捌ノ章
記憶を映す水の底
其ノ64
もしもここに隠しカメラが存在していたら、女子同士のあやしげなシーン発見みたいなことになるんだろうなあコレ……なんて、意識を散らしてる場合じゃない。
ってか、なんで? なんでこうなった!?
近づく竹蔵の顔から自分の顔を死守するために、背中の筋肉総動員でのけぞる。でも、竹蔵にがっつりと腰を抱えられているので、逃れようにも逃れられん。右手でドアを押さえ、左腕をわたしの腰にまわした竹蔵はにこりともせず言った。
「雨に濡れて寒いだろう、椿。けど、人間が二人いれば暖まることができんだよ。知ってるかい?」
「あ、あったまる……?」
「体温だよ」
ははあ、なるほどねー……って、納得できるかー! その前に自分の部屋に戻って着替えたほうが簡単でしょーが!
「いやいやいやいや、ないないないないマジで勘弁。そんな場合じゃないし、ヨーサイさんの部屋を探さないとだし! それに、雨市とハシさんだってどこにいるのさ!」
いるのかと訊ねる声が、しかめ面の竹蔵にさえぎられた。
「あんたはほんとに雨市が好きだねえ……まったく、しゃらくせえ」
男子の力はすごい。弱気になったわたしの身体を、竹蔵はいとも簡単に片腕で抱え上げ、ぐいと壁に押し付けた。
「いいかい、椿」
筋張った竹蔵の大きな手のひらで、ぐっとお腹が押される。肘を曲げたもう片方の腕が、わたしの鎖骨に軽く食い込む。
「あんたはどうせ、娑婆へ戻っちまう。だったらアタシには我慢することなんざ、ひとっつもないんだよ。雨市みたいに格好つけたところで、あんたにとってアタシはなんてことない親切な野郎で片付く男だ。それでもいいかと思ってたけど、明日どうなるのかもわからない身でいい人ぶるのは願い下げだよ、アホらしい」
額がくっつくほどの至近距離で、竹蔵は自嘲気味な笑みを浮かべる。そんな竹蔵の肩を握ったこぶしで押しやっても、元殺し屋の竹蔵に、わたしの力が通用するわけがない。
大王よりもやっかいだ。竹蔵の殺気で、全身がひりひりしてくる。生まれてはじめて誰かを、男子を怖いと思った。イジメられてたこともあるけど、あの頃はみんな子どもだったし、いまのわたしにとって男子は、蹴ればおしまいな存在だったのだ。もちろん、巨人大王を目にしたときには、そのありえない風貌とデカさにおそろしいと思ったけれど、いまの竹蔵ほどじゃない。
この人は、殺し屋なんだ。いままで人を――西崎すらも、斬ってきた人なんだ。
うつむくわたしの顔に、竹蔵の唇が近づく。それはいかん! いかんですよ!!
とっさに自分の口をその手で隠す。すると、竹蔵はにやっと笑った。
「……そうきたかい」
竹蔵の片肘が、胸の真ん中にずれる。長くてきれいな指先の手が、自分の唇を隠すわたしの手に触れる。それは冷たくて、ぞくりとした。
怖かった。でもどうしても、嫌いにはなれない。竹蔵が親切なことをたくさん知っているからだ。竹蔵は雨市の言うとおり、わたしの常識からは完璧にはみ出すクセのある男子だ。背中には仏さまの入れ墨を彫ってるし、娑婆でいうところのようするに、竹蔵はヤクザだし。
どんな人生を送ってきたかなんて、わたしにわかるわけもない。いや、真剣にわかろうとしたことなんて、一度もなかったかもしれない。
そうだよ。竹蔵の気持ちに答えられなくても、竹蔵のことを知ろうとするべきだったんだ。
それなのにわたしはいつだって、自分のことしか見えてなくて、雨市のことで頭がいっぱいで、竹蔵のことをちゃんと受け止めたことが、いままでたったの一度もなかったんじゃないのか。
ただ単純に頭を下げて、拒否すればいいと思ってた。その場を穏便にやり過ごして、スルーできればいいと思ってただけだ。そういうわたしの態度が竹蔵をイラつかせて、いまみたいなことをさせてしまっているのかもしれない。
こんな時になって気づくなんて。なんて未熟なんだろ。
竹蔵の手が、わたしの両手を包む。包まれた手はぐっと握られて、唇から離された。だけど、竹蔵はそのまま動きを止める。止めて、困惑したかのように眉をひそめ、うつむくわたしの目を見つめる。
「……なんで。なんで、泣いてんのさ」
視界がぼやけてるのはわかってた。それは、雨に濡れてる髪の滴のせいだと思ってた。でも、違う。違うってことも、本当はわかってる。
苦しかった。竹蔵の気持ちに答えられないこととか、なにもしてあげられないこととかが、頭の中でぐっちゃになって、胸がつまってやりきれない。
あなたはどういう人なのかと、向き合って訊ねたらよかった。その時間はたっぷりあったはずなのに、スルーして知らないふりをして無駄にしてしまった。それが苦しくて、いろんな思いがぐるぐるして、わけのわからなさが情けないことに、涙となってあふれる。
「……わかんない」
「わかんないって、なんだい」
「……怖いし」
竹蔵が冷笑した。
「そうかい。まあ、そうだろうね。これがアタシの本性だ」
嘘だ、そうじゃない。竹蔵をこんなふうに意地にさせているのは、ほかの誰でもない、わたしだ。
はがゆくて目を伏せると、竹蔵の手が頬に触れた。暖かい雨市の手とは違う、氷みたいな冷たさだ。
なんでだろ。突然、母さんのことを思い出した。病室に横たわる母さんの手も、そういえば冷たかった。眠っている母さんをゆすると、薄目を開けて微笑んでくれる。そのたびにわたしはほっとしたんだ。ああ、こんなこと、ずっと忘れてたなあ。いや、忘れてたんじゃなくて、胸のずっと奥のほうに引っ込めてきただけなのかも。それで、いつも母さんは、わたしにいったんだ。
――強い女の子になりなさい。
強い女の子? とわたしが訊くと、母さんはにっこり笑った。
「そうよ、椿。強い女の子っていうのは、芯のある優しい女の子のことよ。優しい女の子は、相手の気持ちを大事にできるの。お母さん、椿にはそういう女の子になってもらいたいわあ」
だからわたしはボクシングジムへ通うようになったのだ。でも、いまになって悟る。わたしはきっとその意味を、ずいぶん斜めに受け取って生きてきてしまったみたいだ。
竹蔵の唇が、わたしのそれに触れそうになる。はっとして顔をそらし、竹蔵につかまれた手をなんとか振りほどき、意を決して大きく腕を広げ、タックルするみたいにして竹蔵の背中にまわした。
これはある意味、戦いだ。ボクシングでたとえるならば、わたしと竹蔵のリング上の戦いなのだ。だとすれば、真正面からぶつかるべきだ。じゃないと、相手に失礼だからだ。
強い相手からひたすら逃げても、向こうは永遠に追いかけて来る。だったら、向かっていくしかない。ちゃんと受け止めるしかないのだ。
まぶたをぎゅうと閉じて、竹蔵の身体をぎゅうと抱きしめる。
「……な。なんだい」
「……竹蔵。ごめん」
竹蔵はなにもいわない。
「マジで。ホントごめんなさい、すまない!」
よほどびっくりしているのか、竹蔵はわたしの背中に腕をまわすこともせず、フリーズしていた。それはそうだろう。さっきまで嫌がって怖いとか言ってた女子が、逆にいきなり抱きついてきたんだから、そりゃびっくりもするってもんだ。
「……なん、でさ。なんであんたが、謝るんだよ」
「ときどき怖いけど、竹蔵は基本いい人じゃん。そうじゃなくさせてるのは、わたしだってわかったんだよ。だから、ごめんって言いたかっただけ」
竹蔵が押し黙った。
「いままでいっぱいごめん。竹蔵のこと拒否ることしか頭になくて、全然ちゃんと知ろうとしてなかったからさ。ほんとにごめん」
竹蔵がなにを思っているのかわからないけど、わたしはかまわずにぶちまけた。
「雨市のこと大好きなんだよ。でも、竹蔵のこともハシさんのことも、ちゃんと好きだよ。竹蔵にいまみたいなことされたら怖いけどさ、でも嫌いになりたくないし、やっぱなれないなと思ったんだ。いまみたいなことを竹蔵にさせた責任は、半分わたしにもあるんだって気づいたし、うまくいえないけど、なんていうかさ。つまり、三人のことが好き……てか、大事だってこと」
しんと、物置部屋が静まる。竹蔵の着ている女官の制服からは、ほんのりと白檀の香りがした。その肩に額を押し付けて、背中にまわした手で服を握り、まぶたを閉じて続けた。
「みんなと離れるのはさみしいけど、娑婆に戻ったら雨市のお墓作るって約束したんだ……ってか、そーじゃなくて違った。わたしが勝手に提案したんだった。あのさ、だから、ハシさんと竹蔵のお墓も立派なの作るよ。わたしの家、寺だからなんとかする。そんで毎日お参りするから、お盆には遊びに来てよ」
好きになってくれてありがとうと、心から伝えたくてしゃべってるうちに、自分がなにを言いたいのかわからなくなってきた。日本語にマジで不自由すぎる。娑婆に戻ったらたくさん本を読んで、ちゃんと勉強しよう(ついでに敬語も覚えたい)。
「わたしさ、いままでずっとただその場をスルー……っていうか、うまいこと無視することだけ考えてたんだ。竹蔵がわたしを好きだっていう気持ちをしめしてくれても、なんとか穏便に無視することだけ考えてた。だから竹蔵もイライラしたんじゃないかなあって思ったって言うか。それでこういうことに、なっちゃったのかなあ……、と。まあ、当たってないかもだけど」
うまく伝わったんだろーか。いまいち自信がないけど、竹蔵の着ている服をさらにぎゅと握ったら、うつむいた竹蔵の額が、わたしの肩にあたった。
「……あーあ、やれやれだ。あんたには毎度かなわないよ」
苦笑まじりな声音でささやく。
「嫌だ嫌だと嫌がられても、今度ばっかりは無理に抱いちまうつもりがこれだ。うまいこと丸め込まれてこのざまだよ、笑えるねえ」
ため息をついた竹蔵は、わたしの背中に腕をまわした。それで一瞬ビクついたけど、そうっと優しく添えられた腕の感触が伝わって、安堵する。すると、濡れたわたしの髪を手で包み、しみじみとした口調で竹蔵はつぶやいた。
「……いい女に、なっちまって」
「えええ!? そうなの?」
なにも変わってはいないけども? まぶたを開けた視界に、イリュージョンの櫛で長くなった髪を、きれいに結い上げた竹蔵の顔が映る。竹蔵はわたしの頭に手を置き、軽く抱きしめた格好で視線を宙に向けていた。
「……どこに行ってもどの女と遊んでも、誰ひとりアタシの気持ちを察するやつなんかいなかったさ。人間ってのは他人を見た目で判断する。背中に墨彫ってるだけで、こいつは危ねえって避けてくれんだ。それがアタシには気持ちよかったよ。女を抱くときだって一緒だ。そこに愛だの恋だのなんざ、まるっきり存在しやしない。女に嫌がれることもなかったけど、心底好かれてると思ったこともないね。ただいっとき、世間のくだらないことから忘れられりゃ、アタシも女もよかっただけさ。そういうの、なんていうか知ってるかい?」
さあ? と、眉を寄せてみる。ちらっとわたしを横目にした竹蔵は、ふたたび遠い眼差しで宙を見た。
「むなしいってんだよ」
さみしげに目を伏せた。なのに、竹蔵の口角は自嘲気味に上がる。
「なにひとつ、立派なことをしなかった。その日その日を無為に過ごして、人を斬って生きていたら、自分の人生が終わっちまってた。アタシの人生なんざ、クズ同然だ。誰にも気づいてもらえない、生きていたことすら、地面の土ん中に埋もれて腐って、果ては地獄行き。……けど」
口をつぐんだ竹蔵は、わたしの髪から手を離し、濡れた着物ごと両腕に抱く。それで、自分の頬を、わたしの耳元へ寄せる。
「……まさかずっと未来の娘が、こんなアタシを見つけてくれるとはね。人生、最後の最後まで、なにが起きるかわからないもんだ」
クッ、と笑う。
「……墓、か。墓、ねえ」
「まあさ、空っぽなお墓になるかもだけど、べつにいいよね? どうせわたしの自己満足だもん。好きな食べ物お供えするよ。ハシさんはきっとお漬け物だと思うんだ。雨市はたばこだし、竹蔵はなにがいい?」
子どもみたいに口をとがらせて、ぽつりと竹蔵は答える。
「……団子」
お酒って言うかと思ったら、意外にも団子だった。思わず笑うと、竹蔵と目が合う。その視線は、もう怖くはない。だけど、ずいぶんさみし気だった。
「……あんたが好きだよ、椿。はじめはただきれいな娘だと思っただけだけど、アタシを怖がりもしない、なにかをねだるでもない、屈託ないあんたと一緒にいるのが楽しくなっちまった。きれいな財布も貰ったしさ」
「あ! あれは雨市のお金で買っただけだし。それにいま思うと、もっと男子っぽいモノにすればよかった。あれ、女子っぽいもんね」
竹蔵が微笑んでくれる。微笑む竹蔵は、うっとりするほど本当にきれいだ。触れたら溶けてしまう、はかない純白の雪みたいだ。と、ぎゅうと竹蔵の腕に力がこもった。一瞬だけきつく、ぎゅうと抱きしめられて驚くと、静かな声で竹蔵が言った。
「あんたのにおいを覚えておくよ。この桜みたいな香りをさ」
それは、生きている娑婆の人間のにおいだ。雨市にもいわれた、自分ではまるきり気づけないかすかなにおい。いまいちわかんないなあといったら、腕をゆるめた竹蔵に笑われた。
「あんたが娑婆に戻るまで、くだらない焼きもちを灼かせてもらうよ。忠告しといてやる。最後まで気をつけな」
「え!」
はははと竹蔵は声を上げて笑った。身体を離し、わたしに背を向けると腰を曲げる。
「そんくらいいいだろ。あんたの気持ちはわかってんだ。雨市との仲を邪魔するのは、針山か熱湯風呂か、地獄のどっかへ連れて行かれるまでの、アタシの遊びさ」
「……は、はあ」
いいのか? まあ、本人がいいって言うんならいいのかな。腑に落ちなくて首を傾げていると、床に置いた燭台を手にした竹蔵がくいと扉をあごでしめした。
「で? その、ヨーサイとかいう女の部屋はどこなんだい?」
「うおっと。ああ、それなんだけど、わたしもうろ覚えなんだ。だから、玉瀾ちゃんを見つけて案内してもらったほうが、早いような気もするんだけど……」
その玉瀾ちゃんも、行方不明なのだ! っつーか?
「にしても、すごい謎だなあ。だってさ、わたしもけっこううろうろしてるけど、ほかの女官に会ったことないんだよね」
「ほかの女官があえて通らない場所を、あんたは通ってるんだろ。ここへ来るまでの間、わんさか見かけた場所があったからさ」
そういえば女校長は、ほかの女官に会わないようにとかなんとか、玉瀾ちゃんに指示していたんだった。そっか、そういうことか。
扉に手をかけた竹蔵は、なにかを思い出したように振り返る。わたしを見るとにやりとして、いった。
「団子はみたらしがいい」
わたしは笑みを返してうなずく。
「うん」
竹蔵の好きなものが、ひとつわかった。
誰かと向き合うのは怖いことだ。穏便にスルーするほうが楽だし、傷つくこともない。でも、竹蔵と物置部屋を出たとき、わたしは誓った。
たくさん傷つけばいいのだ。この先にどんなことがあっても、わたしは他人とまっすぐに向き合おう。本当に怖いのは、大切なことに目をつぶって、なにも知ろうとしないことなんだ。きっと、たぶん、そうだ。
そうだよね、母さん。
わたしは背筋を、ハシさんみたいにぴんと伸ばす。そうしたところで残念ながら、見た目は雨に濡れた幽霊だけれども。