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陸ノ章

唯一無二の裁判官

其ノ53

 煙草をくわえた雨市は、ベッドに腰掛けて火をつける。煙がしみるのかしかめ面で片目を細め、ため息とともにそれを吐く。すると、なぜか自虐的な笑みを浮かべてうつむいた。
「なにをどうしたらいいのか、さっぱりわからねえ」
「……どうしたらいいのかって、なにを?」
「昨日おまえが帰ってから、いろんなことを考えちまった。ガキのころのこととか、腐って悪さばっかりしてたこととか、そのうちに金を儲ける悪知恵つけたこととかな。ずいぶん女とも遊んだもんだ。そらもう、テキトーにな。こんな人生、さっさと終わっちまえばいいと思ってた。だから牢にぶっ込まれて、いよいよ終わるって予感したときになっても、怖いとは思わなかった。けどなあ、」
 笑いたいのか泣きたいのか迷ってるみたいな眼差しで、わたしを見る。
「いまは、怖えんだ」
「え」
 困惑するわたしから目をそらし、雨市はふっと口角を上げた。
「おまえと離れんのが、怖えよ。離れちまったらそれっきりだ。二度と会えねえ。まあな、人生は一期一会だ。二度と会えねえやつなんざ山ほどいるし、記憶にも残ってねえやつばっかしだ。おまえに会えてよかったと言ったのは本当だ。けど、一人になったらなんともいえねえ気分になっちまった」
 雨市の煙草の灰が長くなる。あわてて部屋を見まわすものの、ここには灰皿がない。テーブルの上に壷型のお香立てがあったから、それを差し出す。瞬間、雨市に手首をつかまれた。
「おまえは怖くねえのか」
 前髪からのぞく雨市の瞳は、ぴかぴかに磨かれた黒い宝石みたいだ。その視線から、目が離せなくなる。
「怖い……っていうよりも、さびしいよ。でも、いまは一緒にいるじゃん」
 精一杯の気持ちを込めて伝える。雨市は無言のまま、わたしの手首をつかんでいた。
 胸の奥がひりひりする。苦しくてやりきれない。この痛みは神経痛によるものじゃないってことは、学習済みだ。だからこそ、なおさら痛いんだ。
「娑婆に戻ったらさ、きっといっぱい泣くと思うんだ。でも、そうなりたくないからって、雨市のことが好きだっていう気持ちをさ、あきらめるのは違うじゃん。まあ、片思いだと思ってたから、まさかこういう感じになれるとか思ってもみなかったけど」
 いまは泣きたくない。そういうことは全部、あとにとっておけばいい。だって、いまは雨市がそばにいるし、こうしてわたしの手首をつかんでいるわけで。
 先のことを考えすぎて、いまこうしていることすらあいまいになってしまったら、もったいなさすぎるもんね。
 だって、いまは、いましかないのだ。そんなふうに単純に考えるわたしは、人としてやっぱりまだまだ未熟者なのかもしれない。
「あー……あとさ、ほら! 仏教には輪廻ってのがあるもんね。縁があればまたどこかで出会えるってやつ」
 父さんからの知識によれば、悟りを開いてその輪から脱出するのが一番いいみたいなんだけれども。
 やっと雨市が小さく笑った。
「さすが寺の娘だな。つっても、俺は地獄へ行く人間だ。そんな人間の次の生きざまなんざ、しょせん虫かなんかだろ」
 いや、大丈夫だ、雨市。地獄から極楽への作戦は、わたしに任せて! と思ったものの、口にはしないでおく。大事なことってしゃべっちゃったら、実現しない気がするからね。
「と、とにかくさ。さみしかったり怖かったりするけどさ。いまは一緒にいるじゃん? わたしはそういうのを大事にしたいのだ。人として単純すぎて未熟系かもだけど、ほんと、マジでさ、わたしなんか絶対、誰も好きになんないって思ってたんだよ。でも雨市のこと好きになったわけでさ。こんなのわたしにはありえないことだったし、だからそれってさ、先のことなんてわかんないってことなわけで」
 気持ちはいっぱいいっぱいなのに、言語がそれについていけてない。
「……とにかくさ、そういうわけで、だから、その」
 ホント、言葉に不自由すぎる! どう伝えたらいいか考えつつ話していると、頭がぐるぐるしてきた。
「なわけで、だから、その」
 帰ったらいっぱい勉強して本読まないとダメだな、これ。いまの自分にほとほとがっかりしそうになった矢先、ははっと雨市が笑った。
「強えな。おまえは」
 つかんでいたわたしの手首を離し、吸い殻を捨てる。
「強え娘だ。おまえはきっといい女になる。そいつが見れねえってのが、悔やまれんぜ」
 わたしを見上げた雨市の顔に、やわらかい笑みが広がった。
「……わかった。なら、俺も覚悟決めてやる。おまえが娑婆に戻る寸前まで、先のことは考えねえよ。つっても、男ってのはあんがいくだらねえ性分だからな。たまに弱気になっても、許せ」
 許すもなにも、兄貴節じゃなくて弱気っぽい雨市も、新しくてちょっといいかもと思うぞ! とは言わないでおく。でも、これだけは言わせていただきたい!
「なんかさ、なんか、嬉しかった」
 雨市は腰をあげて立ち、わたしを見下ろした。
「あ? なんだそりゃ」
「だってさ。雨市もそんだけ、わたしのこと好きってことだもんね。めっちゃ彼女っぽいなあって」
 でへへと笑う。苦笑した雨市は、わたしの額を指でつんと押した。
「……アホが」
「いや、だってさ。わたしは雨市のお好み方向と真逆だから、わりと危機感満載なんだよ」 
 腕を組んだ雨市は、わたしに顔を近づけるとにやっとした。
「そんであの礼鈴とかいう、麝香女を気にしてたんだな? おそらくあいつは大王の密偵だ。俺の様子を探らせるために、色目を使わせてんだよ。真に受けんな」
 ああ、なるほど。そういうことか!
「それよか、椿。おまえの仕事は本当に、便所の掃除なんだな?」
 そのポイント、すっかり忘れてた。唇を一文字に引き結んで、大きくうなずく。
「ホントだな?」
「ホントだよ」
 雨市のけげんそうな視線が痛い。もう一度うなずいて見せると、雨市はやっと安心したかのように息をついた。
「なら、いい。おまえが大王に目をつけられちまったんじゃねえかって、そればっかり考えてたんだからな、俺は」
 大丈夫だ、雨市。わたしの仕事は花を持ってくだけだし、そんなん花瓶にしゅって挿して終わりなんだから、目をつけられる時間なんかあるわけないと思うのだ。ってか、礼鈴さんみたいな女子をお気に入りにしてるくらいなんだから、そもそもわたしなんかに目をつけるはずがないもんね。
 にっこりしている雨市につられて、わたしもにっこりする。と、雨市の手のひらが頬に触れた。あ、ちゅーがくる! いいよ、それは大歓迎だよ! とまぶたを閉じようとした直後、無情にもドアがノックされた。
「……くっそ、なんなんだよ」
 雨市がうなだれた瞬間、ぐうとわたしのお腹が鳴る。雨市が吹き出しそうな顔つきをした。
「や、すんません。マジでお腹空いてまして」
「さっき来たのも、飯か?」
「間違いなく」
「なら、食えよ。花より団子のお嬢さん」
 あざーっす!
 雨市はベッドに隠れて布を閉じた。それを確認してから、ドアを開ける。お盆を手にした玉瀾ちゃんが立っていた。
「さきほども来てみたのですけれど、もしや朝が早かったので眠っておられるのかと思いまして」
 おお、すごい。色とりどりの料理が、お盆の上にこんもりとのってる!
「う、うん、そうなんだ」
 嘘です、ごめんなさい。なんかわたしここに来てから、かなり嘘ついてないか? 地獄にいながらにして地獄行き決定コースだったら笑える。いや、笑えないし!
「ありがとう」
 受け取ったお盆のお皿のすき間に、折りたたまれた小さな紙があった。
「あれ?」
「あっ、あの……それは初江王さまが」
 手紙っぽい。なんだろ。
 もう一度、玉蘭ちゃんにお礼を告げてドアを閉めた。テーブルに置き、なにはともあれまずは手紙を開いてみる……って!
 達筆だけど、あきらか日本語じゃないし!
「……よ、読めない……」
 できれば日本語で書いていただきたかった。それとも、あれかな。初江王的にわたしは如来さまの使者なので、さまざまな言語を自由自在に扱うスーパーガール的な位置づけなんだろうか? いや、そうじゃないな。
「ここにおられる方々が、素直にこういう文字しか書けないってことかも……」
 言葉は通じてるのに、なんで? こういうときこそ、不思議イリュージョン使えばいいのに。
「……地獄イリュージョン、マジで使えない」
「どうした?」
「これ。初江王さんからだって」
 ベッドから下りた雨市に手紙を見せると、困惑したように眉根を寄せた。
「あー……、こりゃハシさんに読んでもらうしかねえな。俺にもわからねえよ。預かっていいか?」
「うん、いいよ」
 紙を折りたたんだ雨市は、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「なんだろね」
「さあな。ハシさんに読んでもらうから、ちょっと待ってろ」
 そう言ってお盆の上の料理を見ると、「うまそうだな」とつぶやく。
「さっさと食え。冷めるぞ」
「うん」
 箸を手にしようとした瞬間、雨市はわたしにちゅーをした。
「ちょっ! いまのなんかタイミング違くない?」
「んなもん知らねえよ。気張るから邪魔されんだ」
 一理あるかも。いやそうなのか? 
 酢豚をつまんだ雨市は、自分の口にそれを放ってから窓を向く。カーテンと窓を開けると、外に目を配りはじめた。
「誰もいねえな」
 窓枠に足をかけてから、肩越しに振り返る。
「またあとでな、椿」
 そう言って笑い、去っていった。
 またあとで。そんな言葉に、泣きたくなる。そう言えることがどんなに貴重か、いまのわたしには身にしみてわかるから。
 雨市の言うとおり、わたしたちは二度と会えない。輪廻とかに期待したところで、そんな幻想みたいな未来、ぼんやりしすぎてて実感がわかない。
 どうしようもないんだ。どうしようもないって頭でわかってても、好きで嬉しくて好きで泣きたくなるのが、恋ってやつなのか。
「……ホント、やっかいだ」
 そうつぶやいたとき、なぜかふと、西崎から盗んだ閻魔大王の筆が脳裏を過ぎった。それとともに、ハシさんの言葉を思い出す。

 ――宙を舞う筆から、手を離すことは不可能。それは透明な線となり、心醜き者の手にあれば、巨大な獣が筆の先より姿をあらわす、美しき者であれば、華やかなりし桜が散る、でございます。

 あの筆を手にしたとき、わたしがあらわしたのは墨絵みたいなちっちゃなネズミだったのだ。
「……どうせなら、桜を散らせたかったなあ」
 娑婆に戻るころには、せめてそんな心の持ち主になっていられたらいいな。っていうか、ネズミってなにさ。どんな意味があるのかわかんないけど、未熟者な方向の予感はする。
 ……これ以上考えてたら、落ち込みそうだ。
「まあいいや、ご飯食べよ」
 椅子を引いて座ろうとしたときだった。地鳴りのような大音量の銅鑼の音が、幾重にも重なって宮殿を包む。その瞬間、背中に悪寒が走った。
 いよいよ、閻魔大王の裁判がはじまるのだ。

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