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捌ノ章

記憶を映す水の底

其ノ63

 小さな鬼の彫像に支えられた水桶をのぞくと、自分の顔しか映らない。それなのにヤマどのは、会いたい者の姿がこの底に見えると言う。きっとヤマどののイリュージョン的な力が、この底に母さんの姿を映してくれるんだろう。だからこそヤマどのは、「来い」と言うのだ。自分のそばに来れば見せてやるという意味を込めて。

 会いたくないわけがない。遠野さんじゃないけれど、ひと目だけでも会いたいに決まってる。ハシさんや雨市にも会いたいかと訊かれたことがあるけれど、そのたびに強がって首を左右に振ってきた。だって、本音を言ったら泣いてしまいそうになるのを知っていたから。

「会いたい……ですよ」

 握っていたこぶしをゆるめながら、うつむく。

「そうであろう?」

 ヤマどのがどことなく勝ち誇ったかのような声音を放つ。そうだよ、当たり前じゃん。でもさ。

「別にいいです」

「なに? 会えなくてもよいとな?」

「はい。よいです」

 顔を上げ、きっぱりと拒否した。母さんの姿を見たいがために、ヤマどのと一緒に睡眠をするつもりはない。そんなことまでして母さんの姿を見たとしても、母さんは絶対に喜ばない。それに、自分と本当に大事な人を裏切ることになってしまう。

 自分にとっていま一番大事なことは、娑婆へ戻ることと雨市のこと。ハシさんと竹蔵のことだ。それにしても、ヤマどのめ。

 人の弱みにつけ込むとは、閻魔大王でも許せん。マジで許せん!

「っつーか、ぶっちゃけホントなんなんですか。わたしなんかじゃなくったって、ここにはきれいな女子がいっぱいいるじゃないですか。それなのにこんな小娘を鬼ごっこしてるみたいに追いかけるとか、天下の地獄の閻魔大王が情けないってハナシですよ。マジでくっそかっこ悪いですからね!」

 いっきにぶちまけたら胸がすーっとした。ああ、めっちゃ満足!……って、満足してる場合じゃない。宋帝王お手製の変身ドリンクを飲んでいないというのに、こちらを見つめるヤマどのの表情が、あのベタな閻魔顔へと変化しはじめてしまった。

 瞳はこれ以上ないほど見開かれ、ぐぐっと眉が寄せられる。そもそものお顔が神々しい美しさなので、腹立ちを隠さない表情の怖さは鬼のお面以上だ。そのとたん、夕焼け色に染まっていたのどかな空に、くっきりとした輪郭の雨雲が集まっていく。と、一瞬ピカッと、空がまたたいた。

 遠くで雷鳴がとどろく。直後、とてつもない雨の固まりがいっきに降りそそいできた。

「……よくも、この余に向かって説教をたれたな。椿なる人間界の娘よ」

 だからどうした。後悔はないぞ!

 バケツをひっくり返したような雨とは、まさにこのこと。中庭に立つわたしもヤマどのも、すっかりびしょ濡れだ。

 巨人大王になればなったで庭園は枯れ木と化し、空は血の色に染まっていく。いまだって機嫌をそこねるやいなやこの調子だ。自分の気持ちが天気や景色に反映されるなんて、ホントに恐るべしだよ。この調子でもっと怒らせたら、もしかして嵐でも起こるんだろうか……とふと思い、玉瀾ちゃんの言葉を思い出した。

 明日の平和がかかっているからなにがあっても怒らせないでくれと、玉瀾ちゃんは言っていたのだ。ってことは、嵐になったりすることもきっとあるんだ。

 すごすぎる……。ってか、もしかしてわたし、怒らせた?

「そなたに、余のなにがわかるというのだ」

 雨に濡れつつ、ヤマどのが近づいて来た。

「来る日も来る日も人間どもを裁き、人間どもに数々の嘘をつきつけ、ほとんどの人間どもをこの世の苦界へと追いやるしかないこの苦しみ。まともな人間などほんのひと握りよ。どいつもこいつも大なり小なり、己の欲に溺れきっておる。それを嘘でぬりかため、余にはバレぬと思っておるのだ。腹立たしく、嘆かわしいことこのうえないわ」

 言葉をきると、ふたたび光の筋が空を横切る。どーんという雷の音がこだまする中、ヤマどのはさらに続けた。

「余の筆が消えたと知ったとき、激怒もしたし焦りもしたが、これは余にとってはじめての長い休暇だと思うことにしたのだ。それは素晴らしき日々であった。できることならばその日々が、あと数百年でも続いてくれたらと思っていた矢先に、余には内緒で極楽の者どもを頼る馬鹿者があらわれる始末」

 その馬鹿者って、きっと初江王のことなんだろうなあ。一番まともっぽい人なのに!

「余はほとほと疲れきっておるのだ。もう誰も裁きたくはない。皆々が勝手にすればよいのだ。人間界とこの世の境で好き勝手に過ごし、それぞれのたましいが安楽に召されることなく、永久に人間界での苦しみを引きずるがよい。そう思っていたのに筆が見つかり、裁判が再開してしまった……」

 哀しそうに目を伏せた。

 いろいろと屁理屈こねてるけど、ようするにそれって、ただサボりたかったってことなんじゃ……?

 いや、そうだよ。これはつまりそういうことだって。だから、わたしたちがはじめてここに連れて来られたとき、「余計なことを」とかなんとかつぶやいたんだ。

 マジか……なにそれ。

 閻魔大王のことなんてなんの知識もなかったけどさ、一応人を裁く立場におられるわけで、怖くても信念をもったお方なんだろうって思っていたんだけれども。

 サボりたかった、と。そうっすか……。このなんともいえない残念感を、どうしてくれる。

 雨はやまない。むしろどんどんと激しさが増していく。冷たい雨に体温を奪われて身体が小刻みに震えはじめたとたん、正面に立ったヤマどのにがっつりと腕をつかまれた。

「余を激怒させた償いをしてもらうぞ!」

「は?」

 顔を近づけたヤマどのが、にんまりと笑った。

 つかまれた腕が引っ張られた。雨でびしゃびしゃの者同士が、抱き合う格好になるのはなんとも避けたいので、思いきりヤマどのの足を踏んでみる。よろめいたヤマどのの背中を地面に押しやったその直後、ふたたび空が鋭くまたたき、どどーんと猛烈な雷の音が落ちた。

 尻もちをついたヤマどのが、閻魔の形相で起き上がろうとする。

 必殺技はいまだと直感したわたしは、袖の中から取り出した虫(に見えなくもない固まり)どもを、ヤマどのの頭上にパアッと華やかにまき散らした。

 ……つもりだったものの、なにしろ土砂降り。無惨にもへたった虫的な紙の物体は、ヤマどのの髪やら肩やらに張り付いただけだった。

「……なんじゃ、これは」

 ヤマどのが黒い紙の固まりをつまむ。

 ですよね。作ったわたしにもいまはわかりません。

「いちおう、虫っぽいかなっていう……?」

 もごもごとつぶやくと、ごうっと風がうねりはじめた。とうとうヤマどのの逆鱗が頂点に達したらしい。

「……ほう? 椿なる娘。そなたはこのようなものを作ってまで、余を避けたいというのだな? そうであれば、余もなんとしてでもそなたに言うことをきかせてみせる!」

 このしつこさ……『西』ではじまる名字の男子をほんのり連想させるなあ……っていうか、もうマジで勘弁してほしい!

 嫌です! と叫ぼうとしても、女官になります書面に名前を書いたせいで、いっさいの否定的な言葉がまったくもって出てこない。

 くそう、くっそう! もういいや、逃げてやれ!

 ヤマどのに背中を向け、中庭を駆け出そうとしたときだった。両開き扉が左右に開け放たれるやいなや、雨に濡れてげんなりした顔つきの宋帝王が姿を見せた。宋帝王は茶碗をのせたお盆を持っており、冷ややかな眼差しをこちらに向けながら言った。

「……ヤマさま。なぜゆえ激怒なさっているのかわたしには不明ですが、このままだと大嵐になり光明院の屋根が吹き飛んでしまわれます。今宵はひとまず、ゆったりとしたお気持ちでおひとりでお眠りください。こちら、私特製のお心を安定させる黒糖茶でございます。お好きですよね?」

 むう、と口をとがらせるヤマどののすきを見て、わたしは宋帝王を突き飛ばし、その場から逃亡した。

 「待て!」

 どちらの声かわからない雄叫びがあがる。待てと言われて待つ人なんかいない。もちろん無視して、これ以上ないほどの全速力で廊下を走り続けたのだった。

 

♨ ♨ ♨

 

 暗くて人影のない廊下を、ひたひたと裸足で走る。

 とりあえず今夜のあれやこれやからは逃亡できた。でも、冷静になるとけっこうマズい状況だってわかってくる。なにしろこんな嵐を起こさせるほど、ヤマどのを激怒させてしまったわけで、この先どんなことが自分の身にふりかかるのか、想像もできないししたくもない。

「……っつーか、自分のことよりも雨市たちのほうが心配だし!」

 脱獄はうまくいったんだろうか。わからないからいっそう不安だ。

 女校長のクローンに連れられて通った場所を走っているつもりだったけど、いつまでたっても風呂場的な建物に出ない。走りながら振り返ると、誰もわたしを追いかけて来ない。

 廊下の両側には扉がまったくなかった。高い天井に炎を象った文様の壁という薄暗い空間で、ろうそくだけがゆらゆらと不気味に揺れている。一歩一歩と裸足の歩みを進めると、ひんやりとした石の感触が伝わった。濡れた着物から雨の滴が垂れて、なんだか自分が本物の幽霊にでもなったような錯覚におそわれる。

 不気味だ。めっちゃ不気味!

「うっおお……なんか怖。早く自分の部屋へ戻ろう」

 とか言ったところで、どこをどう行ったらいいのかさっぱりなんですけど!

 とりあえず、真正面のつきあたりを右に曲がる。するとやっと扉があり、そのすぐ先に廻廊が見えた。見覚えのある景色にほっとし、扉の前を通り過ぎようとした直後。

 すうっと開いた扉から手が伸、わたしの左腕をつかんできた。

「ひいっ!」

 飛びすさる間もなく、いっきに引っ張られて室内に入る。窓のない物置らしき場所で、床の上に燭台が置かれていた。わたしの腕を引っ張ったのは背の高い女官で、即座に扉を閉めるとわたしを見た。

「ずいぶん迷っちまったよ」

 女官の服を着た、竹蔵だった!

 

♨ ♨ ♨

 

「ハシさんがいろんなもん使って、牢を破ってくれたよ」

 素顔だというのに、見目麗しい美女的な女官に変貌した竹蔵が続けた。

「みんなで出ようとしたものの、あんたの言ってた女校長の部屋がどこなのかわかんないことに気づいてね。遠野さんが教えてくれたものの、女しか入れないとこだって言うじゃないか。だから、アタシがひとまず探りに来たんだよ」

 なるほど。

 床の燭台のろうそくに照らされた竹蔵の美しさは、いつもの二割増だ。

「雨市が探るって言ったんだけどさ、あの男の女装なんざ違和感がありすぎて目も当てられないからね」

 想像したらちょっと笑えた。雨市は超イケメンだけど、女官の制服を着たところで絶対に女子には見えないもんね。

「それにしても、あんた。いったいなにやらかしたのさ」

 そう言った竹蔵は、ぽたぽたと滴を垂らす幽霊みたいなわたしに近寄った。

「なんて言うか……大王を怒らせて逃げて来たっていうか……」

 竹蔵の眼光が鋭くなる。その表情で、わたしの身に起きたことを察したことが伝わった。でも、悪いことばかりじゃない。

「でもさ、ここで竹蔵と会えてよかったよ。女校長の部屋に案内できるし」

「まあ、それはそうだけどさ」

 手を伸ばした竹蔵が、わたしの濡れた髪をすくい取った。とたんに、居心地が悪くなる。

「と、とにかくさ」

 竹蔵の手のひらにある自分の髪をつまんで、ゆっくりと引き抜き、

「女校長の部屋にご案内するよ!」

 このあやしげな空気感を壊すため、明るく笑ってみた。でも、竹蔵の眼差しは意味ありげだ。美女的な女官に見えるくせに、妖艶な瞳だけが女子じゃなくなってる。

 さすがによろしくない。この空気はよろしくないよ!

「ささ、誰もいないうちに行かねばね!」

 緊張のせいで日本語がおかしい。とにかくいますぐここから出なくては。その一心で竹蔵に背中を向け、扉を開けようとしたときだ。

 わたしのお腹に、うしろにいた竹蔵の左腕がからまる。はっとした刹那、わたしの身体が竹蔵に抱えられてしまった。あまりに突然のことで固まると、竹蔵がわたしに耳打ちした。

「どうせ大王に食われちまうなら、先にアタシが食ってやるよ。椿」

 

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