陸ノ章
唯一無二の裁判官
其ノ49
誰じゃ?……って、あなたこそ誰デスカ?
背中を支えるわたしを、見知らぬ男子が振り返る。明るすぎる星空に照らされた相手の顔は、あきらかに初江王のものではなかった。彫りの深い顔立ちで、やけにきらきらした瞳はとってもきれいだ。よくできたお顔は間違いなく美形。背も高く、背中まで流した黒髪はゆるめな感じで編まれてあった。
真紅色の上衣に、帯は金。意外にも刺繍はほどこされておらず、色はド派手なもののごくごくシンプルなデザインだ。ただし、先端の尖った靴はぴかぴかの金色だった。
センスはどうかと思うけど、この恰好から察するに、秦広王とか初江王系のお方かもしれない。
「……ここでなにをしておる」
驚いたように目を見張りながら、男子が言った。
「す、すんません。迷っちゃいまして……」
「迷った?」
いえ、嘘ですすみませんなんて言えるはずもなく、口をつぐんでうつむく。すると、まるでわたしの嘘を見破ったかのように鼻で笑い、どことなくからかうような口調になった。
「まあいい。突然めまいにおそわれての。そなたのおかげで、倒れずにすんだ」
うーん……なんだろうな。この口調ってなんとなく、あの巨人大王に似てる気がする。でも縮尺サイズがあきらかに違うし、顔だってまるっきり違うんだから大王なわけがない。きっとこういう口調がごく一部で流行ってるところなのかも。ああ、あるある。ありそう!
しゅっとしてるし身なりもいいから、もしかすると初江王の知り合いだったりして。もしもそうなら、わたしを見逃してくれるかもしれない。いいね、訊いてみよう!
「あ、あなたさまはもしや、初江王さまのお知り合い的な?」
眉根を寄せた男子は、わたしの本音を探るかのように片目を細める。
「……そうじゃが?」
やった! さらに突っ込もう。
「じゃあ、仲良しですか?」
両袖に手を差し入れた男子は、なぜか含みある笑みを浮かべた。
「そうじゃ」
よかった、最高です。
「実はちょっと心配なことがありましてですね、あっちに行かなくちゃいけないんです。だから、これにてさようならってことで。失礼しまっす!」
見逃してくださいという願いを込めて告げつつ、男子の横を通り過ぎようとしたときだった。ブウンと羽音をたてた虫が、男子の頭上に飛んできた。
「うわああ! 嫌いじゃ! 虫は嫌いじゃ!!」
頭を袖で隠しながら叫ぶ。そんな男子を尻目に、わたしはびっくりしていた。だってさ、ここは地獄なのに、虫が元気に飛んでるとかすごくない? や、べつにすごくもないか。
「やっぱりその虫も、死んでこっちに来たって感じなんですよね?」
思わず訊ねる。なにを言ってるんだと叱られた。
「な、なんとかするのじゃ! ああ、虫がウザったい!!」
そんなに怖がらなくてもいいのになあ。でも、たしかにずいぶん男子にまとわりついてる。しかたがない。ふんっと勢いをつけた両手で虫を生捕り、思い切りシェイクして手を離す。すると、ぽっとりと地面に落ちた虫は、やがてよろよろとよろめきながら飛び立ち、酔っ払いのように闇夜に去っていった。
「……そなた。すごいな」
「虫なんていっつもその辺にいるとこで暮らしてたんで、慣れてるんです」
そう言った瞬間、男子と目が合ってしまった。なんだか気まずい。さっさと立ち去ろう。
「じゃ、先を急ぎますんで!」
さらばですよ! 速攻でその場を駆け出したものの、背中にじりじりと視線が突き刺さるのを感じずにはいられなかった。
誰だったんだろ。ま、そのうちに初江王に訊けばいっか。
♨️ ♨️ ♨️
やっとのことで庭園を抜けると、目に痛い鮮やかな朱色の平屋が見えてきた。密集している平屋の窓のほぼすべてにカーテンが下がっていて、中が見えない。だから、雨市がどこにいるのかもわからないわけで、自分のアホっぷりに泣きたくなってきた。
「カーテンのことすっかり忘れてたよ……」
足を止めて肩を落とす。カーテンに覆い隠された空間で、雨市と大人女子がなにをしているのか……想像するのも恐ろしい。
うおーどうする? どうすればいい!?
テンパりながら平屋の間をうろつく。これじゃまるで、不審者かストーカーだよ。
信じられない。このわたしがそんな感じになってるとか信じられない。恋は盲目ってこういうことか? そうなのか? 呆然としそうになって壁に手をついた瞬間、カーテンのすき間を見つけた。ここをのぞいたところで、どうせ見知らぬ男子の部屋に決まってる。そうあきらめつつも背伸びをし、片目を窓へ寄せてみた。素晴らしいことに雨市の部屋だった。
なにこの神すぎるタイミング! 神さま仏さま万歳!……って、ここは地獄だけど気にしないもんね!
雨市はベッドに腰掛けて、煙草を吸っている。美人女子はまだ部屋にいて、くねくねと歩きながら、あちこちを指してしゃべっていた。
ああ、そっちに行ったらカーテンの影になって見えないですし。さ、もういいんじゃないかな? そろそろ帰ろうか! ってか、帰ってくださいー!
そんなわたしの願いもむなしく、女子はまだ居座っていた。
ゆったりとした動きで、礼鈴さんが雨市の隣に座った。そんな礼鈴さんを、煙草をくわえた雨市は無視気味だ。と、やがて礼鈴さんが、灰皿を差し出した。それに吸い殻を押し付けた雨市は、おもむろに腰を上げて扉に向い、開ける。そうして礼鈴さんを見ると、出て行ってくださいと言わんばかりに手のひらで廊下をしめした。
肩をすくめた礼鈴さんは、苦い微笑みを浮かべて立ち上がる。ゆったりと歩いて雨市を見すえると、不機嫌そうに部屋から出て行った。その瞬間、雨市はあっさり扉を閉めた。
「……なんだ。心配することなかったな」
わたし、雨市のこと本気で尊敬するよ。
情けないことに、ちょっと泣きそうになる。バカだな、わたし。ほんとにバカだよ。
安堵の涙が勝手に浮かんできた。焦って涙をぬぐっていると、あろうことかいきなり窓が開いた。
「ひっ!」
「おっまえ?……ここでなにしてんだ?」
心底びっくりしたような顔で、わたしを見下ろす。
「い、いや、その……ってか、なんで窓開けたの?」
「麝香のにおいがきっついから、ちっとばかし外の空気を入れようと思っただけだ。それよか、なんだよ」
窓枠に手をついた雨市は、まじまじとわたしを見つめて眉根を寄せた。
「なんで泣いてんだよ。どうした?」
「……い、いや。だってさ、あの礼鈴さんって言う女子と雨市が、なんていうかさ。二人っきりみたくなってるかと思ったらその……」
不審なストーカーにもなるってもんさ! なんて言えるはずもない。無性に恥ずかしくなって、顔が赤くなってきた。それなのに雨市はなにも言わないので、だんだん気まずくなってきた。
「なんていうか、その……あの女子きれいだもんね。そんで、なんかいい感じになったら嫌だしさ。だから邪魔してやれと思っちゃったっていうか……わたしはあんな色気もないし大人でもないから、あの女子のほうがいいぜ! とか思われたらマズいんではないかと……」
うわー、ない! ないわ~! もうこんな情けないカミングアウトはないわ!
「とりあえず入れ、椿」
「う、うん」
窓枠に手をかけてよじ上る。部屋に入って床に立つと、甘い残り香が充満していた。礼鈴さんの香水のだ。
「窓閉めろ」
「ほい」
窓を閉めカーテンを引く。なにはともあれ、これで雨市としゃべれるぞ。鼻息荒くしたところで、
「そこに座れ」
雨市がベッドを指した。はいはい。言われたとおりに腰を下ろしながら、さっき出くわした初江王の知り合い男子について話すべきか一瞬迷う。うーん、どうしようかな。しゃべったところで「そりゃ誰だ?」とか訊かれても答えられないもんね。まあいいや。たいしたことじゃないし、いまはやっぱやめとこ。
「ここもわたしの部屋と同じ感じだ。ハシさんと竹蔵はどこにいるんだろ」
とりとめもなくつぶやく。雨市は聞こえているのかいないのか、黙ってベストを脱ぐと椅子の背もたれに放った。それから、わたしのあげたネクタイピンをテーブルに置く。片手でネクタイをぐいぐいとほどくと、それも背もたれに放る。
なんでなんにもしゃべんないんだろ。もしかして礼鈴さんとのことを疑ってしまったから、怒ってるのかも? うっわ、マズい。たぶんそうだよ!
「ご、ごめん、雨市。疑うつもりはまったくなかったんだけど、あの女子ホントにめっちゃ美人だったし、男子だったら誰だってよろよろ〜ってなるよな〜って思ったらいてもたってもいられなくなっちゃったもんで。けっして、けっして雨市を疑ったわけでは! ってか、実際疑ったけどもさ!」
「どっちだよ」
苦笑した雨市は、けれどわたしの言い訳なんてどうでもいいみたいな雰囲気で、シャツの胸元に指をひっかける。そうしながら、どっさりとわたしの隣に座った。と、わたしの腰に片手をまわして顔を近づけ、ささやいた。
「ま、どっちでもいいか」
腰にまわされた腕が、だんだん背中に上っていく。雨市の顔がかつてないほど近い。
「ち、近い! めっちゃ近いです!」
「あのな」
わたしの鼻のあたりで、雨市の顔がぴたりと止まった。
「そもそも俺は、おまえに色気なんか求めちゃいねえよ」
えっ、そうなの? いや、ってか、マジで顔近い! どんどん押し迫ってくるから、そのたびにのけぞるはめになる。そのあげく、ぽすっと背中からベッドに沈んでしまった。
「どこの世界に俺を警護するとかしゃべる娘がいるんだよ。そうだろ?」
ベッドに背中を沈ませたわたしを見下ろしながら、雨市はものすごく器用に自分のシャツのボタンをはずしていく。
「こ、ここ、この展開はっ」
あきらか、大人方向なやつ!? 怖くはないけどいきなりすぎて焦る。うっわ、シャツから素肌が、筋肉が見える! うっわ、美し……って、そうじゃない! 嫌じゃないけど、ただただ緊張で吐きそうだ。早い。あまりにも早い展開だけど、時間は限られてるんだからこれでいいのだ。
そうだよ、いいんだよ! よし、どんと来い! そう意気込みつつまぶたを閉じる。すると、頬に雨市の唇が触れた。
「おまえはおまえのまんまでいいんだよ。ほかの女を気にすんな。それに、おまえにはおまえの色気があるぜ」
ん? いつから意見を変えたのか激しく知りたい!
「ホント!?」
「あるある。ちゃんとある。でも、俺しか知らねえだろうなあ」
「えっ! どのヘンなのかたっぷり訊きたい!」
「そのうちな」
そう言って笑った雨市の唇が、わたしの首筋に移動しそうになった矢先、扉がノックされた。雨市の動きが止まる。あれ? もしかしてこれはここで終わり?
そう思ったら、安堵の深い息が鼻からもれた。覚悟はしたものの、正直なところ助かった感がハンパない。わたしにはこの感じが精一杯だということが、たったいまよくわかってしまった。
くっそ、情けない。恋する女子として情けないけど、そうなんだからしかたない!
もう一度、ノックされた。はあ、とこれみよがしに息を吐いた雨市は、いつかのようにぽっすりと、ベッドに顔を押し付けてから、キレ気味寸前みたいな声音でささやく。
「……呪われてるとしか、思えねえな。なんっ」
ガバッと起き上がる。
「っなんだよ!」
舌打ちまじりで叫んだ雨市は、
「おまえは隠れてろ」
そうささやき、天井から下がる布でベッドをおおい隠した。またノックされる。雨市が扉を開ける気配が伝わった。
「なんだよ」
「ふうむ。お休みのところ申しわけない」
この声は、秦広王どのだ。
「こちらに人間界の娘はおりますかな?」
「いねえよ」
雨市はきっぱりと否定する。
「まあよい。すぐにご自分のお部屋へ戻られることをお勧めしますぞ」
「だから、いねえよ」
すっとぼける雨市に、秦広王は平然と返答した。
「明日のお着替えを早々にご用意させていただいた。明日は早朝に起きていただきますぞ。女官は忙しいですからな」
……はい? なんですと!?