を腐るほど見てきたよ。見すぎてきたせいでいまにも吐きそうだ」
天井から顔を出す雨市の横から、竹蔵がのぞいてくる。
「ツバキさんに遠まわしでいやみをおっしゃるのは、大王さまを愛しておるからでしょうなあ。……よいですなあ、愛」
ハシさんの声だけがする。
「えっ? 遠回しのいやみ?」
「おまえに妬いてんだよ。だから、どんな娘か知りたくて来たんだろうな」
「そんで結局、たいした娘じゃなかったって言う……?」
雨市が笑った。
「ネズミを出したあんときはあんときだ。いまは違うかもしれねえだろ? 人間は変わるもんだ。いちいち真に受けんじゃねえよ」
雨市に慰められても、成長してるっていう手応えが自分でもまったく感じられないから、なんとも言えない。
「でもさ。仏の心を代弁する者は蝶なんだよ。もしもわたしが使者だったら、あのときだってそういうの出してたよね? だから、やっぱわたしじゃないんだよ」
なんとなくその気になりはじめてたけど、やっぱ違いましたみたいなオチの方向もあるんだよね。むしろ、虫を叩いちゃったせいで極楽の方々からスルーされてるんじゃなくて、そもそも使者じゃないからスルーされてるのかもしれないんだよね。
そうだとしたら、わたしの肩書きゼロだよ。雨市たちを極楽にとかめちゃくちゃありえないじゃん!
「もしも違ったら……なんかごめん」
「あ? なに言ってんだ、くだらねえ」
「え」
「あのなあ。おまえが使者だろうがなんだろうが、どうでもいんだよ。おまえはおまえだろう」
「そうだけどさ。でもなんか、ガッカリ感がハンパないっていうか」
たくさん助けてくれたのに、極楽に行かせられなくてごめん。ただのなんもできない女子高生で申しわけない。お金欲しさに来ちゃってごめん。いっぱいごめんと心の中で繰り返す。
繰り返すことしかできない、こんな無力な自分をノックアウトしたいわ。ガチで!
「おい、ちょっと背伸びしろ」
いきなり雨市が言った。なんだろうと思いつつ背伸びをすると、腕を伸ばした雨市が、わしわしとわたしの頭を手でかき混ぜた。それで、最後につんと後頭部を軽く押される。
「おまえはいいやつだ。俺が惚れたんだ、自信持てよ」
そう言って腕を引っ込めると、「じゃあな」と通風口を塞いでしまった。
「戻るの?」
もう返事はなかった。素早すぎる。
励ましてもらっちゃったけど、かつてないほどにヘコんでて元気になれそうもない。こういうときは寝るにかぎる。とりあえず女官の制服を脱ぎ、下着になってベッドに潜った。
まあいい。使者じゃなくても、そんな肩書きがなくても、こうなったらなんか、みんなを極楽へ行かせるほかの方法を、ゴリ押しでもいいからひねり出そう。
「そうだよ、そうしよ」
寝返りをうって、ふと気づく。
「あれ? 夜食はどうした?」
まずは食べたい。腹が減ってはいいアイデアも浮かばないもんね!