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漆ノ章

独占欲に勝る業なし?

其ノ58

 地獄と娑婆の堺を超えて、いろんな人(と人以外)に迷惑をかけた筆の制作者が、地下牢のすみにうずくまってよよよと泣く。わけありっぽいし、その様子には同情を覚えるけど、泣きたいのは迷惑をかけられたみんななんじゃ……? と思わなくもない。

「名前は?」

 雨市が訊ねた。

「遠野杉三郎です」

 遠藤なる大人男子を、竹蔵は見すえた。

「あんたのことはだいたいわかってるよ。けどさ、結局女房に会えてないんだろ? 自分のしたことが無駄になっちまってんじゃないか」

「……はい、おっしゃるとおりです。けれども、どうしても会いたかったのです。僕の妻はそれはもうできた女でした。ですから、極楽へ行くのはわかっていました。大王の裁判によって妻が極楽へ行ってしまったら、僕は二度と会えません。かといって、僕の行き来できる地獄へ堕ちて欲しいわけではけっしてない。だったらその……裁判が行えなければよいだろうという結論を出しまして、自分にできることをしたまででして……」

 いつから地獄と娑婆の行き来ができるようになったのかと、ハシさんが訊く。遠野さんが言うには、ある日、飼っていた猫を追いかけていたとき、自分の家の裏手にあった巨木の幹のくぼみに入ってしまった。そこが地獄への通り道になっていたのだそうだ。

「それはもう、長い長い洞窟のようでした。出口かと思って顔を出すとそこは岩場で、硫黄のにおいの立ちこめており、空は血の色。金棒を振りまわす鬼がいて、真っ赤な色の湯に浸かる人びとの姿がありました。……皆さんうっとりしておりましたから、湯加減はなかなかよさそうでしたけれども」

 その後、遠野さんは衝撃の光景に気絶した。目覚めるとこの宮殿内で、巨人大王に見下ろされていてさらに気絶したらしい。

「ごくたまに僕のような者がいると、大王が言いました。そのあと鬼に連れられて、この世界に出るはめになった岩場から戻ることができました。妻にそのことを言うと、まるで地獄八景という題目の落語のようだと言って笑われましたよ。自分でも夢だったのかもしれないと思い、半信半疑で妻を連れて巨木のくぼみを見に行くと、すっかり消えていました。やはり夢だったのかと思いつつも気になり、翌日も行ってみたのです。すると、くぼみがあったのです。そのとき、僕だけに用意された通り道だったのだと悟りました」

 ふたたびくぼみに入ると、やはりこの地獄に来てしまった。またもや鬼に見つかったあげく、大王に面白がられて誘われて、行き来をするようになったようだ。

 ちんまりと正座した遠野さんが口をつぐむと、雨市は呆れたように息をつく。

「実際、裁判は滞ってたぜ。あんたがばらまいたニセの筆ともども、本物の筆を探すために、俺たちは娑婆を行き来してたんだ」

 そう言って、雨市はわたしを親指でしめす。

「おかげでこいつは巻き込まれちまって、生きてんのにこっちに来るはめになっちまった。そのあげく、なかなか娑婆に戻れねえ」

「えっ、そうだったのですか!? てっきりあなたも僕のように、自由に行き来できる方なのだろうなあと、お話を聞いていたのですが……」

 すみませんと遠野さんは、深々と頭を下げた。

「べつにいいさ。あたしは長い休暇みたいで面白かったしね」

 竹蔵が言う。遠野さんはすまなそうに目を伏せた。他界した奥さんに会いたい一心で、大王の裁判を滞らせるためにニセの筆をばらまいた事情はなんとなくわかる。でも、一つ気になることがあった。

「筆は本物を入れて百八本ですよね? 煩悩の数とおんなじなのは偶然?」

 どうでもいいっちゃどうでもいいことなんだけど、寺の娘としては気になるポイントなのだ。遠野さんは丸眼鏡の位置をととのえると、うなずいた。

「おっしゃるとおり、煩悩の数です。妻に会いたいがための欲から発する、僕のうごめく煩悩です」

 ガチだった。意外な答えを期待してたけど、なんのひねりもなかった……。

「あなたは地獄にお詳しいようですなあ」

 ハシさんが訊ねる。

「地獄そのものに詳しいわけではありませんが、この宮殿のことであれば隅々までわかっております」

 竹蔵と雨市が視線をからめる。と、雨市が言った。

「だったら教えてくれ。この娘はあれこれあって女官になっちまったんだ。しかも大王に気に入られて、今夜あたり手込めにされる。野郎に反抗するいい方法を知らねえか?」

 それはわたしも興味ある! ごくりとつばをのんで答えを待つと、遠野さんは哀しげな表情で首を左右に振った。

「ご愁傷さまと言うしかありません。そもそも大王はヤマなる青年の、裁判を行ううえでの姿です。彼は人間世界の最初の死者であって、冥界の神となった存在です。その神に逆らうことなど、できようはずもありません」

「そらそうだ」

 竹蔵がげんなりする。

「大王はどうやって変身してんだ?」

 雨市が訊く。

「宋帝王が毎日用意する飲み物によって、巨大なあの姿に変化するのです」

 そう答えた遠野さんは、がっくりと肩を落とした。

「以前はもっと賢いお方でした。ですが、裁判が滞るようになってから、女官遊びが激しくなったようで、誰も大王を止めることができないでいるのです。未来永劫、永遠にこの世を司るかわいそうな方とも言えますので、いままで押さえこんできた鬱憤が噴出したのやもしれません。まあ、それもこれも僕のせいなのですが……」

 四人同時にため息をついてしまった。やっぱり虫作戦を結構するしかなさそうだ。

「ついでに教えてくれ。初江王ってのは、大王に嫌われてんのか?」

「嫌われてはおりません。以前はもちろん、大王の右腕として奮闘なさっていたお方です。ですがこのような状況となり、乱れがちな秩序を常に戻そうとなさるので、大王にとっては目の上のたんこぶになってしまったのだと思われます。あれやこれやと初江王に命じては、この宮殿から遠ざけようとなさっておりますので」

「邪魔にされてるってことか」

 雨市の言葉に、遠野さんは小さくうなずいた。

「初江王はいつも僕によくしてくれました。そして、戻るときにはいつも、二度と来てはいけないと助言してくださっていました。しかし僕は、出される料理やら女官たちの華やかな踊りやらに浮かれて、もう一度だけ、もう一度だけと通ってしまったのです。そんな自分をいまさら呪います。もう遅いのですが……」

 声を震わせながら、続けた。

「結局、妻には会えずじまい。筆のせいでここへ入れられ、どれほどのときが経ったのかもわからない。自業自得でしょうが、行き来していたころは楽しかったのです。そのような接待は生まれてはじめてでしたから、妻も連れて来たいといつも思ったものです。きっと喜ぶだろうなあと……」

 そう言うと、両手で顔をおおってしまった。いや、待って。奥さんを連れて来ちゃったら、いまのわたしみたいな目にあってたかもだし!

 それにしても、やっぱりか。初江王は大王にとって、面倒くさい人物だったんだ。きっといまもなんか命じられて、宮殿以外のどこかに行かされているのかもしれない。どうりで探しても見つからないわけだ。

 雨市は真剣な眼差しで、わたしを見すえた。

「しょうがねえ。とにかく全力で、野郎を拒否しろ」

「う、うん」

 雨市がハシさんとこそこそ話をはじめる。と、わたしを見つめていた竹蔵が、ふいにけげんな顔をした。

「いまさらだけどさ、椿。あんた、いつの間にそんな髪が伸びちまったんだい?」

「あっ、これね! 髪が伸びる櫛みたいのがあって、それで梳かすと勝手に伸びたんだよ。魔法……ってか、魔術?」

「へえ」

 竹蔵の両手が、鉄格子から飛び出す。胸のあたりまであるわたしの髪をつかむと、ぐいと引っ張った。

「おや。カツラみたいなものかと思えば、ホントに伸びてるね。こりゃすごい」

「ちょ、ちょと!」

 雨市が竹蔵の襟首をむんずとつかんだ。わたしの髪から手を離した竹蔵は、雨市によってうしろに放られる。そのまま寝転がった竹蔵は、なにが面白いのかクスクスと笑う。雨市は鬼の形相でわたしを指差した。

「おまえはちいっと気いつけろ。強えくせにすきがあんだよ。それでなくても大王の件で、ただでさえムカッ腹立ってんだ。これ以上俺を怒らせんじゃねえぞ」

「す、すみません!」

「……若いとは素晴らしいことです」

 遠野さんの声が地下牢に響く。

「死んでるけどな」

 苦笑した雨市は、すぐにその笑みを引っ込めた。

「椿。どうやら初江王を探してる暇はなさそうだし、自由に動けんのはおまえだけだ。これから言うもん、用意できるか?」

「え?」

「役人か女官の衣、おまえの髪が伸びたっつう櫛、紐、針金みてえなもんと、先の尖ってるもん。小刀でもいい。それから、念のために筆と半紙。髪飾り。あと、風呂敷」

「い、いいけど。それ、どうすんの?」

 くいと片眉を上げた雨市は、わたしを見てにやりとした。

「盗むしかねえだろうが。おまえが名前書いちまった書面をよ」

「え」

「手ぬぐいとハサミもお願いいたします」

 ハシさんが微笑んだ。床に寝転んだ竹蔵も、ぼそりと言う。

「あれば短剣も頼むよ」

 うっそ。もしかして、こっから出る気満々?

 

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