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伍ノ章

廿日鼠と白い鷹

其ノ44

 すうっと一筋。墨絵のような筋が、宙にはっきりと伸びた。と、ごうっと風が巻き起こり、雨市の手にした筆が勝手に動きだしていく。

 宙を舞う筋は線になり、線は輪郭となり、輪郭は立体となって、やがてそれはあらわれた。

 それは――鋭いくちばしと爪を持った、大きな翼を広げる鷹だった。

 人の背丈ほどの鷹がばさりと羽を動かすと、猛烈な風が螺旋状となって鷹を包む。瞬間、ずん、とふたまわりほど巨大化した。

 ――キィィィィッ!

 甲高い咆哮が闇夜にこだました直後、大柳一族の会長で通称〝じじい〟の平吾朗は、恐れおののき尻餅をついた。

 わたしたちを囲んでいた人たちが、一歩二歩とあとずさっていく。そんな彼らに向かって、墨絵のような鷹は目を吊り上げ、くちばしを矢のように向けて威嚇する。

「ひっ……ひいっ!」

「ひゃあっ!」

 誰もが震えあがる声を発した。そんな人々を嘲笑うかのように、翼をはためかせて飛び立った鷹は、驚くべきことに屋敷ほどの大きさとなって、大柳邸の屋根に二本足の爪をたてた。

 ――キィィィィッ!

 そう鳴いた鷹は、ぐっと頭を地面へ向けると、くちばしからまばゆい光の筋を放つ。その神々しい光のせいか、わたしの目には鷹が純白に輝いて見えた。

 これが、雨市の――心なのだ。

 猛々しくて、光り輝く。意味するところはわからないけど、銀座にあらわれた虎とは全然違う。

 ――光を放つ、獣だった。

 鷹の鳴き声とともに放たれる光に恐れを感じたのか、大柳の人々は一人二人と敷地内から逃げはじめる。あまりにも現実離れした光景に、さすがのわたしもあ然としていると、雨市に腕を引っ張られて正気に戻る。

「ぼうっとすんな、逃げるぞ!」

「そ、そっか! だよね!」

 ハシさんと竹蔵とともにひたすら走り、正門を目指す。走りながらうしろを振り返ると、鷹はまだ屋根にいた。

 ホント、すごい光景だ。ガチ特撮……。いや、特撮じゃなくて現実だけど!

 正門から無事、通りに出る。大柳邸からの脱出に成功したものの、わたしたちは走り続けた。その間、全員が無言だった。

 追いかけられている気配はないのにひたすら走り、瓦屋根の家々が密集し、静まり返った路地裏まで来てからやっと、雨市が先に立ち止まった。

 全速力で走りすぎて、息切れがハンパない。倒れ込むようにして通りに横たわったわたしは、肩で息をしながらなんとか四つん這いの態勢をとった。

「……な、な、なんか! なんかめっちゃすごいの、見た!」

「いやあ、立派な獣でございました!」

 ふううっと大きく、ハシさんが深呼吸をする。

「なんだいありゃ。あんなもん見せられたって、面白くもなんともないよ」

 竹蔵は膝に手をあてて前のめりになりながら、ぜいぜいと息をきらせつつ憎まれ口をたたく。雨市も深呼吸を繰り返しながら、落ち着くためか煙草をくわえた。

「まあ、なんでもいいぜ。おかげで逃げきれた」

 うつむきがちに煙草に火をつけると、軽く咳き込みながら煙を吐く。と、雨市のベルトがチラ見えし、そこに挿さっている墨のついた筆が視界に飛び込んできた。とたんに、わたしが筆を持ったらなにが出るんだろうという、どうしようもない好奇心におそわれてしまった。

 どうしよう。わたしもあのイリュージョン、やってみたいんですけど!

「そ、それって……内面ってか心的なやつを、あらわすんだよね……?」

「さようでございますよ」

 ハシさんが言う。閻魔大王の筆だし、軽々しく持つのははばかられる代物だろうけれども、確実に言えることがある。

 こんな機会は、絶対に絶対に二度とないですから!

「……す、すんません。それ、わたしも使ってみたい!」

 占い的な方向で!

「あ? ダメに決まってんだろ」

 雨市にあっさり断られた。まあ、ですよね。

「あ、はい」

 肩を落としてうなだれると、竹蔵が笑った。

「いいじゃないか、雨市。あとは役所に持ってくだけなんだし、もう誰が使ったっておんなじだよ」

 竹蔵のまさかの味方発言に、びっくりして顔を上げる。表情を険しくさせた雨市は、じいっとわたしを横目で見ながら煙草を吸い続け、吸い殻になったそれを地面に放ると苦笑した。

「……しゃあねえなあ。ほらよ」

 ジャケットをぺろりとめくり、ベルトにおさまる筆をあごでしゃくる。

「えっ。い、いいの!?」

 雨市はニヤッとした。

「実はちっとばかし、俺も興味がある」

 おそるおそる、筆に手を伸ばす。雨市のベルトから抜いたとたん、筆はちょろちょろとちんまり動きだした。

「うっわ、動いてる! めっちゃ勝手に動いてる!」

 しゅしゅしゅと小さな筋が宙に浮かび、ちょんっと筆が止まった直後、手のひらサイズのなにかが空中からぽっとんと落ちた……ってか、え。

「え」

 ――ちゅうっ。

 大きくもならずにめっちゃ小さいそれが鳴く……っていうか、これって。

「おや、ネズミかい」

 その場にしゃがんだ竹蔵は、墨絵のアニメみたいに動く小さなネズミを見下ろすと、目を細めてふふふと笑う。

「ふむ、ネズミですなあ」

 ハシさんに念を押された。ははっと笑いながらしゃがんだ雨市は、ちょこまかと動くネズミを指でつついて遊びはじめる。そしてわたしは、思いきりうなだれた。

 わたしはネズミ? わたしのハート的なものがネズミってこと……? きっとそうなんだろうな。閻魔の筆的にはそうっぽい。でもって、これの意味するところは……なんてわかるわけないし!

 やがてネズミは、ふわっと霧のように消えてしまった。雨市の鷹はずいぶん屋根にいたのに、わたしのネズミ弱すぎじゃね? 

 あー……なんだろうこのガッカリ感。もっと人生的な修行を積めってことなのかな。それならなんかわかる気がするけれどもさ!

「なんかもっとカッコイイのが出るかもって、期待してましたすんません」

 肩を落としてそう言うと、三人の笑い声が闇夜にこだました。なにさ、なにさ!

「まあまあ、そう落ち込まずとも、かわいらしいということでございましょう」

 ハシさん師匠の速攻フォロー、優しすぎて胸にしみるよ!

「そうかな? そういうことかな!?」

「あんたは毒にも薬にもなりゃしない娘だってことだろ」

 竹蔵がいじってくる。えええい、それならば!

「じゃあ、はい! 次は竹蔵さんの番だよ!」

 ずいっと筆を差し出すと、竹蔵は腰を上げながら首を振った。

「マシなもんが出るわけない。見ちまったら目が腐るよ。アタシはいいから、ハシさんはどうだい?」

 それはわたしも、めっちゃ興味ある。ハシさん師匠の内面って、どんなだろ。筆からなにが出るんだろ。

 筆を差し出すと、ハシさんは目を輝かせて受け取った。

「ようござんす。では、わたくしめも」

 ハシさんの指が、筆に触れる。ハシさんが筆を握ったとたん、筆はすうっと弧を描く。刹那、墨絵のような筋にきらきらしたラメみたいな輝きが生まれていく。と、光またたく飛行機雲のような筋が、闇夜に向かって一直線、ぐんぐんとのびていった、直後。

 あっ、と声にする間もなく、全員で夜空を見上げたときだ。

 ――ドンッ。

 音をたてて、星屑のようなまたたきが弾けた。

「うわあ、花火だ!」

「……へえ。こいつは、いいなあ」

 雨市が笑った。それに続いて、ドンッ、ドンッと大輪ではないけれど、優しい花火が闇に舞広がった。

「ほう? わたくしは花火でございますか」

 ハシさんの言葉に、雨市は小さく微笑んだ。

「ハシさんがいてくれたから、こんなしょーもないとこにいても、きれいな部屋で暮らしてうまい飯が食えた。ハシさんは闇を照らしてくれる花ってこった。閻魔の筆、わかってんじゃねえか」

 ハシさんは照れくさそうに頭をかくと、花火の消えた闇を見つめた。

「いやあ、照れますな。なんとももったいない。〝たーまやー〟ですなあ」

「それなに? 〝たーまやー〟ってやつ」

 わたしが訊くと、そんなことも知らねえのかと雨市は唇をとがらせた。

「江戸のころは立派な花火は玉屋の花火って、相場が決まってた。そんで、いつの間にか玉屋の花火じゃなくても、きれいなやつにはそう声を上げるようになっちまったんだよ」

 なるほど。一つ賢くなった気がする。

「なあ、ハシさん。もっかいやってみておくれ」

 竹蔵にそう言われたハシさんは、止まった筆を指でつんとつついた。すると、筆はぶるるっと震えてふたたび動き、残りの墨を使い果たすかのごとく弧を描いていく。

 ――ドンッ。ドンッ。

 ささやかな花火が上がって、わたしたちはいっせいに声を上げた。

 

「たーまやー!」

 

 ハシさんの優しい花火を目にしていたら、なんでかちょっとだけ泣きそうになった。

 ここは地獄の入り口で、わたし以外の全員が生きていない人たちだ。

 この奇妙な世界の旅がもうすぐ終わるんだと思うと、心残りが山ほどあるような気がしてくる。でも、それがなんなのかがわからなくて、言葉にならない思いがめちゃくちゃたくさん脳裏をかけめぐっていった。

 夜空を見上げる雨市の横顔を、じっと見つめる。

 人生ではじめてできた、わたしの彼氏。だけどもうすぐ、会えなくなる。会いたくても、本気で会えなくなるんだ。

「どうした?」

 うつむくわたしを、雨市がのぞき込んできた。涙があふれそうになったとき、なぜか眉根を寄せた雨市の視線が、ぐぐぐとわたしの背後に移動した。

 ん? と、背筋を伸ばして固まったハシさんも、わたしのうしろを見つめたまま微動だにしない。なぜか鬼の形相になった竹蔵は、両手を袖に入れた格好で静止しつつ、やっぱりわたしの背後を睨みすえていた。

 え、なんだろ。なにげなく振り返ったとたん、

「ひいっ……!」

 いったいどこから登場したのか。わたしの背後に立っていたのは、ぼっさぼさのロン毛に黒い肌、裂けた口角から牙をむき、額から一本のツノを生やしているうえに、ぼろぼろの衣服を身にまとって金棒を手にした存在だった!

 いまさら間違いようもない。どこからどう見ても――。

「――おおお、おおおおお、鬼!」

 とっさに雨市にしがみつく。すると、

「あっ……そうか」

 そうつぶやいた鬼は、なぜか自分のあごをつかんだ……って、あごがはずれた!? いや、そうじゃない。なんだよもう、お面かよ!

 ぼっさぼさの髪の毛付きの恐怖の面をはいだ人物は、すっきりとした端正な面立ちをあらわにさせて言った。

「……突然、このような姿で失礼いたしました。大王さまの筆を使用した気配を感じまして、急いでこちらの方向におもむいたものですから、何卒ご容赦を」

 一重の涼し気な目を落とす。

「失礼ですが、どなたですかな?」

 ハシさんが訊ねると、お面を手にした背の高い人物は、なぜか疲れきった表情で静かに告げた。

「わたくしは、初江王と申します」

 ショコウオウって、どっかで聞いたような……。あっ、そうだ。役所のハイコウが言っていた、阿弥陀如来に手紙を書いた偉い系の人の名前じゃなかったっけ? わたしの記憶が正しければそうだけども……。

 でも、だとしたらなんで偉い系の人が、鬼のお面をかぶってたんだろ?

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