漆ノ章
独占欲に勝る業なし?
其ノ60
まだ夕方にもなっていないのに、女校長のクローンみたいな大人女子が二人、わたしのお迎えに来てしまった。前後の二人に挟まれながら、薄暗い廊下をひたすら進む。やがて、お地蔵さまに囲まれたこじんまりとした中庭の見える、鬼型の柱に支えられた廻廊に出た。
どうしよう。マズいしヤバい。このままお風呂に入ったら、確実に部屋に戻れない気がする。ってことは、玉瀾ちゃんの用意してくれたものを雨市たちに渡すより前に、ヤマどののあの寝室に突撃するはめになるってことだ。
避けたい。なんとしてでも、ちょっとでいいから時間を稼ぎたい。でも、いったいどうすれば……と苦い顔つきで歩いていて、ふと思いつく。
そうだ。腹痛のふりをして、体調の悪さをアピールするのがいいかもしれない!
「あうっ」
前のめりになって、前を歩く大人女子の帯をつかんでみる。
「いかがなさいました?」
「……お、お腹が痛いような……?」
できるかぎりのげっそりした顔つきで、その場で立ち止まるしゃがみ込む。すると、うしろにいた女子が言った。
「困りましたわね」
「どこがどのように痛いのです? 立てないほどの痛みなのですか」
「し、下腹ですね。食べすぎかもです。なんとなくこう、きりきりすると言いますか……」
沈黙が流れる。静かすぎておそろしい。嘘をついてる罪悪感のせいか、冷や汗が額に浮いてきた。もしかして、嘘だってバレてる? そうだったら、もうどうしようもない。
……お願いだから、信じてほしい!
心の中で必死に願ったとき、一人がわたしの目の前にしゃがんでのぞき込んだ。
「あら、額に汗が。嘘ではないようですわね」
いえ、真っ赤な大嘘です。
「しかたありませんわ。養斎さまにお伝え申して、しばらく様子を見ることにいたしましょう。具合がよろしければ、夜にもう一度湯浴みをしていただいては?」
それから二人はひそひそと相談をはじめ、結局部屋に戻されることになった。腹痛の演技をなんとか続けて部屋に入る。
「それでは、またのちほど」
扉が閉じられたのを見計らい、大きく深呼吸をした。
「と、ともかくいったんは避けたぞ」
ただし、二度は使えない手だ。まあいい。ともかくこれで、少し時間ができたわけだ。
薬を持って来ると言っていたので、ベッドに横たわってそのときを待つ。やがて、扉が叩かれた。具合の悪い設定だから、返事をせずに眠っているふりをする。すると、誰かが入って来た。
なんともいえない漢方的な匂いが充満し、むせそうになる。ぐぐぐと唇を引き結んでいるうちに、扉が閉まる音がした。ぱっちりと目を開ける。よし、誰もいない。
「……っうええ~」
危なかった。あと数秒遅かったら、確実に声をもらしてたよ。
テーブルに湯気の立つ茶碗が置かれてある。起き上がって見てみると、苔みたいな液体がたっぷり入っていた。うん、この液体を飲む勇気はないな。
「嘘ついてすみません……」
飲んだふりをするべく、窓を開けてから周囲をうかがい、茶碗の中身をそろそろと捨てる。窓を閉めたとたん、またもや扉が叩かれた。飛び上がってベッドに向かおうとした矢先、
「椿さん。わたくしです。時間がありません」
扉越しに玉瀾ちゃんの声がした。すぐに中に入れるも、玉瀾ちゃんは用意したものをわたしに渡すやいなや、
「不審に思われてはいけませんので、持ち場に戻ります」
何度もお礼を告げるわたしに、玉蘭ちゃんは笑みで応えてその場を去った。
さあ、急げ! 時間はかぎられてるんだから、全力で急ぐのだ、山内! 受け取ったものをベッドに並べながら、慌てて指さし確認を決行した。
「役人男子の制服と女官の制服、紐、小さな包丁。イリュージョンの櫛と筆と半紙はすでにあるし、風呂敷、髪飾り。手ぬぐいとハサミに……あっ、短剣もちゃんと用意されてある」
ありがたい。ありがたすぎるよ。よっしゃ、これでパーフェクトだよ! ってか……あれ? 待てよ。
「なんか足りなくない?」
なにか一番重要っぽいものが、足りてないような……?
「でも、それがなんなのかが思い出せない……」
とりあえず落ち着こう。きっとおそらく気のせいだ。とにかく時間がないんだから、一刻も早くこれを持って地下牢に特攻しないといけない。でも、いま着ている鬼コスプレのワンピース姿でうろついたら、絶対目立つ。かと言って、女官の制服にいまさら着替えたとしても、男子しかいない役所ゾーンの地下に行かなくちゃなんないんだからおんなじだし……って、あっ。
灰色の役人男子用の制服を見て、にやついてしまった。
「あるじゃん!」
♨ ♨ ♨
わたしの背が高いおかげか、役人制服のサイズはぴったりだった。髪をきっちりまとめあげ、自分の女官制服を小さくたたみ、風呂敷の中に突っ込む。念のため、クッションと枕を人型に見立てて布団に入れて、地下牢に行く準備をととのえた。窓を開け、誰もいないのを見計らいってから外に出て、全力で走った。
役所ゾーンの中に入っても、誰もわたしを気にしないし、気に留める様子もない。でも安心はできない。秦広王がいるとやっかいだからだ。
「どうかいませんように。あのじーさんがいませんように」
念仏のように唱えながら廊下に入り、片手型燭台のろうそくが揺れるつきあたりを右に曲がる。すると、扉を前にして立っている、金棒を手にした鬼が見えた。二体いるはずなのに、なぜか一体だけになっている。しかもそのぼっち鬼は、遠目でもあきらかに小柄だった。
「あれ、あんなだったっけ?」
コスプレとはいえ、あそこを出るときに見かけた二体の鬼は、わたしぐらいの身長でもっと体格がよかったような気がする。もしかして、交代した? コスプレ鬼って、まさかのシフト制なのかな。まあ、なんでもいいか。弱そうな鬼のほうが、わたしとしては助かるもんね!
風呂敷を抱えながらのしのしと大股で直進すると、鬼が金棒でわたしを制した。
「なんのご用ですか、見知らぬ同僚のお方。どなたも通すなと言われておりますので、どうぞ職場へお戻りくださいっ!」
鬼コスプレの小柄な役人男子が、お面の下からくぐもった声を発した。この声、どこかで聞いたような気がするけど、どこでだったか思い出せない。
「し、秦広王さまに頼まれた用事です」
じーさんに会いたくはないけれど、じーさんの名前は便利なはず。でも、小柄な鬼コスプレはがんとして動かなかった。
「ま、まさしく! まさしくそのようにおっしゃる方は、絶対に通すなと言われております! お、鬼の仮面で顔がよく見えません! あなたはいったい何者ですか!!」
甲高い声がめちゃ響く。これ以上騒がれたら、本当にじーさんが来そうでマズい。ちらりと背後を振り返ると、まだ誰もいない。いましかない!
風呂敷包みを床に置き、一歩下がる。すうっと息を吸ってから、身体を回転させて金棒を蹴った。
「わっ!」
金棒が鬼の手から離れ、床に落ちた。
「ごめん!」
拾おうとする鬼を突き飛ばしたとき、ごろんと尻もちをついた鬼コスプレのお面がずれた。見知った顔を目にした瞬間、思わず動きを止めてしまう。
「あっ」
なんだ、ハイコウじゃん!
「うっうっ……」
どこかで聞いた声のはずだよ。ハイコウは床に跪き、四つん這いになって嘆いた。
「な、なにをするのですかっ! 同僚なのに、また僕をイジメるのですね!」
イジメ! 胸がきりっと痛む。
「い、いや。そういうのでは……」
ただ地下牢に行きたいだけなんで!
「うっ……ど、どうせあなたも先輩方とグルなのでしょう。ああ! なるほど、合点がいきました。どうせ誰も来ないからと休憩に入ってしまわれた先輩たちが、僕にこの場を押し付けたのでおかしいと思っていたんです。だって、ほかにも鬼の格好にふさわしい体躯の方がいらっしゃるのに、あろうことか僕ですから!」
そう言うと、四つん這いのハイコウが顔を上げる。
「どうせどうせ僕をこのような目にあわせて、さぞかし影でお楽しみなのでしょうね……って、あれ?」
目を丸くすると、立ち上がりながら首を傾げた。
「あなたをどこかで見たような?」
うん、これで三度目だよ。一度目は雨市の家で、二度目は宿。そんで、いまここで。この先の展開の想像がつかない。どうするのがいいんだろうかと思い悩んでいると、ハイコウの目が輝いた。
「ああ! あなたはいつかの。僕におにぎりをくださった方ではないですか!」
正解です。
「うん、それです」
その節はありがとうございますと、ハイコウに頭を下げられた。
「え?」
「あのときのおにぎりで、どれほど僕が救われたか……。あのご恩、忘れることができません。本当にひもじい思いをしていたので」
まさかおにぎりひとつで、ここまでありがたがられるとは思わなかった。
「そっか。それはよかったです」
「で?」
けげんそうに眉を寄せたハイコウは、さらに首を傾げて困惑する。
「なぜこのようなことを? 僕におにぎりをくださった親切な方が、僕をイジメるとは思えません。それに、あなたもお役人だったのですか? でも、宿でお会いしたときは、どう見ても冥界日本区域第一区の住人のようでしたのに……」
うまく説明できる気がしない。いっそ正直にぶちまけたほうが早いかも? いや、待って。どうせここを通らなくちゃいけないんだから、ただハイコウに口をつぐんでもらえばすみそうな気がする。
そうだよ。おにぎりの代わりに黙っててもらえばいいんだよ!
「いろいろごめん。まさか知ってる人だと思わなかったもんで……。とにかくさ、ちょっとわけありで、黙ってここを通してもらえるとものすごく助かるんだけど」
「……わけあり?」
「はい。わけありです」
ハイコウのかわいらしい眉が、かなしげな八の字になる。
「……おにぎりのご恩もありますので、そうしたいのはやまやまですが……できません。そもそも僕は、冥界日本区域第一区、東京支部の役所勤務だったのに、裁判が再開したためこちらに異動したばかりなのです。あれやこれやと便利にこき使われて、いまだってこのありさま。先輩方のいない間にあなたを通したことがバレでもしたら、いよいよ三十二地区行きです。それは絶対に嫌なのです!」
みんなヤマどのっていうか大王の子どもなわけで、先輩たち……とか言ってるけど、ようするに兄さんたちなんだもんね。なにか複雑。いや、そんなことはいまどうでもいい。
「いまさらですが、あなたはどこの誰なのですか。なぜゆえ、このような場におられるのですか」
ここでハイコウを倒すのは簡単だ。でも、それはしたくないし、そんなことをするよりも味方にしたほうがいいように思えてきた。ただでさえ味方が少ないんだから、一人でも増えたほうがみんな動きやすいもんね。
よし。洗いざらいぶちまけよう。
「わたしは山内椿、十六歳。日本国の娑婆で生きてる娘です。男子の格好をしてますが、女子です。宿でも男子の格好してたんで、わかんないかもだけど」
はっとしたハイコウは、目を見張った。
「生きている? ま、まさか……もしやあなたは、噂で耳にした極楽の! 阿弥陀如来さまの使者のお方!?」
まだ半信半疑なことだけど、とりあえずうなずいておこう。
「地下牢の人たちに差し入れをしたいだけなんだけど、やっぱダメかな」
鼻息を荒くしたハイコウは、金棒を杖にして立ち上がった。
「わ、わかりました。その差し入れなるものも、きっと如来さまの御心なのですね!」
ごめん、違う。
「協力いたします。僕でよければなんでもおっしゃってください。ですので!」
興奮気味に語気を荒らげると、わたしに鬼の顔を近づけた。
「ぜひとも僕のことを、如来さまにお伝えください! 僕はどうしてもなんとしてでも、あちらに行きたいのです。もうここはお腹いっぱいなのです……!」
そこまでの力はわたしにはないし、なさそうだけど、ハイコウの勢いに押されてしまった。
「わ、わかった」
そのチャンスがあれば、絶対に伝えるよ。極楽からいらした虫を叩き落としたわたしに、そんなチャンス絶対ありえないと思うけども!
わたしから離れたハイコウが、扉を開けた。
「では、どうぞ。心置きなく」
なにはともあれまた一人、めでたく味方が増えたのだった。
♨ ♨ ♨
薄暗い地下牢を足早に行くと、
「こんなに早く来るとは思わなかったぜ。よくやったな!」
雨市が鉄格子から両手を伸ばした。
「来い椿。抱いてやる」
なんですと!? 牢の手前で固まると、雨市が苦笑する。
「なにびっくりしてんだよ。こいつはおまえの言ってたハグだ。そういう意味だぞ?」
いきなりすぎて、言葉の刺激が強すぎたらしい。なんにせよ、ハグは大歓迎だ。浮き立った気分で駆け寄ったものの、ほかのみなさんの視線が痛い。頬を赤くしながら微笑んでいるハシさんはいいとして、うらめしげにこちらをうかがう遠野さんと、雨市の背後にぬっと立つ竹蔵の圧がすごい。
「……いや。ありがたく遠慮させていただきます」
「あ? なに言ってんだ」
鉄格子を前にして仁王立ちになり、頭を雨市に向けることにした。
「こ、ここを撫でていただければ……」
「お前はガキか」
苦笑いしつつ、雨市はわたしの団子頭を片手で包み、ぐるぐるわしわしと撫でた。
「ほらよ」
そう言うと、なぜかわたしのおでこを指で弾く。
「痛っ」
なんでだ!
「ちちくりあってる場合じゃないだろ。包みをもらうよ」
手を伸ばした竹蔵に風呂敷を渡すと、どうやって集めたのかとハシさんが訊いてきた。
「実はこれ全部、わたしじゃなくて玉瀾ちゃんが集めてくれたんだ」
「玉瀾って、あんたの世話してる女官かい?」
「うん」
竹蔵が床に包みを置くと、ハシさんがその場にしゃがんだ。中身を広げながら品物を確認していく。すると、
「おや」
ハシさんがつぶやいた。
「どうした?」
雨市が訊く。ハシさんはほほほと笑いながら、眉を下げる。
「針金が……」
「ないのか?」
雨市の問いに、ハシさんが小さくうなずく。それじゃあ鍵を開けられないだろと竹蔵が追い打ちをかけた。
そうだ、それだ。わたしが忘れてるっぽい重要なものって、針金だったんだ!
「時間ないのに、なにやってんのわたし!」
鉄格子にしがみついてうなだれたとき、奥から声がこだました。
「よろしければ、使いますか?」
丸眼鏡をはずした遠野さんが、鉄格子越しにそれを揺らして見せた。
「この眼鏡のつる。自分で修理して使っていたんですよ。素材は針金です」