捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ65
物置部屋から廊下へ出たとたん、こちらに向かってくる女校長クローンが見えた。条件反射で竹蔵の服を引っ張って部屋に隠れ、閉じた扉に耳をあててみる。すると、通り過ぎる二人の会話がうっすらと聞こえた。
どうやら宋帝王に頼まれて、わたしを探しているらしい。大王に失礼なことをしたあげく部屋にもおらず、宮殿内で行方不明になっていることに対して、二人はめちゃくちゃ憤慨していた。
「おやおや、あんたを探してるみたいだね。それにしてもあんた、いったいなにをしたのさ?」
「説教……かな?」
竹蔵は口を手でおさえ、ククッと笑った。
「閻魔大王に説教できるのは、極楽世界の仏さましかいないと思ってたよ」
だよね。わたしもそう思うよ。
「でもさ、わがまま放題で頭にきたんだよ。けど、なんでも自分の思いどおりになって、そのうえ永遠に生き続けるとかなったら、自然とあんな感じになっちゃうのかなあ」
竹蔵は笑みを消して、口から手を離す。
「……さあねえ。なんとも言えないけど、それはそれでかわいそうっちゃあかわいそうだねえ」
「かわいそうって、なんで?」
「永遠にダラダラと生き続ける人生なんざ、アタシは願い下げだよ。いつか終わると思うから、どんなに苦しいことがあっても精一杯生きていけんだろ。それが叶わないってのは、地獄以上の苦しみだよ。だからかわいそうだと言ったのさ。まあ、同情はしたかないけどね。けど、目に映る景色がずうっとなんにも終わらず永久に続いてくなんて、想像しただけで吐きそうになっちまう。地獄へ行ったって五百年もすりゃ解放される。そっちのほうがまだマシだよ」
「え、五百年!? それ、マジ?」
それだってじゅうぶん辛いじゃん!
にやっと笑った竹蔵は、わたしの頬をぺんぺんと手のひらで優しく叩く。
「あんたも来るかい? 待っててやるよ」
会いたいのはやまやまだけれども、そっちの方向はできれば遠慮したい。
ああー、竹蔵もハシさんも雨市にも、本気で極楽に行ってもらいたいよ! でも、虫さまの一件のせいで、極楽ワールドから総スカン決定のわたしには、もはやどうにかできる術はない。最悪だ。
クローン二人組の声が、扉越しに遠ざかる。竹蔵がそっと扉を開けた。
「さて、とりあえずあんたは部屋に戻って、どっかに隠れてじっとしてな。戻り方、わかるかい?」
「まあ、うっすらとなんとなく……けど、竹蔵はどうするの? やっぱ玉瀾ちゃん見つけて、女校長の部屋まで案内してもらったほうがいいと思うんだけど、玉瀾ちゃんの顔知らないでしょ?」
「こうして女官の格好してんだから、新米のふりして潜り込んで探すよ。大王に目をつけられたあんたと行動するよりマシだろ」
うっ……はい。ごもっともです。うなだれた瞬間、はっとした。
「あれれ? 竹蔵、草履じゃん。女官の靴じゃないからバレるよ」
「ならいっそ脱いじまうさ。ほれ」
脱いだ草履を渡された。いや、じゃなくて!
「えええ?」
「ここには千人以上の女官がいるんだとさ。遠野さんに聞いたよ。どっかでてきとうになんとかするから、心配しなさんな」
「え! 千人以上もいるの?」
「みたいだねえ。でかい女も何人か見たことあるって遠野さんが言ってたから、アタシでもなんとかなるだろうさ。まあ、ヤバそうになったらすぐにうまいこと逃げるよ。そういう経験はたんまりあるからね」
にやっと笑った竹蔵は、「ちゃんと戻りな」と言って廻廊から中庭へ出、闇の中へと姿を消してしまった。
それにしても驚いた。ここには誰もいないのに、ここではないどこかでは千人以上の女官がわらわらと動きまわっているなんて。
「この宮殿、そうとうでかいんだな……」
まあ、宮殿だもんね。宮殿って、そういうもんなのかも。
「とにかく、ひとまず戻ろう」
鼻息荒くひとりごち、竹蔵の草履を手にして廊下を走った。
♨ ♨ ♨
雨の音も雷も風も止んだ。宋帝王の特製ドリンクのおかげで、大王の気分がおさまったらしい。
廻廊を渡って、記憶にありそうな廊下を行きつ戻りつしながら、やっと自分の部屋らしき場所を見つける。なんでそこが自分の部屋だと判明したかというと、扉の前にクローンチームがいたからだ。
廊下の角から顔を出してすぐに隠れ、二人がその場からいなくなるのを待つ。二人はなにやらこそこそとしゃべり、そのうちに諦めたのか扉から離れて立ち去った。なんとしてでもわたしを捕獲したいらしい。
「ストーカーみたいだ……」
そうつぶやいたものの、いまさら逃げる場所もない。
「とにかく、この湯上がりスタイルを着替えよう」
そっと部屋に入る。テーブルの下に竹蔵の草履を押し込み、急いで女官制服に着替えた。
竹蔵の今夜の目的は、女校長の部屋を発見することで書面を盗むことじゃない。だけど、そもそもあの場所をわたしがちゃんと把握できてたら、こんな面倒をみんなにかけずにすんだはずなのだ。
「いまさらだけど、ちゃんと覚えておくべきだった……!」
頭を抱えて身悶えながらベッドに腰掛けたとき、突然扉がノックされた。竹蔵はこの部屋を知らないから、竹蔵じゃない。玉瀾ちゃんは、もうお世話係ではないから、玉瀾ちゃんでもない……ってことは?
間違いなく、女校長のクローンチーム。なんというしつこさ!
もう一度ノックされた。ベッドに身を隠そうかと思ったものの、いっそのこと外に出ちゃったほうがいいかも?
「よし、そうしよう」
とっさに窓を開けて、地面に着地する。背伸びをして窓を閉めてから、庭園めがけて一目散に駆けた。
空にはこれ以上ないほど美しい月が浮かんでいる。雨に濡れた木々の枝葉が、月明りを浴びて淡く光っていた。走ると靴が地面にぬかるむ。そこら中、雨上がりの土のにおいが充満していた。
自然のにおい。娑婆の、お寺の裏山と同じにおいだ。
誰もいない庭園で立ち止まり、深呼吸をしたときだ。草を踏みつぶす音が聞こえて、はっとして周囲を見まわす。北の方角からこちらに向かって走る人影が、視界に飛び込んだ。慌ててその場から逃げたものの、役人らしき輪郭の人影は、ぐんぐんと距離を縮めてきた。
やみくもに走っていると、今度は前方の南の方角に、二体の鬼コスプレを連れた人物が見えた。ってか、めっちゃ宋帝王っぽい。これはマズい!
ひいっとうしろにしりぞいた直後、ぐいと背後から腕を引っ張られる。あまりに突然のことで暴れる間もなく、口を手でふさがれ、巨木の幹の陰までずるずると引きずられてしまった。
なになに何さ! ってか、誰!?
声を出して助けを呼びたいところだけれど、そうしたところでいったい誰が助けてくれるって言うんだろ。そう思ったら苦い笑みをもらしそうになる。いや、笑ってる場合じゃないから!
「……うぐぐ」
この役人も宋帝王の使いっぱしりとかなのかな。でも、だとしたらなんで宋帝王から隠れるみたいなことしてんだろ。背後からわたしを羽交い締めにして、なにをどうしたいのだ? 謎過ぎてしかめ面になると、わたしの口をふさぐ手に力がこもる。耳元に唇が寄せられた気配を感じたとたん、ささやかれた。
「落ち着け、俺だ」
雨市だった。ぎょっとした直後、二体の鬼コスプレを連れた宋帝王は、わたしと雨市が隠れている樹木の近くを通り過ぎると、東に向かって去っていった。
姿が見えなくなったところで、わたしの口から雨市が手を離す。振り返ると、雨市の顔がすぐそばにあった。イリュージョンの櫛で伸ばした髪をきっちりとまとめていて、どこからどう見てもこの宮殿の役人そのもの。なんだか雨市じゃないみたいだ。
「か、髪長いね」
「魔術みてえな櫛のおかげだ。ありゃ面白れえよ。ハシさんも喜んでたぜ。それはそうと、大丈夫か?」
「えっ? 大丈夫って?」
間抜けなわたしの様子に、呆れた雨市は苦笑する。
「雷の音が牢まで響いてびっくりしちまったぜ。大王が怒ってるって遠野さんが言うもんだから、おまえになんかあったんじゃねえかと思って、どさくさに紛れて飛び出したんだぞ」
「どさくさ?」
「見張りの極卒も野郎どもも嵐だなんだで慌ててたから、俺のことなんて気にもしねえ。それにしても、ここは宮殿のくせに守りがゆるすぎだな。誰も外から入れねえし入るようなヤツもいねえだろうから、わからなくはないけどよ。いったん中に入っちまったら、出入りし放題だ」
そうだったのか。ホッとしたように息をついた雨市は、わたしの肩に額をのせながら言葉を続けた。
「大王を怒らせたってことは、おまえに傷がついてねえってことだろうな。まあ、無事ならどうでもいい。なんだっていいぜ、もう」
かなり心配してくれたらしい。
「うん。怒らせたけど、なんとか逃げきったよ」
雨市が顔を上げる。背後からまわされた雨市の腕が、少しだけ強くからまる。上目遣いでわたしをとらえる雨市の瞳が、闇夜の中できらめいていた。月明りに照らされたその顔があまりにもきれいで、胸がきゅっとなった。
「椿」
「な、なに?」
雨市が、くいとあごで空をしめす。
「見ろ。いい月だ。娑婆とおんなじ、ちょうどいい月だ」
たしかに、里下家のあったあそこの月は、大きすぎて不気味だったもんなあ。
「……うん、普通の月だね。でもなんでだろ。ここ地獄なのに」
「地獄も極楽も空はつながってんじゃねえのか。知らねえけどよ。大王の機嫌さえよけりゃ、こういう空なんだろうなあ」
濡れた地面も気にせず、雨市は左足を伸ばした。腕の力はゆるめずに、幹に背中を寄せて夜空をあおぐ。枝葉の間から見える真っ暗闇に浮かぶ満月が、わたしには娑婆につながる穴みたいに思えてくる。
お腹のあたりに添えられた雨市の手に、なにげなく自分の手を重ねたら、ぬくもりが伝わった。わたしの頬すれすれに顔を寄せて、月を見上げる雨市の横顔を見つめながら、このまま時間が止まればいいのになあと思う。そう思ったら、なんだか無性に胸が苦しくなって、視線を落す。すると、ふいに雨市が口を開いた。
「なあんだかなあ。もっといいもん、いっぱい見してやりたかったなあ。おまえによ」
「え? いいもん?」
「祭りに花火、満開の桜。夏は浴衣と風鈴だ。それから……飴細工。ああ、蜻蛉玉もきれいだな……きりがねえ。たくさん買ってやりゃあよかったなあって、ちっとばかし思っちまった。けど、あそこじゃねえんだよな。俺がちゃあんと生きてたころのそういうもんを、見してやりたかった。きれいなもんを片っ端から。おまえがいらねえって言っても、押し付けてやりたかったなあ……」
ひとりごとみたいに、雨市はささやく。それは絶対に叶わないことだ。しばらく黙ってうつむいていると、雨市の腕の力がかすかにゆるんだ。
「書面を盗んだら、そいつを地獄の炎に燃やす。地獄の炎ってのは、来たときに渡った橋の下のあそこだ。そのあとすぐ、初江王に娑婆に戻してもらえ」
「……うん。わかった」
娑婆に戻れるのは嬉しい。でもそれは、みんなと別れるってことだ。そうわかっていても、やっぱりめちゃくちゃキツイ。
だけど、まだそのときじゃない。自分だけ娑婆に戻って、めでたしめでたしなんてできない。
ああ、どうすればみんなを極楽に行かせられるんだろ。そんで、わたしにはなにがでいるんだろ。どうすれば、雨市も竹蔵もハシさんも、もちろんセツさんのことも、どうにかできるんだろう。
「椿」
うしろの雨市が、わたしをのぞき込んできた。
「泣いてんのか?」
わたしはぐいと、手の甲で涙を拭う。何度そうしても、涙はあふれる。かなりみっともない顔になってるのは想像がつく。
「……うん」
鼻水をすすりながら、子どもみたいにごしごしと拭っていると、こっちを向けと雨市が言った。
しゃがんだ格好のままのろのろと、雨市を振り返って両膝を地面につける。すると、小さな白い花を指で折った雨市は、それをわたしの髪に挿した。
「いまはこれが精一杯だな」
微笑む雨市に、両手をつかまれる。それから、雨市の唇がわたしのまぶたにかすかに触れた。だから、目をつむる。
キスをした。ちゅーとか人工呼吸とか言えない、きっとこれがちゃんとしたキスだろうっていうキスをした。
胸がありえないほど苦しくなって、だらだらと涙があふれた。そっと顔を離した雨市は、ちょっと苦笑してわたしを抱きしめた。
「……しょっぱかったぞ」
「だって、泣いてるもんね」
「俺も泣きたくなってきたな。けど、男児たるもの、泣いていいのは親の死に目だけつってな」
ぎゅっとされ、こめかみのあたりに口づけされた。
「泣きたいときは泣いていい。おまえはいっつも強えこと言って我慢しすぎだ」
「……うん」
生まれてはじめて誰かの前で、嗚咽をもらすほど泣いた。母さんが死んだときも、泣き崩れる大人たちを目にして泣けなかった。強くて偉いと褒められたけれど、ずいぶんたってからひとりで隠れて泣いたのだ。
雨市の腕の中は心地がいい。なんにも我慢しなくていいのは、わたしにとってはここだけかもしれないなんてふと思う。
「雨市」
「なんだよ」
「ありがどう」
「なにが」
「……わかんないけど。言っときたいと思って」
「なんだそりゃ」
はははと雨市は笑った。そうして笑いながら毛布を抱えるみたいに、わたしを抱きしめた。その背中に、わたしも腕をからませる。
いいものを、きれいなものを見せたかったと雨市は言ってくれる。でもさ、べつにいい。もうなんにもいらないよ。だって、きれいなものはもうわたしの腕の中にあるからね。
思い残すことはなんにもない状態で、娑婆に戻れたらいいな。出会った人たちのみんなが、願いを叶えてくれたらいいのに。そう思ったとき、なぜだか母さんのことが脳裏を過った。
そうだ。大王が指でしめしたあの水桶の底に、母さんはどんなふうに映るんだろう。
会いたい人は、どんなふうに映るんだろうな。
「……雨市」
「おう」
「あの、さ。大王の部屋の中庭に、大きな水桶があるんだ」
「ああ、そういやあったな。覚えてるぜ」
「あれの水の底に、自分の会いたい人が映るんだって」
「へえ? だからなんだよ」
雨市が優しい顔で見つめてくれるから、思わず言ってしまった。
「遠野さん、奥さんに会えるかもしれない」