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伍ノ章

廿日鼠と白い鷹

其ノ38

 正座しているハシさんは、畳の上に広げた大柳邸の見取り図に見入っていた。

 背筋を伸ばして腕を組んでいるその姿は、盗みを企んでいる人とは思えないほど、すっきりとしていて紳士的だ。

 戸口に立つわたしは、そんなハシさんの様子を目に映しつつ、脳内ではハイコウに教えられた事実をぐるぐると考え続けていた。

 筆は見つからなくてもいいと閻魔大王は思っていて、そのせいで役所のそれ担当の課には、落ちこぼれの方々ばっかりが集まっちゃってるとか、ホントないから。だって、こっちの住人が賞金目的で必死に探したところで、トップが見つける気ゼロなんだもの。ぜんぜん意味ないってことじゃん。だから西崎みたいなやつが、野放し状態になってるんじゃないの?

 うおお……もやもやする!

「椿さん? そんなところで、いかがなされましたか」

 見取り図から顔を上げたハシさんは、わたしに気づいて目を丸くした。閻魔大王と役所の事情にもやもやさせられるものの、いまもっとも気がかりなのは、阿弥陀如来に使命を与えられて娑婆からこっちに来ているという女子の存在だ。

 おそらくその女子は――西崎のごく近くにいるはず! ええい、話してしまえ!

「ハシさん師匠。実は大変なことを、知ってしまいまして!」

 ズザーッとハシさん師匠のそばに滑り込み、正座した。

「大変なこと?」

「はい!」

 打ち明けようとした直後、戸が開いた。帽子とスーツ姿の雨市と、着物姿にストールを巻き、風呂敷包みを持った竹蔵が入ってきた。竹蔵はものすごく眠そうで、雨市はなぜかむっつりとした顔つきだ。ここに来るまでの間に、友達でもなく仲間でもない二人の関係が、さらに悪化したような気配を感じる。

 うーん……ホントに仲良くないんだなあ。

「おや? 予定よりも早いですな」

 ハシさんが言う。ポケットから煙草を出した雨市は、それをくわえると帽子を取った。

「朝飯のあとで、こいつがいなくなってたのは知ってたんだ」

 あくびをする竹蔵を、雨市はあごでしゃくって見せた。てっきり自分の部屋にいるのかと思っていたのに、いなくなっていたなんて知らなかった。

「出かけるついでにあちこち探しまわってみたら、女のとこにいやがった」

 どっさりと風呂敷包みを畳に落として、竹蔵はふたたび大きなあくびをした。

「……どうやっても、ひとりじゃ眠れないんだよ。あんたらにはアタシの苦労なんか、わからないだろうよ。でも」

 ちらっとわたしを見るなり、満面の笑みを浮かべた。

「椿はわかってくれるだろう?」

 同意を求められても、返答に困る。

「う……っと、はあ……」

 雨市は呆れ顔で、煙草に火をつけた。すると、見取り図をくるくると丸めたハシさんは、バッグの中から小瓶を取り出し、立ち上がった。

「それではせっかくですので、さっそく結界をつくってまいります」

「ああ、いつもすまねえな。ハシさん」

 雨市の言葉に、ハシさんはほほっと嬉しそうに笑った。

「好きでやっておることですから、どうかお気になさらず。しかし、腕がなりますなあ。大豪邸はわたくしの大好物ですので、楽しみでしかたがありません」

 ハシさんの持っているガラス製の小瓶には、茶色い液体が入っていた。

「ハシさん、それなに?」

「香の一種の、安息香をくだいて煮詰めたものでございます。指をこれに浸してから、結界の梵字を描くのです。魑魅魍魎にはもっとも効果がありますからな」

 夕方までには戻りますと告げて、廊下に出たハシさんは戸を閉めた。あっ、廊下といえば、そうだ!

「役所のハイコウが廊下にいなかった?」

 障子窓のそばで煙草を吸っている雨市を振り返ると、けげんな顔をされた。

「見なかったぞ。この宿に役人がいんのか?」

「うん。実はさ、ハイコウからすんごいこと聞いちゃったんだ」

 あ? と雨市は小首を傾げる。

「すんごいこと?」

「そう。おにぎりあげたら教えてくれたんだよ」

 というわけで、ハイコウの忠告はもちろん無視して、閻魔大王のことから阿弥陀如来、そしてその使命を受けたという娑婆からの女子のことまで、耳にしたことの全部をしゃべった。

「わたし以外にも娑婆からこっちに来てる女子がいるみたいなんだ。しかもさ、その女子を追いかけたら本物の筆が見つかるっぽいことを、阿弥陀如来様が言ってたってことはさ、その女子って西崎のそばにいると思うんだよね。だからさ、筆を盗むついでにその女子も助けたほうが、絶対にいいと思うんだよね!」

 無理を承知で、提案させてください!

 二人に向かって熱く訴えたところ、なぜか雨市も竹蔵もあんぐりと口を開けて固まった。

「……え、なにその感じ」

 とたんに、竹蔵は苦笑をもらす。灰皿を手にした雨市は、どこか呆然とした様子で煙草の灰を落とした。

「……おい。そりゃ、おまえのことなんじゃねえのか?」

 ……は?

「へ?」

「十六、七の娘で、娑婆からこっちに来ちまった。しかも、今夜俺たちは本物の筆を西崎から奪う。いま西崎にもっとも近い娑婆の娘は、どう考えてもおまえだろうが。たしかにおまえがいなきゃ、わざわざ西崎の野郎から筆を盗むなんざ考えなかっただろうしな」

 なん……ですと?

「い、いやあ……それはないわ。だってそういうのってさ、後光を背負った阿弥陀如来様が夢に出てきて、〝あなたの使命です〟とかなんとか言われたことを、起きてもがっつり覚えてるみたいなことがないとおかしいじゃん。でも、そんなことべつになかったし……」

 ……ってか、え? そういうことなかったけど、もしかしてガチでわたし……?

「やーっ! いやいや、ないない。そんなの立派すぎだし、ありえないもんね!」

「いや。あんただよ」

 さらりとそう言って、竹蔵は笑った。

「え……うそだ」

「うそじゃねえよ、おまえだ」

「……うっ」

 雨市に念を押されたとたん、わけのわからないプレッシャーが怒涛のように押し寄せてきて、下腹の具合がおかしくなりはじめた。たしかに家は寺だし、父さんは住職だけど、偉いお坊さんってわけじゃない。その娘のわたしが、そんなご立派な使命を与えられるような女子のはずないじゃん。

  それなのに、なんでわたしってことになるのさ!?

「ダメだ……。す、すません……ちょっとお手洗いに」

 いそいそと廊下に出ると、ハイコウの姿はなかった。いや、ヤツのことはいまどうでもいい。一階にあるお手洗いを目指し、男子の格好なので目立たないようにさっさと入り、すぐにすます。その間も頭の中は、阿弥陀如来の使者のことでいっぱいだった。

 ……わたしじゃないよね?

 自分で自分に問いかけてみたものの、答えが出るわけもない。うなだれながら廊下に出ると、どこからともなく仲居さんたちの声がした。どうやら役所の人たちは、宿を去ったらしい。それでハイコウもいなかったのか。

 部屋に戻るため階段を上がり、引き戸に手をかけようとしたときだ。

「どうすんだい?」

 竹蔵の声が聞こえてきて、思わず動きを止めてしまった。これはまさかの、聞いてはいけないメンズトークなのでは……?

「どうするって、なにがだ」

 雨市が言う。

「椿のことだよ」

 竹蔵の語調は、どことなく威圧的だ。少しだけ間をおいてから、雨市は深く嘆息した。

「椿に本性見せたくせに、いまさら隠すのに必死じゃねえか、泉屋。おまえの真っ黒な腹ん中をのらくらした口調でごまかしたところで、どのみち化けの皮は剥がれんだぞ」

「椿が気づいてなきゃ、それでいい。男慣れしてない娘相手に、アタシが本気で向かったところで引かれるのがオチなんだよ。あんたがなんて言おうが、知ったこっちゃないね。アタシよか、のらくらしてんのはおまえだろ……里下」

 雨市が黙った。そしてわたしは、部屋に入れない。どのタイミングで入ったらいいのか、合図みたいなものが欲しい!

「……まったく、バカな男だよ。一晩過ごしたくせに手も出さない。せいぜいが首のアレときてる。なにを我慢してんだい。アタシならとっくに抱いてるよ」

 抱く……て、おそらくだけど大人な意味だ。いや、おそらくじゃなくて絶対それだ。うう……部屋に入るタイミングを完璧に逃した気がする。

「相手のこと考えて我慢するなんて、らしくないよ。いったいどうし――」

 たのさ、と続く竹蔵の言葉に、雨市の声が重なった。

「――本気ってこった。言わせんな」 

 ――――え。

 今度はわたしが固まる。瞬間、戸が開いた。わたしを目にした雨市は、竹蔵を気にしてかすぐさま廊下に出て、戸を閉める。わたしの右腕をつかむと、人目につかなそうな廊下の奥まで歩きはじめた。

「……どうせ聞いてたんだろ」

「ま……まあ」

 角を曲がると誰もいない。そこで立ち止まった雨市は、わたしの腕から手を離した。

 どうしよう、訊きたい。〝本気ってこった〟の意味について、もっと詳しく知りたいんですけれども!

「鼻息荒いぞ」

「うっ……うん」

 ふっと雨市は苦笑をもらす。

「……いいさ。これも機会だ。たしかにあいつの言うとおり、俺ものらくらしちまってたしな」

 そう言ってから、雨市は長いこと押し黙り、息をつく。何度目かのため息を落としたあとで、やっと重たげに口を開いた。

「……おまえをはじめて見たとき、ずいぶんきれいなツラの娘だと思ったもんだ。つっても、俺はツラで女に惚れるわけじゃねえ。生きてるころから、世慣れた女のほうが楽だから好んでた。洋食屋で会った綾子もそうだ」 

 清楚女子の名前は、綾子って言うのか。

「う、うん……」

 なんだか胸の奥がもぞもぞして、落ち着かない、雨市の顔をまともに見れなくて、わたしはうつむいた。そんなわたしに、雨市は言葉を続ける。

「だから、おまえのことはなんとも思っちゃいなかった。厄介な娘を拾って面倒だって、正直そうとしか思ってなかったんだよ。ツラはよくても色気はねえし、なにしろ娑婆の娘だしな。けど……」

 言葉をきると、沈黙してしまった。どうしたんだろ。

 上目遣いに見た瞬間、わたしは思わず息をのんだ。せつなげに寄せられた眉、哀しげに細められた目。こんな、いまにも泣きそうな表情の雨市を、はじめて見た。

 なにも言えなくなって、ただ雨市を見つめる。すると、雨市はまっすぐにわたしを見返しながら、はっきりと言った。

「――死んでんだ」

 ――え。

「俺は、おまえが生まれ育った時代よりも、ずっと昔に死んでんだ」

 そう言うと、わたしの頬に右手を添えた。その手はやっぱり、生きてるみたいに冷たくない。でもそれは、この世界にいるからだ。そういうことも、なにもかも全部――。

「――わかってるよ」

「ほんとにわかってんのか」

「ほんとにわかってるよ」

「……おまえが役人の言う娘なら、極楽世界の仏に守られてるってことだ。けど、俺は違う。行き先は地獄だぞ」

「……うん」

「おまえと一緒にいられんのは、〝いまこのときだけ〟だ。そういうこと、わかってんのか」

 いま、やっとわかった。雨市はわたしが傷つくことを、なによりも怖がってるんだ。だけど。

「あのさ。わたし、怖くないよ」

 はっとしたように、雨市はきれいな瞳を見開いた。

「いまこのときしかなくていいよ。怖がって傷つかないようにして、なんにもないみたいなふりをしたら、いつかきっとさ、めちゃくちゃ後悔すると思うんだ」

 そんなことになるくらいなら、全力でぶつかって傷つくほうをわたしは選ぶよ。

「おばあちゃんになったとき、若いときにすごい人を好きになったなあって、思い出すほうを選びたいもんね。だから――」

 ――怖くない。そう声にするよりも先に、雨市の唇がわたしのそれに重なった。

 ああ、やだな。嬉しくてやだな。それに、なんだろうな。泣きそうだ。これ、このこういうやつ、いつもの娑婆のにおいを消す的な感じじゃないからかな。

 言葉にならない思いが、伝わってくる感じがするんだ。ああ、そっか。

 ――恋って、こういうことなんだ。

 雨市はわたしの頬を両手で挟むと、ゆっくりと唇を離す。

「ほんとに、いいんだな」

「うん」

「先がなくても、いいんだな?」

「そんなのいらないもんね……って、あれ?」

「なんだよ」

「なんかさ、つきあうっぽい感じの流れにのっちゃったけど、雨市氏もわたしのことが好きってことでいいの?」

 ……はあ? と雨市は、むぎゅっとわたしの頬を思いきり挟んだ。

「いまさらなにを言ってんだ?」

「ひや、ほこ、じゅーよーらから。ちゃんとしっれおきらいし!」

「まったくアホな娘だぜ。ほとほと泣きたくなってきた」

 ペチンとわたしの頬を軽く叩き、雨市はくしゃりと笑って見せた。

「俺もおまえに惚れちまったってことだ。だから娑婆に戻るまで、最後まで責任とって俺に惚れとけ」

 そう言うと、背中を向けて歩き出す。

 えっ、え! すごいかも。なんかわたし、すごいことになったかも!

 だってさ、絶対片思いだって思って諦めてたのに、そうじゃなかったとかすごくないか?

「なにしてんだ。早く来い」

 肩越しに振り向いて、雨市が言う。わたしの彼氏だ。人生ではじめてのそういう人だ。

 そして――一生に一度の、恋の相手だ。

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