陸ノ章
唯一無二の裁判官
其ノ51
翌朝。
けたたましいノックの音で起こされて、よだれをぬぐいながらのっそりとベッドから這い出る。一瞬「ハシさんと朝ご飯作んないと!」と焦りそうになった矢先、壁から突き出た片手型燭台が視界に飛び込んだ。そうだった。ここは閻魔大王の宮殿だったんだ。
「……あー、落ち着かない……」
ぐったりとつぶやきながら、ドアを開ける。立っていたのは玉瀾ちゃんだ。
「おはようございます。あっ、あのう……急なことで申し訳ないのですけれども、こちらをお召しになってくださいと秦広王さまからお達しが……」
困惑した様子で顔を真っ赤にし、おずおずと大きな風呂敷包みを差し出してくる。
「ありがとう。着替えですか?」
「はい、その、制服の……です」
玉蘭ちゃんの返答に、はっとした。そうだった。
「あ、そっか! 仕事しなくちゃなんだった! 着替えるからちょっと待っててください」
玉蘭ちゃんを部屋に入れ、女官制服をベッドに広げる。すると、玉蘭ちゃんが言った。
「今朝、秦広王さまに言われまして、わたくしびっくりしてしまいました。どうしてお客さまがわたくしたちのお仲間に? と訊ねたのですが、秦広王さまは、はて……と首を傾げてトボける始末。まあ、いつものことなんですけれど。でも、わたくしにはさっぱりわかりません。あの……椿さま」
「〝さま〟とかつけなくてもいいですよ。全然、呼び捨てちゃってください」
大きなあくびが出る。それにしても眠い。素晴らしすぎる自分のアイデアに昨夜興奮しまくってしまい、なかなか眠れなかったせいだ。
それにしても、この白いカボチャみたいな形状のモノは下着かな? このパンツはあるとしても、ほかにはタンクトップみたいなのしか見あたらない。ブラジャー系はないらしい。
ベッドに上がって布をおろし、とりあえず下着らしきものを着用した。それから、大事な雨市のネクタイピンを腰紐のところに引っ掛ける。これでこいつとは、なにがあっても常に一緒だ。
ズボンを履いて、ぺたんこの靴に足を入れる。タンクトップに上衣を羽織ったものの、帯をどうしたらいいのかわからない。ベッドから出て玉蘭ちゃんに訊ねると、手伝ってくれた。
「本日から裁判がはじまりますので、今朝から宮殿内はおおわらわです。お役人の方々もあちらこちらを走りまわっておりますし、あまりにもあまりにも、久しぶりのことで、わたくしたちもなんだか落ち着かない状態ですから、椿……さんも」
さま付けからさん付けに変わって照れくださいのか、玉瀾ちゃんの頬がぽっと染まる。
「いろいろ大変かもしれません。これから女官頭の養斎さまに会っていただきますので、お仕事のご説明は養斎さまからお聞きくださいませ」
そう言った玉瀾ちゃんは、きゅっと帯を結び上げた。
「はい、これで終わりです」
「ありがとう。なるほどね、覚えたよ」
玉蘭ちゃんがにっこりした。
「とにかく、慣れるまではわたくしもお伴いたしますので、ご安心くださいね」
どうせ逃げられないんだし、逃げる場所もないわけで、こうなったらなんだってやるさ。了解だ。
「それは助かる! ありがとう。でもさ、ここってお客さん用の部屋なんだよね? 女官ってことになると、わたしはお客さんじゃないからどこで寝泊りすればいいのかな」
「あっ、いいのです。椿さんはここでお過ごしください」
いいらしい。わかったと言ってうなずくと、玉蘭ちゃんはおもむろに帯から櫛を出した。
「髪をととのえますね」
そう言われて、はっとする。そういえば女官の皆さんの髪型は、全員きっちりお団子ヘアで統一されている。でもわたしはおかっぱだから結うことができない。
「この髪って、どうすればいいのかな」
櫛を手にした玉瀾ちゃんは、愛らしい瞳をきらりと光らせた。
「大丈夫です。わたくしにお任せください!」
鏡を前にして椅子に座ったわたしの髪を、玉蘭ちゃんが櫛で梳く。そのとたん、なんと髪がにゅうっと伸びた。
「えっ! なにその櫛、すごい!」
魔術エクステ!?
「うふふ」
この世界は、イリュージョンに満ちていた。髪がどんどん伸びていく。やがて、背中にとどくほど伸びた黒髪を、玉瀾ちゃんはぐいっとまとめて持ち上げ、さくさくと結ってお団子ヘアにしくれた。というわけで、わたしはいまやどこからどう見ても、立派な女官になってしまった。
これぞ鬼コスプレならぬ、女官コスプレ。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
櫛を仕舞った玉瀾ちゃんは、次に袖から小さな巾着を出す。中から花柄の小瓶を出すと、蓋を開けて小指を差し込む。すると、その指先が桃色に染まった。
「それ、口紅?」
「はい。礼鈴さまたちのようなお化粧はしなくてもよいのですけれど、紅だけさせていただきますね」
ちょんちょんと玉瀾ちゃんの小指が、わたしの唇に触れる。
「ああ、やっぱり! 椿さんはおきれいですね! ちょっと紅をのせただけでこんなに素敵なのですから、お化粧をしたらきっとわたくしたちの中でも、一、二を争う美貌ですわ!」
いやいやいやいや褒めすぎですよ!
「あ、ありがとうございます……」
照れる。でも嬉しい。
そういえば雨市も昨日、美人だって言ってくれたなあと思い出して、またもや会いたくなってしまった。それに加えて、竹蔵とハシさんの様子も気になる。なんとかすき間を見つけて、今日も男子ゾーンに突撃するぞ。
そう固く誓いながら、部屋を出た。
前を歩く玉瀾ちゃんにくっついて廊下を右に曲がると、両側が外に通じている廻廊に出た。柱はもちろん、安定の鬼の彫像だ。
血の色みたいな石造りの建物が密集していて、木々も草花もまったく見えない景色を目にしながら歩き、なにげなく空を見上げた。おかしい。昨日の美しすぎる夜空はどこへやら、ここぞ地獄と叫ばんばかりの朱色スカイ。そのせいで、毒々しい気配に満ちていた。
なにこれ。おかしくないか?
「玉瀾ちゃん、訊いてもいいかな」
「なんでございましょう?」
「昨日すごくきれいな空だったし、庭にも木とか花とかあった気がするんだけど、あれってわたしの妄想だったのかなって」
「あっ! それは妄想ではありません。大王さまがヤマさまにお戻りになりますと、景色もそんなふうに戻るのです」
……はい?
「ヤ、ヤマさま?」
誰それ。
「大王さまは地獄でもっとも偉いお方ですが、普段はわたくしたちと同じお姿なのです。そのお姿のときにかぎって、わたくしたちはヤマさまと呼ばせていただいております」
「ええ? じゃ、変身してるってことですか?」
ふふふと微笑みつつ、玉蘭ちゃんはこっくりとうなずいた。雨市の言ったとおりだった。あの巨人大王は、そのヤマさまとかいう男子が変身したあとの姿だったんだ。
「そ、そうだったのか……」
「死者の方々を裁いて地獄へ突き落とすお役目には、それ相応の責任が伴いますから、大王さまのお姿となるためにヤマさまはたいそう苦しみの伴う……ようするにとってもマズいお飲み物を飲んでおられるのです。それはもう地獄の責め苦に似た味だそうで、ヤマさまが大王さまとなったとたんに、そのお気持ちを映すかのようにこのような景色と空になってしまうのです。ようするにこの世界のすべてが、大王さまのお心に添っていらっしゃるのです」
「はあ……大変なんすね」
「はい。大変なのです」
廻廊を抜け、またもやどこぞの建物に入り、炎に照らされた薄暗い廊下を左に曲がる。まっすぐに進んで行くと、玉瀾ちゃんは突きあたりの扉の前で立ち止まった。すると、両開きの扉がぎりぎりと勝手に開いていく。
「では、わたくしはここでお待ちしております」
「ありがとう」
にっこりした玉蘭ちゃんは、一礼してから一歩しりぞいた。前を向いたわたしは、室内に立っている厳格かつ融通のきかなそうな大人女子を視界に入れる。そうしたとたんに、目が合った。
「入られよ」
この人が、女官の偉い人らしい。
♨ ♨ ♨
養斎と名乗った大人女子の見た目は、五十歳くらいだ。きりっとした一重の瞳で、面長。美人だけれど目の奥は険しい。たとえるなら古いアニメとか漫画にでてきそうな、いつも黒いワンピースとか着てる女子校の校長っぽい。
「そこへ」
大きな机を前にして座った養斎さんは、向き合っている椅子をしめした。窓のない部屋を照らすのは、やっぱり片手型燭台だ。朝だというのに爽やかさゼロなうえ、例のごとくな燭台のせいで、ものすごいホラー空間と化していた。
落ち着ける要素が一つもない。こんなところで仕事ができるなんて、本気で尊敬する。あちこちに視線を向けながら、のそのそと椅子に腰をかけた。瞬間、一枚の紙が目の前に出される。
「これは女官となることに同意する、いわゆる同意書です。ご署名を」
筆を渡された。ちなみに紙に書かれている文字は、なにひとつ読めない。これ、何語? 漢字でもないし、これがアレか? 梵字ってやつか!
「は、はあ……。わかりましたけども、この文字わたしには読めなくてですね……。なんて書いてあるんですかこれ」
養斎さんは、薄い唇の口角をふっと上げた。
「女官になりますといったような意味です」
ざっくりしすぎ! まあいっか。面倒くさいことはさっさと終わらせてやれ。筆に墨をつけて「山内椿」と書くと、きれいな字だと褒められた。ちょっと嬉しい。でれでれと笑いそうになった矢先、ふと気づいてしまった。
待てよ。文字がこんななのに、なんで言葉が通じてるんだ? だってわたし、ここに来てからもずっと日本語で聞いてるししゃべってるぞ。
「……あのう、言葉が通じてるんですけども、どうして文字は日本語じゃないんですか?」
「わたくしどもの世界には、さまざまな言語を持つ死者の方がいらっしゃいます。その方々の意識とこの世界の言語は、自由に通じるようになっておるのです。文字はべつですけれど」
ふうん。よくわかんないけど、通じるようになってるらしい。まあさ、櫛で梳かしただけで髪が伸びる世界なんだから(そして普通サイズの人が巨人になる世界なんだから)人間界出身の凡人の常識なんか気にしてたら、それこそ時間のムダってもんだよ。
「椿どの。あなたはお客さまでしたが、大王のお達しによって女官として滞在していただくこととなりました。そうであればわたくしとしても、そのつもりで接しなければなりません。わかりますね?」
はい、校長先生! と、うっかり言いそうになった。
「は、はい」
「わたくしどもの仕事は、主に大王さまのお世話です。お食事の用意やお着替えのお手伝い、そのほかにお遊びのお相手。とはいえ、それらをこなす女官はすでにおり、ほとんどの者には彼女らの手伝いをしていただいております」
礼鈴さんみたいな大王のお気に入りのお遊び相手がまだ何人かいて、わたしの仕事はそういう女子の手伝いをすることらしい。なるほど。
「そのかたわら、宮殿内の細々とした仕事をこなしていただいています」
掃除、洗濯、料理もろもろをするんだろう。もしくはやっぱり、お便所係スタートかも? ま、なんでもいっか。
「はい」
「ですが、あなたには特別に、毎夜大王さまにお花を届けるお仕事をしていただきます」
あれ、そうなの? お便所係じゃなくて?
「……お花?」
花瓶に生けるだけでいい的な?
「そうです」
無表情で即答された。え……めっちゃ簡単じゃないすか。ほんとにそれでいいの?
「そのほかのお仕事は?」
「ございません」
「え」
思わず固まる。
「うっそ、そんだけですか?」
「いまのところは、それだけです」
ええ……?
「ホントにホントに、わたしの仕事はそれだけですか?」
養斎さんが意味深な笑みを浮かべた。
「まさか、楽だと思っているのですか? 毎夜お疲れになっている大王さまを癒すことがどんなに大変か、すぐにあなたにもわかるでしょう」
たしかに、花を飾ると癒やされるもんね……って、そっか! 庭園で花を摘むついでに、雑草やなんかも刈ったりしなくちゃいけない仕事なんだよ。それなら重労働だし、納得。たしかに下っ端の仕事だ。
それじゃあさ、その仕事のすき間に庭園を突っ切って、男子ゾーンに行けるんじゃないだろーか。そうだよ、できるよ! 願ったりな最高の仕事きた!
さっそく仕事についてやる。
「わっかりました、了解です。ハサミと軍手的なものがありましたら、いますぐください!」
鼻息を荒くして両手を出すと、養斎さんは眉を寄せて困惑をあらわにした。
「そのようなものは、必要ありません」
ああ、ですよね。わがまま言ってすみません。下っ端はやっぱ、素手でこなしてこそっすもんね!