伍ノ章
廿日鼠と白い鷹
其ノ41
大柳の敷地は、門塀に囲まれている。
ほのかな月明りをたよりに、南を向く正門の反対側に小走りで向かった。
人影はまるでないのに、獣みたいなうめき声が遠くからこだましている。ハシさんの結界のおかげでこの界隈へは来ていないけれど、あれはあきらかに……魑魅魍魎系の声だ!
近くへは来ないとわかっていても、恐怖は恐怖だ。雨市の手を思わずぎゅうっと強く握ったら、「大丈夫だ」と握り返してくれる。雨市にそう言われただけで平気になるなんて、わたしはホントに単純だ。ひそかに一人で笑ってしまった。
北向きの裏手の門塀に、南京錠が下がる頑丈そうな木製の門扉があった。手ぬぐいでほっかむりをしているハシさんは、胸元から針金状の細長い道具を出す忍び足で門扉に近づき、南京錠に手をかけるやいなや道具をするりと穴に差し込む。
「ハシさん。暗いけど見える?」
ひそひそ声で訊くと、ハシさんはほほほと小さく笑った。
「手先の感覚でわかってしまうのでございますよ」
さすが師匠。天才です。
カチリと南京錠が開く。握っていた手を離した雨市は、門扉に近づいて耳を押し付けた。物音がしないことを確認するとうなずき、門扉から身体を離す。取っ手をつかんだハシさんは、ゆっくりとそれを引いた。それなのに、なぜか開かない。
「……おや?」
思いきり身体を反らせて、力いっぱいに引いてもなぜか開かない……っていうか、ハシさん、それはっ!
「押すんだ、ハシさん」
そのとおりだ。雨市の言葉のとおりにハシさんが門扉を押すと、すんなり開いた。
うーん……若干不安になってきたぞ。
門扉をすり抜けると、小さな焼却炉と井戸のある裏庭だった。その奥に、煙突のある瓦屋根の平屋があった。ここが、見取り図でいうところの台所だ。
窓は真っ暗で、勝手口にはやっぱり南京錠がかかっている。
雨市が窓に近づいた。壁に背中をつけながら中をのぞき、うなずく。勝手口に耳を押し付けたハシさんは、ふたたびするりと南京錠を解いた。そうして、ゆっくりと静かに勝手口を押す……けども開かない。身体全部で押しても開かない……っていうか!
「引くんだよ、ハシさん」
今度は竹蔵がアドバイスをした。言われたとおりに引くと、力いらずですうっと開く。うーん……さらに不安になってきた……。
青い月明りが窓から射してはいるものの、台所はかなり暗い。しばらく目を慣らしているうちに、右側のかまどや左側にずらりと並んだ棚が見えてくる。
ど真ん中には大きなテーブルがあり、五脚の椅子がそれを囲んでいた。洋風の豪邸だからか、天井は高いしかなり広い。きっとたくさんの使用人が、ここで煮炊きをしているんだ。
棚には調理器具や缶、籠に入った食料が整理されておさまっており、テーブルの下には蓋付きの壷がいくつもあった。中身はおそらく米とか味噌、小麦だろう。ここで小さくしゃがんだら、椅子と壷の影になって隠れていられそうだ。
「わたし、ここにいるよ」
テーブルの下を指して言うと、雨市が言った。
「そこが一番よさそうだな。絶対に動くんじゃねえぞ」
「うす!」
気合いを込めて、大きくうなずく。すると、ハシさんは背負っていた風呂敷をテーブルの上に広げた。
いろいろな道具にまぎれて、手のひらサイズの半紙が束になっている。手袋を脱いだハシさんは、ズボンのポケットから小瓶を出す。その小瓶の中身を人差し指につけると、裏返した半紙に塗りはじめた。
「ハシさん、その塗ってるのはナンデスカ?」
「米をつぶした糊でございますよ」
そう言うと、母屋につながっているドアにぺったりと貼り付けた。だけど?
「あれ? その半紙、真っ白だよ」
「暗くて見えなくなっておりますが、ようくご覧になりますと、ほれ。安息香を煮詰めた汁の梵字でございます。これは物音を消してくれる魔術でございまして、こうしておきましたら、ここで大声を出してもほかの部屋には聞こえないのでございますよ」
さっきまでは一抹の不安に襲われていたぇれども、さすがは役所潜入を繰り返してきたわたしの師匠。
疑ってすみませんでした。素晴らしいです!
ふたたび手袋をつけたハシさんは、風呂敷を背負いなおすとドアに向かった。雨市と竹蔵もハシさんのうしろについて行く。そんな三人を、おにぎり係のわたしは見送ることしかできない。
「気をつけて!」
振り返った雨市は、にっと笑った。でもすぐに真顔になって、テーブルの下を指す。
「じっとして隠れてろ。いいな」
「わかってるよ。大丈夫」
わたしが答えた瞬間、背を向けた三人は台所から姿を消した。
テーブルの下に身をひそめる前に、念のため勝手口がちゃんと閉まっているか確認し、母屋につながるドアもたしかめた。大丈夫だ。
椅子に囲まれた大きなテーブルは、引き出し付きだった。しゃがむ直前、なにげなく引き出しを開けてしまった。便せんや封筒、はがきなんかが乱雑に詰まっていた。
……そっか。ここは使用人の休憩室も兼ねてるんだ。
ここでご飯を食べ、たぶんお茶なんかもしたりして、ちょっとしたすき間に手紙やはがきを書いているんだ。なるほど……って、そんなことはいまどうでもいいし!
閉めようとしたとき、なにかが引っかかって閉じなくなった。焦りながら引き出しの奥に手を入れると、瓶らしきものが指先に触れる。
それをつかもうとした矢先、ドアの向こうから人の声がした。とっさに瓶を抜いて引き出しを閉め、目立つ帽子を脱ぎながらテーブルの下に身を隠した。
……ひー! めっちゃ危なかった!
壺の間で体育座りをしながら、瓶を確認する。手紙を書く用の墨だった。返しておかないとと思いつつ、とりあえずジャケットのポケットに突っ込んだ瞬間。
――カチャ。
台所のドアが開いた。ぐっと息をつめて、さらに身体を小さくする。とたんに心臓がバクバクしてきた。
入って来たのは、誰なんだ!?
――しゅっ。
マッチのする音だ。室内が一瞬灯って、必死になって息を殺した。
煙草の煙と匂いがただよう。雨市かなと思ったけど、さっき出て行ったばかりでそんなわけない。と、またもやドアが開く。
「お帰りでしたか。浮かない顔ですな、どうしました?」
どっかで聞いたような声なのに、どこでだったか思い出せない。
「……役所の人間がうざったいんだよ、園谷」
煙草を吸っている人物が答えた。わたしは静かにつばを飲む。
園谷……って、覚えがあるぞ。たしか、前に訪ねて来た小太り紳士じゃなかろうか。
と、いうことは。
この声の持ち主は、絶対に確実に――西崎だ!!
「あちこちにいてかなわないな。いったいなにを探っているのか、遊郭にすらいる始末だ。この前屋敷にあらわれた〝子どもみたいなやつ〟もいたぞ」
どうやら西崎はキャバクラ帰りらしい。それに〝子どもみたいなやつ〟って、もしかしてハイコウ?
ってか、え。ちょっと待って。
西崎がキャバクラ帰りとかって、想定外の設定だったんですけど。
なにをのん気に、女子と遊んでるのさ。いや、べつに遊んでもいいんだけど、よりにもよって今夜だけはやめて欲しかった!
そんなわたしの思いが伝わるわけもなく、園谷が愚痴る。
「競売目的で準備した夜会も、あの娘に逃げられたせいでさんざんなありさまになりましたしな。湯水のように金を使って遊びまわってるだけの雄一郎氏の、あの勝ち誇ったようなお顔! 仕事もままならない馬鹿息子が、あなたを笑える立場だと勘違いしておられるご様子。閻魔の本物の筆を盗まれた張本人がふんぞり返っておられて、私の腹は煮えくり返る思いでしたよ」
「そう怒るな。私は気にしていない」
二人の会話からして、ユウイチロウとかいう男子が大柳家のご長男らしい。しかも、最初に本物の筆を見つけたのはその男子っぽい?
だとしたら、西崎はそのユウイチロウから筆を盗んだことになる。
「それにしても、本物の筆はいったい誰が盗んだのやら……。銀座のど真ん中で使用するとは間抜けにもほどがありますな」
えっ。西崎の右腕っぽいくせに、西崎が盗んだって知らないんだ。
じゃあ、やっぱり雨市の言っていたとおり、西崎はみんなに内緒で筆を持っているんだ。
「……前からうすうす考えておりましたが」
ふいに、園谷が言った。
「もしや、里下」
「……かもな」
速攻で西崎が答える。いや、おい! 違うだろ!
どうしよう。ものすごく嫌な予感がしてきた。
西崎は雨市をハメようとしてる。そんな気がするし、それはわたしの気のせいじないぞ!
靴音がたつ。その足が、テーブルの下にあらわれた。
「そもそも生きている人間の娘が、里下の家にいたということからして、私はどうにも解せなかったのですよ。どのようないきさつがあってこの世界へまぎれこんだものやら。そのことに役人が気づかないという間抜けさも、苛立たしいことこのうえない」
園谷の言葉に、西崎は乾いた笑い声を上げた。
「課の役人は極楽行きの賞金に名乗りをあげた者の詳細しか、興味がないし知らないのだ。とはいえ本物の筆を盗み、さらに隠した罪は重いだろう。どのみち地獄行きとはいえ、地獄以上の拷問が待っているはずだ」
……はあ? おいおいおいおい、なにをおっしゃっているのデスカ?
あんたがそういう目にあうんでしょーがっ!!
ムカムカして鼻息が荒くなりそうなのを必死に堪える。それはそうと内緒話が聞けたわけで、ここに隠れていてよかったかもしれない。
「まあ……なんにせよ、里下を罠にはめてから、例の娘は手に入れるさ。もう一本吸ってから戻る。少し一人にしてくれ」
西崎が言うと、「わかりました」と園谷は去った。テーブルの下から見える足は止まったままだ。壷のすき間にしゃがんでいるわたしは、ぐるぐると考えた。
大柳の息子から閻魔の本物の筆を盗んだ西崎から、さらに奪おうとしている雨市を、西崎はハメようとしている。雨市のことだから、もちろんそのこともすでに頭にあって行動しているとは思うけど、それでも心配でたまらない。
西崎に濡れ衣を着せられて、閻魔大王の前に引き出される雨市の絵面が妙にリアルに浮かぶとか、マジで勘弁して欲しい!
「……で?」
突然、西崎が声を発した。どうしたのかと思った瞬間、目の前にスーツ姿の西崎がしゃがむ。
――うっ。
衣心そっくりのにやけたような顔つきが、壷のすき間からあらわれた。
「――どうしてここに?」
そう言って、西崎はにんまりと笑った。