伍ノ章
廿日鼠と白い鷹
其ノ40
仏様をまつる寺の娘ともあろう人間が、地獄の手前で盗みを働くはめになるだなんて、いったい誰が想像したであろうか?
……否、誰もだ!
外はすっかり暗くなり、雨市が灯籠のあかりをつけた。ハシさんは畳の上に、「コ」の字を下向きにしたような大柳邸の見取り図を広げる。
「大きいだけで、しょせんはただの民家でございます。見張りが立っているとしましても、夜に出かけてまで忍び込もうとする輩は普段はおりませんから、こちらの裏口は手薄であることが予想されます」
そう言ったハシさんは、北の方角を指した。
「ここは台所につながっておりまして、一階の広い玄関に出られます。いわゆるロビーですな。ロビーには大階段がございまして、こうして左右にわかれておりますので、こちらの西側の階段を上がったつきあたりが、もっとも大きな部屋となっております。おそらくここが、大柳会長の寝室でございます」
「西崎の寝床は、その隣だな。どこもかしこも鍵がかかってるだろうから、ハシさんを先頭にして向かう。頼むぜ、ハシさん」
ハシさんはにっこりしてうなずいた。
「おまかせください」
そう言うと、バッグの中から手袋を出す。
「念のために、皆さんも手袋をはめてください。どこにも指紋を残さないのは、お約束でございますからな」
「用意がいいねえ」
竹蔵が言う。ほほほと笑ったハシさんは、帆布製の大きなバッグを小さくたたみ、針金らしき物や大量の鍵などなど、金庫を開けるのに使うと思われる道具を、黒い風呂敷におさめた。そうして黒い手ぬぐいでほっかむりをし、風呂敷を背負うと、まとめたロープを肩にかけた。
泥棒としては完璧なスタイルだ。ただし、一つだけ問題があった。
「ハシさん、その手に持ってる風呂敷包みはなんだ? 邪魔だろ」
雨市が訊ねると、ハシさんは照れくさそうに頬を赤く染めた。
「おにぎりを作りすぎてしまったようで、少々残ってしまいまして……」
「ここに置いてきゃいいだろ」
竹蔵が言った。いや、待って!
「絶対にお腹空くから、わたしがそれ持つよ。おにぎり係になるから、お腹空いたら言ってね!」
というわけで、風呂敷に包まれたそれを斜めに背負った。ハシさんが見取り図を丸めると、雨市がわたしを見て言った。
「おまえはずっと、台所に隠れてろ。すぐにハシさんと竹蔵を戻すから、それまでじっと待ってろ。そうしたら三人で屋敷を出るんだ」
……三人、で?
「え? 雨市氏はどうするの?」
「俺は残る」
そう言うと煙草をくわえて火をつけ、ニヤッと笑った。
「それで、西崎に捕まんだよ」
♨ ♨ ♨
四人同時に動くのはあやしすぎるということで、まずは竹蔵と雨市が宿をあとにし、しばらくしてからハシさんとわたしが外に出た。
不気味な巨大満月が、建ち並ぶ瓦屋根をてらてらと照らしている。人影がまったくない通りに、わたしとハシさんの靴音だけが響く。いまが何時ごろなのかわからないけど、魑魅魍魎系が徘徊しててもおかしくないってことだけは、なんとなくわかる。でも今夜はハシさんの作ってくれた結界のおかげで、うめき声すら聞こえない。
だから、それはいいのだ。いいのだけれども。
西崎に捕まると言った雨市が、めちゃくちゃ心配なんですけども!
筆を盗む手順はこうだ。まずは裏口から邸内に入り、わたし以外の三名が西崎の寝室に向かい、眠っている西崎から筆を盗む。
西崎が寝室にいない場合は、ハシさんが大柳会長の寝室に潜入し、おそらくからくりが施されているであろう金庫をあえて開けて、罠にかかったふりをする。そこに、間違いなく西崎はあらわれる。そんな西崎から、筆を盗む。筆を手に入れたハシさんと竹蔵が、その場から逃げる時間を稼ぐために、雨市が一人残るのだ。その間、わたしは台所に隠れてハシさんと竹蔵を待つ。
……と、ものすごく単純明快な手順なのだけれども、すんなりいくわけがないってことは、わたしにだってわかってしまうわけで。もちろん、きっと三人はうまくやる。そう信じているし、そう思っているのだけれども、もっと簡単な方法はないんだろうか……? いや、ないんだよね。これが一番シンプルだもんなあ。
そんなことをぐるぐると考えながら、ハシさんのうしろを歩く。すると、民家の間から雨市と竹蔵が姿を見せた。そのときにふと、二人に言われたことが脳裏を過った。
そっか、そうだよ。わたしが阿弥陀如来の使者だったら、もしかしてもしかしたら!
「あのさ。もしかしたらわたしが役所に行っちゃえば、全部解決するんじゃないのかな?」
「はあ? なんでさ」
竹蔵に訊かれる。
「わたしが阿弥陀如来様の使者だとすればさ、役所の人たちはわたしを探してるってことになるよね?」
その実感はまるでないし、信じているわけでもないんだけど。
「ってことは、わたしが役所に行って西崎が筆を持ってるって言えば、もしかしてわざわざ盗まなくてもいいのかな……みたいな?」
「お、お待ちください、椿さん! 阿弥陀如来様の使者ですとっ?」
ハシさんが目を丸めた。そうだった、ハシさんにはしゃべっていなかったのだ。すぐに雨市が、わたしの代わりにかいつまんでハシさんに説明した。
「な、なんと、ありがたい……!」
感激をあらわにしたハシさんは、わたしに向かって両手を合わせはじめた。
「い、いやいやいやいや、ハシさん、落ち着いて! わたしは全然偉くないからね!」
はあ、と雨市が息をつく。
「なあ、椿。おまえの言うことはわかるぜ。けど、相手は役所の人間だ。西崎が筆を持ってるうんぬんよりも、本当におまえが使者かどうか、調べるのに何日もかかっちまう。それに、閻魔大王は仕事したくねえんだろ? だとしたら、おまえをやっかいに思うに決まってる」
「えっ?」
「牢にぶち込まれるか、閻魔の宮殿の女官になって、永遠に働かされるね。ま、どっちも最悪ってことさ」
竹蔵が即座に引き取った。えええ……それは嫌だ!
「……やっぱ、盗むしかないっていう?」
「そういうこった。本物の筆をつきつけてやるのが、近道なんだよ。急がばまわれってやつだ。心配すんな。ヘタは打たねえよ」
ずんずんと雨市が歩いて行く。離れていく雨市の背中を見ていると、不安にかられてきた。大丈夫なんだろうか。どうにも心配なんですけども!
「……椿」
数歩前を行く雨市が、なにか思いついたかのようにふと振り返った。と、ポケットから出した左手を差し伸べてくる。なんだろ?……って、ああ、おにぎりが欲しいんだね。腹が減っては戦はできないもんね。
「了解です。ちょっと待って」
わたしは手袋を脱ぎ、背負っている風呂敷を前に寄せておにぎりを手にした。小走りで雨市に近づき、
「はい、どうぞ」
その手におにぎりをのせると、雨市の眉根が険しげに寄った。
「……おい。なんでおにぎりなんだよ」
「えっ、違うの?」
おにぎりをつかんだ雨市は、がっかりした様子で頭を垂れた。とたんに、竹蔵が笑う。
「その男は、あんたと手をつなごうとしたんだよ」
「えっ!」
うっそ、ホントに?
「し、失礼しました……」
微動だにしない雨市の手から、そっとおにぎりを戻す。そのとたん、ハシさんが助け舟を出してくれた。
「ほほ! せっかくですので、それはわたくしがいただきましょう」
「あ、ありがとうございますです……」
手袋を脱いだハシさんに渡しながら、わたしは気まずい思いで竹蔵に告げた。
「……お、教えてくれてありがとう、竹蔵さん」
「どういたしまして。ほら、雨市。あんたがぐずぐずぐしてたら、アタシが椿と手をつないじまうよ」
「それはダメだ」
顔を上げた雨市は、わたしの手を奪い取るみたいにして握るやいなや、歩きはじめた。
「……なんで俺は、おまえみたいな間抜けな娘に惚れちまったんだろうな。まったく、ほとほと呆れるぜ」
うわっ、惚れてるって言った。わたしに惚れてるって言った! 喜んでいる場合じゃないのに顔がにやける。すると、わたしを見た雨市が笑った。
「嬉しそうだな」
「まあね!」
「そんな男のなにがいいんだか」
竹蔵が苦笑した。その横でおにぎりを食べ終えたハシさんは、ふたたび手袋をはめながら微笑んだ。
「美しき恋でございます」
「恋は盲目ってか。やれやれ、くだらない」
つんとそっぽを向いた竹蔵は、早足で先に行ってしまった。そのときなぜかちょっとだけ、雨市の手の力が強くなった。
「……おまえは俺のなにがいいんだ?」
「へ?」
「俺のどこに惚れたんだよ」
「えっ?……い、いや、そりゃまあ、最初はムカついたけど、結局は助けてもらったし。それに櫛とかもらっちゃって、そういうふうに女の子扱いしてもらったのはじめてだったし」
「……そんだけか?」
「え? いや、まだあるよ! 西崎のとこからわたしを助けてくれたし、そういう男子は娑婆にいないもんね。だから、ホント特別だよ」
すまし顔でわたしの手を引いているものの、雨市の口元はあきらかにほころんでいた。
「もっと言え」
「はい?」
「その続きを、もっと言えって言ってんだ」
なんか嬉しそうだ。もちろん、いくらだって言えるよ!
「それに、やっぱりさ、雨市氏はかっこいいよ。男気あふれるみたいな感じの男子とか、きっと娑婆にもいっぱいいるとは思うけど、わたしのまわりにはいなかったんだ。だからさ、とにかく、雨市氏みたいな男子には、もう絶対出会えない気がするもんね」
「それはさすがに……わかんねえだろ」
「わかるよ。ほかのことはわかんないけど、それだけはわかるんだ」
「……わかんのか」
「うん、わかるよ」
「そうか」
「そうだよ」
口をつぐんだ雨市は、やっぱり嬉しそうに微笑んだ。そうしてやがて大柳邸の門が見えるまで、わたしの手をずっと離さずにいたのだった。