伍ノ章
廿日鼠と白い鷹
其ノ43
しん、とあたりが静まり返る。
竹蔵のカミングアウトに驚いたのは、わたしだけではないらしい。これ以上ないほど目を見開いた雨市は、驚きをあらわにして竹蔵を見ている。ハシさんも背筋をのばした姿勢のまま、銅像みたいに固まっていた。
西崎に馬乗りになっている竹蔵の、右手に握られた短刀が月光に照らされる。西崎の頬すれすれにあてられた鋭利な突端が、一瞬きらりと冷たく光った。静寂に包まれた大柳邸の台所で、沈黙をやぶったのは西崎の笑い声だった。
「……覚えているぞ、もちろん。大友組の泉屋。こちらに来て一番に驚いたのは、貴様が里下と同居していたことだ」
「ああ、そうかい。そいつはアタシのただの気まぐれだよ。あんたに関わるはめになるとは思わなかったけど、こうなったらしゃあねえや」
「やっと顔を合わせられたんだ。仲良くやろうじゃないか」
笑みを含んだような西崎の声音に、おびえているようすはまるでない。すると、わたしのそばにしゃがんでいた雨市が腰を上げた。
「……相変わらず、ずいぶんハデなもん持ち歩いてんなあ」
そう言って、床に転がる拳銃を手にすると、西崎の額に銃口を向けた。
「なあ、西崎。お互いに手の内を見せちまうってのはどうだ? 教えてくれよ。おまえは俺をどうするつもりだったんだ?」
さっきまでのていねいな口調はどこへやら、いつもの調子で雨市は言う。でも、その声音には脅しを含んだドスが利いていた。
「手の内だと? そんなものあるわけがない。とにかく、まずはその拳銃を私に向けるのをやめろ、里下。おまえもだ、泉屋。すでに死んでいる男を、殺すことなどできないと知っているだろう?」
「そらそうだ」
雨市は冷笑気味に吐き捨てた。
「けど、どうなるか試してみるのもいいかもな。あんがい脳天吹っ飛んだ化け物みたいになっちまうかもしれねえし。それでもまあ、死ぬこたねえだろ」
絶句した西崎にかまわず、雨市はさらにたたみかける。
「先に俺が手の内見せてやる。おまえはどうせ、俺をハメて捕まえるつもりだったんだろ? だからそのとおり、捕まるつもりでここに入った。おまえがここで寝起きしてるのは知ってたから、眠ってるおまえのそばで金庫を開けて、本物の筆を盗るふりをするつもりだったんだ。そうすりゃ物音もたつし、おまえは目覚める。案の定さっき開けた金庫の中には、本物じゃねえ筆がおさまってたしな。さも本物みてえに、豪勢な絹の布にくるまれてよ」
くすくすと笑う西崎が、マジで不気味だ。顔は衣心にそっくりでも、衣心はここまで腹黒くない。いまさらだけど、ヤツとこいつを比べるってこと自体、ヤツに申しわけない気がしてきた。
西崎が口を開く。
「いずれおまえが来るだろうことは念頭にあった。ただし、こんなに早くとは思わなかった。それに、一匹狼を気取るおまえが、わざわざ邪魔な人間を引き連れてくるとも思わなかった。おまえの言うとおりだ、里下。私はおまえに筆を盗ませるつもりだった。だがそれは偽物。あわてふためくおまえを見て笑うつもりだったのに、ずいぶんつまらないことになってしまったものだ。じゃあ、訊こう。おまえは私に捕まって、それでどうするつもりだったのだ?」
「おまえが俺を気絶させて役所に連れていく前に、ふたりきりになったすきを見て、おまえの身体から本物の筆を奪うつもりだったってこった。ついでと言っちゃなんだが、どうして銀座のど真ん中で筆を使ったのか知りてえな」
「……私の行動を読むのがうまくなったものだ。娑婆でもそうであれば、牢にぶち込まれることもなかっただろうに」
そう言ってしばし沈黙した西崎は、軽く咳き込んでからしゃべりはじめた。
「銀座の虎……。まさか自分の心根が、あんなに立派な獣だとは思わなかった。何が出るのかわからなかったが、あそこで筆を使ったのは、そこの娘が」
わたしを見て、言葉を続ける。
「生きている娑婆の娘であると、帝劇で知ったからだ。どうしてこちらへ来たのかは知らないが、なんとしても手に入れたいと考えた」
「だからって、筆を使う必要がどこにあるのさ」
竹蔵の問いに、西崎は失笑した。
「そこの男が」
言葉をきると、ハシさんに視線を移す。
「腕利きの泥棒で、夜な夜な役所に潜入していることは調べ済みだった。その娘を娑婆に戻す方法も、その男が調べ上げるだろうことは容易に予想できる。その邪魔をするには、役所を混乱させるしかない」
咳き込んでから息をつき、またしゃべり出す。
「混乱させるには、本物の筆を使ってやればいい。そうすれば役所は一日中動きっぱなしになり、その男が潜入する機会もなくなる。しかし、それと同時に本物の筆を持っている者がいることも知れ渡るため、おまえにその罪をかぶせるつもりだったということだ。その娘を利用してな」
「……腹の立つ野郎だよ」
そうつぶやいた竹蔵は、短刀を帯におさめるやいなや、
「もういい。静かにしやがれ」
西崎の腹に拳を入れた。短い声を発した西崎は、身体を曲げたまま動かなくなる。それを合図にしたかのように、雨市はわたしとハシさんを見て言った。
「長居しちまった。さっさと逃げるぞ」
その直後、邸内に続くドアがいきなり開いた。立っていたのは、小太り紳士の園谷だ。
目前の惨状に、園谷は目を丸くして固まる。わたしも同じく、腰を上げようとした恰好で固まる。
「おや」
竹蔵が声をもらす。ハシさんがわたしの腕を取り、外に通じるドアを雨市が押した――瞬間、オペラ歌手もびっくりな園谷の美声が、邸内に轟いた。
「……かっ、火事だぁぁぁ――――っ!!」
とたんに邸内がパッと明るくなる。舌打ちをした雨市は、ドアを開け放って外に出た。竹蔵に続いて、わたしもハシさんに引っ張られながら外へ出る。
目前に門扉があるというのに、どこからともなくあらわれた寝間着姿の使用人が、がっちりと鍵をかけてしまった。動きがめっちゃ素早い。超訓練されてる!
「こちらです――!!」
使用人の女性が叫んだ。スーツ姿の男たちがわらわらと姿を見せ、追いかけてくる。裏庭をまわり込むはめになり、とうとう大柳の庭園に出てしまった……っていうか!
「か、火事じゃないじゃん!」
「そう言やみんなが目覚めんだよ。お約束さ」
走りながら竹蔵が答えると、ハシさんは感嘆の声を上げた。
「しかし、感心ですなあ。使用人の方々は、そうとう訓練されておりますぞ」
「だよね! 思った!」
「おい、褒めてる場合じゃねえぞ!」
煌々とした灯りが、大柳邸のすべての窓からもれていた。と、ワインレッドのガウンを羽織った恰幅のいい髭紳士が、正面玄関から杖をつきつつ出てきた。
西崎の離れからも、もはや誰なのかわからない男たちが集合してきて、庭園のど真ん中に立つわたしたちは、すっかり囲まれてしまった。
逃げられない。もうマジで……逃げられない!
「ど、どうすんの、これ……っ」
思わずささやくと、ハシさんが言った。
「さあて、どうでしょうなあ。四人仲良く役所行き……ですかな?」
「だからさっさと逃げりゃよかったんだよ。あんな野郎のしゃべりを聞いてないでさ」
ぶうぶうと、竹蔵が口をとがらせた。そんな竹蔵を、雨市は半眼で睨みすえる。
「西崎を刺す勢いだったのは、どこのどいつだよ。びっくりすること聞かされて、こっちは落ち着くのに必死だったんだぜ、まったくよ」
「あんたの気持ちなんざ知ったこっちゃないね。それよかこいつらどうすんだい。ざっと見積もって三十人だ。いっきに片付けちまいたいけど、椿に怪我はさせたくないんだよ、アタシは」
「えっ? いや、そういうの大丈夫なんで! むしろ加勢するんで!」
クッと竹蔵は吹いた。
「ああ……、そういやあんたはそうだったね」
「つっても、大の男がけっこういるぞ。西崎の鉄砲を振りまわしたくもねえし……くっそ面倒くせえなあ……」
眼差しを鋭くさせて周囲を見まわした雨市は、「墨があればなあ」とささやく。それを耳にしたわたしは、はっとした。そうだ。
雨市は、閻魔の本物の筆を持っているのだ。
――そしてその筆は、手にした者の内面を描き、かたちにしてしまう!
西崎は、あの巨大な虎を筆から出した。ってことは、雨市にもそれができるってことだ。そのうえ、墨はわたしのポケットにある!
「あるよ!」
わたし、偉いよ! 嬉しくなって叫ぶと、雨市と竹蔵が同時にわたしを見た。
「持ってんのか?」と雨市。
「あるよ! 台所にあったやつ、戻せなくて……ってか、説明すると長くなるかも」
「いやいい。でかしたぞ」
褒められた! へへへと微笑みそうになった矢先、ガウン姿の老紳士が声をはり上げた。
「こそこそとなにを相談しておる! この盗人どもめ!」
「あれが、通称〝じじい〟の大柳平吾朗でございます」
ハシさんが教えてくれる。いまさらだけど通称が〝じじい〟って、なんのひねりもないな……。
杖をつきつつ、平吾朗が近づいてきた。その隣にくっついているのは、園谷だ。なにやら耳打ちされた平吾朗は、わたしたちを睨んで声を荒らげた。
「なんだと!? またおまえの仕業か……里下!!」
その絶叫を合図にしたかのように、背中合わせになって立っているわたしたちに向かって、邸の皆さんもじりじりと円形を狭めてくる。
「椿」
わたしの右肩に、雨市の左肩が触れた。
「はい?」
「あとでたっぷり礼してやるから、ひとまず墨、よこせ」
「へ? う、うん。はい」
墨の入った小瓶をポケットから出し、雨市に渡す。お礼ってなんだろ……気になる!
「つ、使うの?」
「ああ。なにが出るかはお楽しみだ。俺が筆を使ったら、いっきに門を越えるぞ。いいな」
「ようござんす」
ハシさんが言う。
「ネズミじゃないことを祈るしかないね。さっさとやりな」
竹蔵は苦笑交じりに吐き捨てた。そしてわたしは、大きくうなずく。と、平吾朗が憎々しげな声音を放った。
「里下雨市。よくもわしのかわいい西崎を、ひどい目にあわせたな。台所でのびているそうじゃないか。いったいなにを盗みに来たのだ、金か!?」
ふう、と雨市は息をつく。そうしてからにっこりすると、囲んでいる人たちを見まわした。
「ずいぶんお騒がせしてしまいました。まあまあ、とりあえず落ち着いてください。べつに金目の物を盗みに入ったわけじゃないのです。手に入れようと思ったのは、これでして」
おもむろに筆をかかげて見せると、場が騒然とした。
「ですが、これはニセモノかもしれない。判断がつきませんから、困りましたねえ」
ざわめきが大きくなる中、平吾朗が雨市をにらんだ。
「なんだそれは、閻魔の筆ではないか。ニセの筆はすべて役所に渡したと聞いたぞ。これはどうなっている? どういうことだ、園谷!」
園谷がぐっと息をのむ。そんな二人に、雨市はゆったりとした語調で告げた。
「まあまあ、平吾朗さん。詳しいことは、あなたのかわいい西崎氏に訊ねるとして、ちょっとご覧ください。これをこうして……」
筆を口にくわえた雨市は、墨の入った瓶の蓋を開ける。蓋を足下へ捨てると瓶を持ちなおし、筆を右手に握った。
「……まあ、どうせニセモノでしょう。ニセモノのニセモノと言いますかね。西崎氏はこのような筆を、なぜだかたんまり持っておられたようですし……」
言葉をきって、雨市は表情を変えた。険しげな表情で顎を引き、瓶の墨をたっぷりと筆に浸すと、
「……許せ、閻魔!」
瓶を投げ捨て、手にした筆ですうっと一筋、宙をきる。直後――。
――それは、あらわれた。