捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ66
「そいつは、ただのぞくだけでいいのか?」
「それが、なんか違うっぽい。きっと大王が知ってるよ」
わたしの返答に、雨市はしょっぱい顔をした。
「ややっこしいなあ。じゃあ、あれか。なにか呪文みたいなもんがいるってことか?」
「わかんないけど、たぶん」
視線を落した雨市は、思案するかのように指で頬をなぞりつつ、唇をとがらせる。
「そりゃ会わしてやりてえけど、あの男にはなんの義理もねえからなあ。いまさら責めるつもりもねえし、女房に会いたかったっつう気持ちもわからなくはねえけど、もとを正せば全部あいつのせいだしなあ……」
雨市はさも面倒そうに顔をしかめた。だよね。なにもかもおっしゃるとおりっす。
すでにわたしの「女官になります書面」を盗むだけで、いっぱいいっぱいなのだ。そのうえで、遠野さんを奥さんに会わせるなんて、ミッション盛り過ぎだもんね。
「なんか、すんません。ちょっと思っちゃったもんで……」
気まずさのあまり小声で謝ると、しばし沈黙した雨市は、おもむろに立ち上がって腕を組んだ。わたしを見下ろすと、念を押すかのように口を開く。
「あの水桶に、会いてえ人間が映るんだな?」
「ヤマどのが言ってたから、間違いないよ。でも、ちょっと思いついただけだから、この件はなかったことに――」
雨市はニヤッと笑って、わたしの言葉をさえぎった。
「まあ、べつにいいぜ。方法ならあるしな」
「えっ!? い、いいの?」
「ああ。ここが人生の最期だし、あの男も思い残すことが少ねえほうがさっぱりすんだろ」
そう言うと、含みのある笑みを浮かべた。
「ほ、方法ならあるって、どうするの?」
「んなもん、礼鈴とかいう女に訊きゃあいいだろ。あいつは大王のお気に入りだし、なんだって知ってるさ。それに、大王のお気に入りは、俺に色目を使いやがった。だから、牢に戻ったらおまえの手下のハイコウに頼んで、あいつを連れて来てもらう。そうすりゃなんでもしゃべるだろ」
「へ?」
ちょっ、ちょおおっと待ってください? おかしなポイントが二つほどあるんですけど!
その一。まず、ハイコウはわたしの手下ではない。そういうふうになっちゃってるしべつにいいんだけれども、断固違う。
その二。なんで礼鈴さんを牢に呼びつけたら、すぐになんでもしゃべってくれるみたくなっちゃうのでしょーか? 牢に連れて来られただけの礼鈴さんに「会いたい人を水桶の底に映すには、どうすればいっすかね?」って訊いただけで、ほいほい教えてくれるわけないじゃん。
だから、もしかすると雨市は礼鈴さんに、逆に色目を使って口説くみたいな方向で聞き出すつもり……じゃないっすよね!?
「う……雨市さま? いまなにか重要な部分をすっ飛ばして、わたしにしゃべってはおりますまいか?」
「口調どうした。政治屋の秘書みたいになってんぜ」
苦笑する雨市の腕に、よろめきながらしがみつく。
「い、いや……ちょっと気がかりなことがありましてですね?」
疑問をぶつけると、雨市はニヤニヤしながらわたしを見つめた。
「しゃあねえだろ。それしかねえもん」
「ええ!? じ、じゃあ、いいでっす! そんなことをしていただきたくはないので、さっきのわたしの提案はすべて忘れる方向で!」
頼みますと、両手を合わせた。すると、雨市にその手を握られる。
「へえ。やきもちか?」
「なにさ! そおーですよ、そのとおりですよ。だからどうした!」
わたしの手を軽く引っ張り上げ、顔を近づけた雨市は、さも楽しげにくすくすと笑う。
「な、なにさ!」
「でもよ、おまえは遠野さんを、奥さんに会わせてやりてえんだろ?」
「そーだけど。だからって雨市がそのために、あの色気女子に色目使うとかはダメ、絶対!」
口をとがらせて訴えると、雨市が吹き出した。
「ぶっさいくな面しやがって。わかりやすいっつうか、なーんにも隠さねえっつうか。アホな娘だな、ほんとによ」
雨市の顔がアップになった。
「な、なにさ!」
嬉しそうな顔つきで、にやっとされる。それで、頬にちゅっとされた。ってか、なんで!? いまそういうタイミングじゃなかったよね!?
「ちょっ! いやいやいやいや、いまのはなにさなんなのさ? この流れでそれはおかしいでしょ!」
ちゅーで全部クリアってか? いやいや、騙されないよ、わたしはね!
「ニヤついた顔してんぞ」
すっかり忘れてたけど、そういえば雨市ってこういう男子だった。こういう男子っていうのはつまり、女子の気持ちを手のひらで転がすのがうまい(認めたくはないけども)っていうことだ。
なんかムカつく! でも好きだからさらにムカつく!
「と、とにかく。ほかの女子への色目禁止だよ! そんで、遠野さんと奥さんのことはスルーで。スルーの意味はすでにおわかりだよね?」
「ああ、おわかりだ。無視しろっつうんだろ」
そうです! 鼻息を荒くしてうなずくと、雨市は笑みを消してわたしを見すえた。
「おまえをからかっただけだ、あの女に色目は使わねえよ。けど、水桶のことは無視できねえな」
「へ?」
なんでだ? 首を傾げたら、雨市にいわれた。
「遠野さんのためじゃねえ。おまえのために聞き出してやるよ。母さんに会わせてやる。会いてえだろ?」
びっくりだ。遠野さんのことしか言ってないのに、なんでわたしのことにまで考えがおよぶんだろ。
「えっ」
「会いたくねえのか?」
優しい眼差しで見つめてくる。もちろん、会いたい。会いたいけど、わたしよりも遠野さんのほうが、何倍も奥さんに会いたいんじゃないかなって思いついちゃったから、雨市に提案しただけなのに。
「……そう、だけどさ。でも、なんで?」
「なんでって、なにがだよ」
「いや。なんか。ちょっとびっくりしたっていうか。わたしはそこまで、あんま考えてなかったから」
雨市が笑った。
「そりゃあ、おまえのことはなんでもお見通しだからに決まってんだろ。せっかく地獄くんだりまで来ちまったんだ。ちっとは娑婆にお土産持ってってもらわねえと、こっちの世界の住人としてもすっきりしねえしな。今夜中になんとかするから、待ってろ」
そう言葉をきると庭園に視線を向け、周囲をうかがった。
「あの部屋に大王がいなくなる裁判中にのぞけば、やっかいなことにならねえだろ。さて、そろそろ戻るとするか」
そう言った雨市が背を向けた瞬間、思わず服をつかんでしまった。
「どうした」
立ち止まった雨市が振り返る。とっさにつかんだものの、自分でもその理由がいまいちわからない。
「……いや、なんか」
たぶん、もう少しだけ一緒にいたかったのだ。いや、たぶんじゃなくて、ガチでそういうことだ。身体が勝手に動いてしまって、ものすごく恥ずかしくなってきた。
わたし、めっちゃ女子っぽい。最高に女子っぽいことしてる!
「どした?」
子どもをあやすみたいな甘ったるい声で、雨市に訊かれた。役人制服から手を離すのだ、山内! 脳内から指令を出しても、右手の感覚だけ独立したみたいになって言うことをきいてくれない。
「まさか、もちょっと一緒にいたいのか?」
さすが雨市。そのとおりです。
「うっ……と、まあ。そういう感じです」
甘えてるっぽくなってる。自分の女子っぽさがめちゃくちゃ照れくさいし、こそばゆい。それなのになんでか嬉しくなったりもして、わけのわからない気持ちにおそわれたあげく、ヘンな汗が額に浮いてきた。でも、雨市を引き留めている場合じゃない。竹蔵は女校長の部屋を探してくれているのだし、ハシさんもみんなの帰りを牢で待っているはず。それに、わたしだって捜索されている身なんだから、そろそろ部屋に落ち着いて息をひそめるべきだ。まあ、クローンチームが扉の向こうにいなければっていう、条件付きではあるけれども。
まばたきもせずわたしを見つめる雨市が、苦しそうに眉を寄せた。
「もう少し、俺と一緒にいたいんだな?」
なぜか念を押される。
「う、うん……けどさ、そう思ったけど、そういう場合じゃな」
いよね? と最後まで言わせてもらえなかった。そう言う前に雨市に腕を引っ張られ、これ以上ないほど強く抱きしめられたからだ。
頭も手のひらで包まれ、雨市の肩のあたりに額がくっつく。いきなりすぎて、心臓がハンパないほど高鳴っていく。どくどくする自分の鼓動が、がんがんと鼓膜でこだました。
どうしよう。もうちょっとしゃべりたかっただけで、まさかこの体勢になるとは予想できなかった。息苦しくて、ちょっともがく。いまだかつて、こんなに強く抱きしめられたことはない気がする。雨市の腕には、わたしを自分の身体の中に押し込もうとしてるみたいな強さがある。怖くはないけど、いまにも口から心臓が飛び出しそうだ。
「椿」
「……へ、へえ」
テンパりすぎて、返事が時代劇の町人みたいになってしまった。間抜けすぎる。
「さっきまでは、スルーするつもりだったんだからな、正直なとこよ」
スルーの使い方がうまくなってる……とか、感心してどうする。
「ス、スルー?」
さらに、腕の力が強まった。
「黙って、なんにもしねえで戻ろうとしてる俺を、引き留めたのはおまえだからな。しかも、ちょっとかわいいことしてよ」
確かに、女子っぽいことをしてしまった。それは認めよう。引き留めたことについて謝ろうとした矢先。
「椿」
「う、うむ」
雨市と目が合った瞬間。
「抱かせろ」
……はい?
「……だ?」
そ、空耳? いや違う。しかも、百パーの確率で、ハグな方向じゃないのもさすがにわかる。じっと目を見つめられて、なんとも答えられずに固まっていると、幹の影からうらめしそうな声がした。
「あらあら、いいご身分の旦那がいるよ。人が必死こいて女に混じってあちこち動きまわったあとで、さてあの腐れた牢屋に戻ろうかってときにさ、この旦那は若い娘を抱こうとしてるんだから呆れてなんにも言えないね。いますぐうしろから斬りつけてやろうか」
あきらかにキレ気味の竹蔵の声だった。腕をゆるめた雨市はがっくりうなだれ、両手で顔を撫でつつ恥ずかしそうな声音でつぶやく。
「……うそだろ。泣きてえよ」
雨市のうしろにある木の幹から、竹蔵がぬうっと顔を出した。
「恥ずかしいだろ? 穴があったら入りたいだろうねえ。掘ってやろうか?」
「いらねえよ」
舌打ちをした雨市が、竹蔵を振り返った。
「なんなんだよ、おい。通りすがりか? だったら気を利かせろよ、わかるだろうが」
ものすごく切実な口調だ。そしてわたしは、ほっとしてるのが八割り、残りの二割りはなんかがっかり……ってなにこの感じ!
「は? なーんにも聞こえないね」
女官姿の竹蔵がすっとぼける。さらにうなだれた雨市は、それはそれは深いため息をついた。
「……もういいぜ。で? おまえはなんでここにいるんだよ」
腕を組んで幹にもたれた竹蔵は、「女校長の部屋がわかった」と答えた。玉瀾ちゃんは見つからなかったものの、女官たちに偉そうに指示している大人女子がいたのであとを追ったら、それが女校長本人だったらしい。
「けど、あそこの扉は鬼の面だよ。あれは出入りしてもいい人間を選んで開けてるだろ?」
そういえば、そうだった。っていうか、それってマジ?
「あの扉って、そうなんだ!」
竹蔵が苦笑した。
「鬼の目が動いてんだから、おそらくそういう扉だろうさ」
イリュージョンだらけな宮殿だもんね。たしかにそんなの朝飯前だった。
「窓はねえのか?」
雨市に訊かれた。
「うん。窓はないよ。それは覚えてる」
「……八方ふさがりか」
ため息まじりに雨市がつぶやいたときだ。
「上から攻めても、よろしいですなあ」
いきなり天から声がして、三人同時に飛び上がる。あたりを見まわすと巨木の幹に、ちょこんとしゃがんでいる人影があった。枝葉をよけて顔を出したのは、スーツ姿に手ぬぐいでほっかむりをしたわたしの師匠――ハシさんだった。
ってか、いったいいつからそこにいたの!?
「ハ、ハシさん!?」
枝に手をかけたハシさんは、音もたてずにするすると幹からおりてきて地面に着地し、にっこり微笑んだ。
「屋根裏、という手がございます」