陸ノ章
唯一無二の裁判官
其ノ46
ここは「地獄の入り口」なんてかわいい場所じゃない。まさしく地獄そのものだよ……!
目にした光景がショッキングすぎて、固まってしまった。開かれた門の左右には、身の丈以上の金棒を持った鬼が立っている。だけどこの鬼も初江王みたいにコスプレしてるだけだと思えば、ちょっと気持ちが落ちつくかも? とにかくまずは大きく深呼吸しよう。吸って、吐いて。よし、いいぞ。さて、腹をくくって思い込もう。
ここはアレだよ。ここはこういうテーマパークなんだよ!
門扉の向こうに見えたのは、これまたどでかい城門だった。金色の瓦屋根に鬼の頭をかたどった飾りがついていて、朱色の門塀には炎をしめす彫り物がずらりとほどこされてある。
あそこまでの距離、およそ百メートル。ちょうど大地の割れ目の対岸になっていて、たどり着くには吊り橋を渡らなければならない構造になっていた。
車二台なら軽く通れるほどの吊り橋の左右には、ろうそくを手にしたお地蔵さまが点々と鎮座している。それも不気味だけど、お地蔵さまの不気味さよりも重要な注意事項は、下を向いてはいけないということだ。なぜならば。
……だって、眼下は炎の吹くマグマの川なのだ!
ダメだここ。テーマパークだって思い込むには無理がありすぎた。現実感の圧が強すぎる。
「ささ、お急ぎくだされ」
にっこりした秦広王は、軽い口調で言った。慣れた歩幅でどんどんと橋を渡って行く。そのうしろを初江王、ハシさんと竹蔵が歩く。最後に歩きはじめた雨市にくっついて、わたしも橋に足を踏み入れる。瞬間、背後の門扉ががっちりと閉じられた。
「恐っ!」
「椿」
立ち止まった雨市が左手を差し出す。わたしを安心させるためかにやりと笑った。
「おにぎりじゃねえぞ」
「わ、わかってるよ」
手をつなぐつもりで雨市の左手を取ろうとすると、ちょっと待てと言われる。「あちいなあ」とつぶやいた雨市は、おもむろにジャケットを脱いだ。そのジャケットをくしゃりとたたむと、なんとそれを吊り橋から放り投げてしまった。
「え!」
「もういらねえよ。この先は人生で最後に行き着く場所だ。ほら」
左の手のひらを上にして、くいっと手首を曲げる。その手を握ると、雨市もぎゅっと握り返してくれた。
「まっすぐ前だけ見て歩け」
そう言ってネクタイをゆるめると、シャツのボタンをひとつはずした。
熱風が上がってくる。雨市の帽子をかぶったわたしの額に、汗が浮きはじめた。手で汗をぬぐいながら、「人生で最後に行き着く場所」と言った雨市の言葉をかみしめる。
この橋を渡った向こうには、きっと閻魔大王の宮殿があるんだろう。中には裁判所みたいな場所もあって、そこが人生で最後に行き着くところだ。
わかっていても、動悸が激しくなる。雨市はどうなるんだろう。竹蔵とハシさんは? 着いたらすぐに裁判がはじまるんだろうか。
憎き西崎の言葉を思い出してしまった。本物の筆を手にしても、賞金は大柳の息子のものだと言っていたのだ。わたしはまだ、そのことを雨市にカミングアウトできてない。
そのことも気がかりだけど、なにしろあの家にもう戻れないっていうのが、やたらさみしい。
「どうした?」
うつむいたわたしを、雨市がのぞき込んできた。
「いや……なんて言うかさ。あの家にもう戻れないんだなあと思ったら、妙にさみしいっていうか。それに、雨市にもらった櫛も置いてきちゃったしさ……」
がっくりと肩を落とす。すると、ぎゅっと力強く手が握られた。
「覚えときゃいい。モノはしょせんモノだ」
「それはそうだけど。だけどさ、娑婆に戻るとき、どうしても持って帰りたかったんだよ」
雨市はなにも言わない。まっすぐ前を向いたまましばらく歩いてから、やっと口を開いた。
「……さっき。悪かったな」
あれ? なんか謝られるようなことされたっけか?
「なにが?」
雨市は目を細めて、苦く笑った。
「初江王がおまえを戻すっていったとき、おまえを引き留めなかったことだ。ほんとは筆が手に入っても、役所には次の日持って行くつもりだったんだ。あとひと晩、過ごせりゃいいと決めてた。つっても」
軽くうつむいて、雨市は続ける。
「……まあ、複雑っちゃあ、複雑だぜ、じゅうぶんな。けど、おまえを早く戻してやりてえっていう気持ちもあるんだ。だから、引き留めなかった」
握ってる手を軽くゆるめると、わたしを見ずに雨市は、きゅっと器用に指先をからませる。これはまさか……カガミちゃん憧れのラブいカップルのつなぎ方じゃないのか! ただでさえリアルマグマの熱風で常夏以上の気温だというのに、かあっと頬が暑くなって頭がぐらぐらしてきた! 倒れる!……
けど、倒れてなんかいられないから踏ん張るよ!
「そ、そっか。そうだよね。あとちょっと時間があれば、お別れ会的なこともできたもんね。ハシさんの料理でさ」
でも、初江王に発見されてしまった。考えてみればこのほうが、いろんな手間が省けてよかったんだろうけども、ほとほと残念だ。
「……お別れ会ねえ。そいつはちっと違うぜ。なあ、椿」
「なに?」
意味深な笑みを横顔に浮かべつつ、わたしを流し見た。
「ま、おまえにとっちゃこのほうがよかったのかもな」
またもや苦笑した。
「へ? よかったって、なにが?」
雨市は前を向いたまま、さらりと言った。
「だって俺、おまえを抱いちまおうと思ってたし」
「ひっ!?」
……なん……ですと!! それってハグ的な方向じゃない、大人的なやつの意味すか!?
衝撃的すぎて動けない。すると、「歩け」と雨市は笑って、わたしの手を優しく引いた。
「いまさらなんだ。近いことは二度もあっただろうが」
「そ、そそ、そうだけど!」
おろおろするわたしの手を引きながら、雨市はさも楽しそうに笑った。声を殺してひとしきり笑い終えると、ふと真顔に戻る。
「……俺はおまえが大事だ。自分でもびっくりだけどよ、たぶんセツよりも大事だ。こうなりゃ誰にも指一本触れさせねえぞ。それで必ず、娑婆に戻してやる。だから、椿」
わたしの指が折れそうなほど、手に力を込めた。
「これから俺がしゃべることは、全部逆だと思えよ」
「え? 逆?」
「俺が閻魔にしゃべることは、全部嘘だ。もちろん、相手はなんでもお見通しの地獄の裁判官だ。俺の嘘が通じるとは思えねえけど、それでもなんとしても、おまえをこんなとこに引き留めておくわけにはいかねえからな。だから、やれることはなんだってやるしかねえ」
言葉をきると、表情を険しくさせた。
「おまえを閻魔の女官になんか、させてたまるか」
わたしの帽子のつばをつまんだ雨市は、それをさらに目深にさせた。
♨️ ♨️ ♨️
橋を渡りきると、城門の扉の両サイドに立っている鬼コスプレが、金棒をガツンと地面にたたきつけた。それを合図にしたかのように、ぎぎぎときしむ音をたてながら両開き扉が開く。その奥に、とてつもなく巨大な宮殿があらわれた。
あたり一面が血に染まっているみたいな、真っ赤な石だたみの広大な敷地に入る。何体もの大きな鬼の彫像が柱になっており、黄金の瓦屋根を支えていた。そんな世にも恐ろしいデザインの建築物は、まるで巨人が住んでるんじゃないかと思えるほどにでかかった。
ものすごい形相で屋根を支えている鬼の彫像を見上げていると、のけぞりすぎてうしろに転倒しそうになる。なんかこの彫像の目……こっちを見てる気がするのは気のせいかな。それはそれとしてもさ、いったい誰がこんなデザインにしたんだろ。閻魔大王? ってことは、こういうセンスの持ち主ってことだよね。わたしもたいがいダサいけど、ダサいわたしが引くぐらいだからこのセンスもなかなかすごいものがあるな。
この建物のほかにも、似たような建築物が敷地内には整然と密集していて、たいまつを手にした鬼型の柱が点在する廻廊でつながっていた。複雑に入り組む王宮内を、先頭の秦広王はスキップでもするみたいに軽々と歩いて行く。
建物内を直進で通り過ぎると、両開き扉があった。鬼コスプレはいないものの、こちらを威嚇するような表情の鬼の顔が彫られてある。
秦広王が立った瞬間、扉に彫られた鬼は待ってましたと言わんばかりに、自分の顔を二つに割りながら扉を開けた。
思わずごくりとつばをのむ。これからなにを目にするのか、自分でも想像がつかない。とにかく、「ずっとうつむいてしゃべるな」と雨市に言われたことだけは守ろうと誓う。いまのわたしにできることは、それだけしかない。
「絶対に戻してやる。いいな」
雨市がささやいた。わたしは思いきりうなずく。
「うん」
「これから俺がなにをしゃべっても、いっさい信じるんじゃねえぞ」
「わかった」
雨市はわたしの返答に小さくうなずき、意を決したように手を離した。
やがて、扉が全開になる。そしてわたしは、竹蔵とハシさんの肩越しに見てしまった。
玉座に座る、リアル閻魔大王を。