漆ノ章
独占欲に勝る業なし?
其ノ56
蝋人形のごとく無表情なヤマどのが、わたしをまじまじと見つめてきた。
「このように、余の額に指を押し付けてきたのは、そなたがはじめてである」
そう言うとわたしの指をつまみ、自分の額からゆっくりと離す。
「……ですよね」
いまさらだけど、わたしもそう思います。
これはもうあれだ。生きながらにして地獄の宮殿に足止め決定コースだ。だったらいっそのこと、開き直ったほうがいいのかも? いや、それもさすがにどうだろう。
険しい顔で考えていると、ヤマどのは帯に挿した笏を手にし、わたしのあごにそれを添えて上向きにさせた。
「うむ、よい。よいぞ、椿なる娘」
よいって、なにが?
「余はおおいに、そなたが気に入った」
……え。
いまのわたしのどこに、気に入る要素があった? いっそ嫌われて牢屋にでもぶち込まれたほうが、いまの何倍もなんとかなったような気がする。っていうか、謎。この人謎すぎてさっぱりわかんないから!
「ここはとにかくですね、ちょっと落ち着きましょう」
ペシリと笏を払いのけ、ヤマどのの目前で右手を広げる。わけがわからなすぎて、むしろいっきに冷静になってきた。なんにしても腹立たしいのは、女校長が詳しい説明もなしに、わたしに名前を書かせたことだ。そのせいでいまわたしは、ヤマどのの言うとおりにしないとダメな感じになっているんだから、やりきれない。
いつだったか、父さんの言っていたことを思い出す。怒りが頂点に達した人間の口調は、いやに冷静になるらしい。なるほど、いまやっと実感できた。
「あのですね、わたしはそもそも女官になるつもりもなくてですね。なんなら暇つぶしにお便所の掃除くらいはしてもいいかなっていう、ゆるい気持ちで名前を書いたわけです」
「……ほう、それで?」
笏を帯におさめたヤマどのは、楽しげに無邪気な笑みを浮かべた。わたしはめちゃくちゃ冷静だし、ヤマどのはゆるゆるな態度なわけで、初江王に訴えようとしていたことをぶちまけるには、絶好の機会かもしれないと思えてきた。
よし、もうなんでもいいさ。冷静ついでにぶちまけてやる!
「自分が阿弥陀所来さまの使者だとか、そういう自覚も全然ないんですけれどもですね、もしもそうなら、いつごろお返事がくるんでしょうか? あと、もしもわたしが本当に如来さまの使者だったのなら、ぜひともそのご褒美は、わたしに親切にしてくれた人たちの極楽行きにしていただきたいんですけれども!」
「それらの手続きは秦広王に任せておるから、余は知らぬ。それに、椿なる娘よ」
そう言ったとたん、ヤマどのは笑みを消した。眼光を強めると、ぎゅっと片手でわたしのあごを包み込む。
「そなた、ちょっと勘違いをしてはおらぬか? 余を誰だと思っておるのだ。たしかに気に入ったと申したがな、すべてを決めるのはほかの誰でもない、もちろん、そなたでもない。この余であるぞ」
ぐぐぐとわたしのあごを包む手に、力が入る。あれ。ちょっと待って。もしかして逆鱗に触れた?
ヤマどのの顔が超至近距離になる。離れるためにのけぞるとバランスが崩れて、背中から床に落ちそうになる。
「ぬっおおう……なんなんすかこれ!」
なんとか踏ん張るためにヤマどのの袖を左手でつかめば、逆にあわやキス……ぐらいにまで、顔が近づくはめになってしまった。
「余がそなたを、従順な娘にしてやろう」
そういうのいいですから。ホントに全然いいですから! 苦虫を噛みつぶしたみたいなブサイク顔でまぶたを閉じると、間近で静止したらしきヤマどのが言った。
「おっと、そうじゃ。すっかり忘れておったわ」
は? 薄目を開けると、ものすごい至近距離にヤマどのの瞳があった。
「そなた。余に堂々とはむかった詐欺師の男と恋仲であるな?」
「え」
「あの男が詐欺師であったことはわかっておる。正直に申せば、今日のところは自由にしてやる。どうじゃ?」
正直に言えば、雨市は絶対によろしくないことになる。そのくらいはわたしにだってわかるもんね。
「違います」
自信満々に、キッパリと断言する。
「ふうむ。違うと申すか。ならば、余がそなたを好きにしたところで、あの男には関係がないというのだな?」
いや、おおありです。
「……うっ……と……そうっす……ですね……」
気弱な返答になってしまった。そう言うしかない状況に追い込まれているとはいえ、この感じはよくない。ものすごくよろしくない。マズい、ヤバい、ありえない。どうしよう。いや、どうすることもできない!
雨市はわたしをこんなふうにさせたくなくて、大王を騙してくれたのに。なのにわたしはほいほい女官の制服着て、女校長に言われるがまま、書面に名前を書いてしまったのだ。わからなかったって、いい訳するのは簡単だ。でも、もっと慎重になるべきだったんだ。
壁に向かって座禅を組み、反省したいところだけど、いまはそんな場合じゃない。
起きてしまったことは、どうにもできない。でも、少なくともこの先のことは、どうにかできるはず。
とにかくいまは、なにがなんでも、雨市の立場を悪くしないようにしないとダメなのだ!
「あの詐欺師な男子とは、恋仲とかそういうのじゃないです。だから、関係ないです」
「本当か?」
「本当です」
「……ふうむ」
やっと、わたしのあごが解放される。
「そなたの言葉を信じよう。では、これよりそなたは余のものである。誰にも邪魔はさせぬぞ」
ああ……やっぱりそうなる感じなんだ。それなのに、この状況から逃げられないなんて、最悪だ。
ヤマどのがわたしの腕をつかんだ。
「来い」
おそろしいゾーンに向かって突き進んでいく。もしもいま、閻魔大王にパンチをくらわせたら、わたしは地獄で伝説をつくることになるんだろうか。つくってみたい。つくってみたいけど、そのあとのことが想像できないし、おそろしすぎて手がでない。でも、どうにか逃げられる方法はないのか。雨市の立場を守りつつ、うまいこと逃げられる方法がなんかないのか!
なんとか歩を重くして時間を稼ぎつつ、逃げられそうな場所を探る。と、いきなりヤマどのの肩がピクリと上下し、鬼面の扉を振り返った。なんだろ?
「決して動くでないぞ」
そう言うとわたしから離れ、大股で扉に向かっていく。扉の前に立ったとたん、彫られた鬼の顔が左右に開いた。そこにいたのは、灰色の服を着た見知らぬ役人だ。でも、一人じゃない。その役人の首に腕を巻き付け、背後に立っている人物がいる。
「あ」
その人物は、雨市だった。
苦しがる役人男子を盾にして、雨市はヤマどのの前に立ちはだかった。
「……手荒い真似はしたくねえの。つってもよ、ここに入るには、こうするしかねえと思ってな。どうせそこの不気味な扉は、てめえの知ってる野郎のツラ見て、開いたり閉じたりさせてんだろうからよ」
役人の首から腕を離した雨市は、その男子の背中をどんとつく。前のめりによろめいた役人は、ヤマどのの足下に両手をついてひれ伏し、おびえるような声音を吐いた。
「い、い、いきなり背後から、その者がわたくしの首に。それで、ここへはどのように入ればいいのかと申しまして。首が苦しく、助けを呼ぶこともできず、どうか、どうかお許しを!」
ヤマどのはその訴えを華麗に無視し、雨市に告げる。
「なんの用だ。無力な罪人」
「てめえに用はねえよ。用があるのはそこの娘だ」
わたしを助けに来てくれたんだ! 喜びたい。ものすごく喜びたいけど、わたしはわたしでたったいま、雨市の立場をなんとか守ろうとしたばっかりなわけで……?
「……ど、どうすれば……」
思わずつぶやいてしまった。すると、雨市は鋭い視線を向けてきた。
「どうするもこうするもねえな。おまえはいったいなにしてんだ。俺に説明してくれねえか、椿」
静かだけれどドスの利いた声がおそろしい。かつてないほど怒ってる。
「ご……ごもっともです……」
うなだれそうになった矢先、ヤマどのが雨市に言った。
「役人を人質としてここまで入るとは無礼な。貴様は余が何者であるのか、わかっておるのか?」
「ああ、知ってんぜ。そいつに聞いた」
いまだひれ伏す役人を、あごでしゃくってしめした。
「閻魔大王だろ?」
いつものテンションでさらっと答える雨市がすごい。ヤマどのが乾いた笑い声をもらす。先行きが不安すぎて身動きがとれない。
「……して? 貴様はその娘を、どうしたいのか教えてもらおう。ちなみにその娘は、貴様とは恋仲ではないと、はっきり余に申したぞ?」
鬼の形相になるかと思ったのに、雨市は意外にも苦笑した。
「すまねえな。そいつは嘘だ」
ああ、言っちゃった……。
「こうなっちまったら、もうどうでもいいぜ。そうだよ、俺はあんたを騙くらかした。だからどうした」
張りつめた空気の圧がすごすぎて、ひれ伏している役人男子は、いまだに顔を上げられずにいた。そういうわたしも、ヤマどのの反応の予想がつかなくて固まっている……って、ダメだ。こんなふうに待ってるだけじゃ、雨市の立場がさらに悪くなってしまう。どうにか雨市をかばわないと!
「あ、あのですね! そのお方はわたしをかばおうとしてくれて、それであなたさまを騙してしまったわけなんです!」
よろめきながら駆け寄り、雨市の前に立つ。
「この人は、全然悪くないんで!」
ヤマどのを見上げる。こちらを見つめるヤマどのは、無表情だった。それがむしろおそろしい。ごくりとつばをのんだ瞬間、うしろから手がのびてきて、ぎゅうと横頬をつねられる。
「イテッ!」
「このアホが。だいたいのことは予想つくけど、しょーもねえ嘘こくんじゃねえよ」
「ご、ごめん。でも、最初はほんとにたいしたことないって思ったもんで……!」
真実だ。チッと舌打ちをした雨市が、呆れたようにわたしの頬から手を離す。すると、それを見ていたヤマどのが、かなり冷ややかな声音を放った。
「やはり、恋仲であったとは」
いまのわたしにはわかる。この冷静かつ静かな声は、間違いなく激怒している証拠だ。
「ともかく、余を騙したと申すのだな? 貴様も」
そう言って雨市を見てから、半笑いでわたしに視線を移す。
「そなたも?」
そうでございます……。ふたたびごくりとつばをのむと、ヤマどのがさらに言葉を続けた。
「しかし困ったものじゃ。余はその娘をたいそう気に入った。できればそばに置いておきたい。今宵も共に過ごすつもりでな」
なんで気に入られたのかが、本気でわからない。と、雨市がとっさに前に出て、わたしを自分のうしろにまわした。
「英雄色を好むっつーけどな、ここにはごっそり女がいるじゃねえか。そいつらで満足しとけよ。それにな、そもそもこいつは高貴なあんたの手に負えるような娘じゃねえよ」
にやりと笑って、ヤマどのの顔に寄る。
「俺以外の男には、無理なんだよ」
ぴくりとヤマどのの眉が上がった。
「なるほど。貴様には恐怖心というものが欠けておるらしい。余はいますぐにでも、貴様を針山に連れて行くこともできるのだぞ?」
なんですと!! 鼻息荒く、雨市のシャツの袖を強く握る。
「どうでもいいぜ、好きにしろ。どのみち俺は地獄行きだ。そいつが早まったところで、そこの間抜けな役人みてえに、ひれ伏したりなんかしねえんだよ、アホくせえ。でもな、」
息をついた雨市は、静かに語気を強めた。
「こいつは生きてんだ。ここにいていいヤツじゃねえ。だからいますぐ、こいつを娑婆に戻しやがれ」
泣きそうだ。いますぐにでも雨市との別れが訪れそうで、泣いてしまいそうだ。でも、まだダメ。まだ、そのときじゃない。自分の指が手のひらに食い込むほど、シャツの袖を握ったとき、ヤマどのが深く嘆息した。
「どいつも、こいつも、勘違いしておるな。こんなに怒りに満ちたことは、余としても久しくなかった」
そばにひれ伏す役人の目の前に、ずいっと黄金の靴をずらす。
「そこの者」
ヤマどのは天にも上りそうな声で、叫んだ。
「秦広王を呼べ。即座に牢の用意をせよ!」