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伍ノ章

廿日鼠と白い鷹

其ノ37

 帆布製の大きなバッグを抱えたハシさんと、昼前に家を出た。

 路面電車に乗り、目的の停車場で降りる。大柳邸のある界隈まで歩き、『波子屋』という宿ののれんをくぐった。

 はたから見たらわたしとハシさんは、仕事で出張中の男子二人組に見えるらしい。「お疲れさまですねえ」とねぎらってくれる仲居さんに案内されて、二階の部屋にひとまず落ち着く。帽子を脱いだハシさんが、畳の上に置いたバッグを開けたときだ。

 あろうことかわたしのお腹が、ぐうと鳴ってしまった。

「おや!」

 ほほほと笑ったハシさんが、風呂敷に包んだ竹籠製の小さな弁当箱を出す。

「十個ほど詰めてありますから、おひとついかがですかな?」

「うっ……はい」

 朝ご飯を食べたくせに、なんなんだろ。この緊張感のないわたしのお腹は!

「午後になったら雨市さんと竹蔵さんが来ます。そののち、わたくしは結界をつくりにまいります」

 そう言ったハシさんは、バッグにおさまる金庫破りの道具の確認をはじめた。と、しくしくとぐずる子どものような泣き声が、廊下からかすかに聞こえてくる。道具に集中するハシさんの耳には届いていないらしく、気にする様子はまったくない。

 さすがは師匠。ものすごい集中力だ。

 しくしく声はなかなかやまず、どうにも気になったわたしはおにぎりを手にしたまま、部屋の戸をそうっと引き開けた。すると右側、ふた部屋をまたいだ先の廊下のすみで、体育座りをしてうずくまっている人物がいた。きっちりと結い上げられた髪型に、黒い着物と袴姿で、両腕に顔を突っ伏している……って、あれ?

 どこかで見たことのある姿だ。いや、見たことあるなんてもんじゃない。

 あれは、まさか? ってか、もしや!

「うっ、うっ」

 嗚咽をもらす人物が、ふと顔を上げる。女の子のようなかわいらしい顔つきの人物と、ガチで目が合ってしまった。ああ、やっぱりね。

「お、おにぎり……」

 役所の宦官ハイコウは、わたしのおにぎりを見るなりつぶやいた。その視線はおにぎりに釘付けになっている。

「……た、食べますか?」

 どうしてこんなとこに役人がいるんだろとか考えつつ、戸口にしゃがんでそっと訊ねた。こっくりとうなずいたハイコウは、四つん這いになると音もたてずに近づいてきた。

「……み、見知らぬお方、すみません。みんなが僕に「うっとうしい」と言っていじわるをして部屋から追い出し、食べ物をくれないのです」

「そ、そうなんだ……」

 それはちょっとかわいそうだ。わたしがおにぎりを差し出すと、ぺったりと正座したハイコウは、両手に持っていっきに頬張った。雨市の家で会ったことがあるのに、男装のせいかハイコウはまるで気づいていないようだ。

「……そっか。いじわるされてるのか」

「はい。おとつい、僕はヘマをしてしまったのです。仕事で五軒まわらなければならなかったのに三軒しかまわれず、時間がかかりすぎだと上司に叱られてしまいました。それで本日から、誰もが断りたがる面倒なお仕事にまわされてしまったのです。だけど、仲間が僕をのけものにするので、ずうっとなんにも食べていないんです。いまだって部屋から追い出されて、それがもう哀しいやら悔しいやらで……」

「面倒な違うお仕事?」

 思わず訊いてしまった。おにぎりに気をよくしたハイコウは、頬に米粒をくっつけたままうなずく。

「僕がまわされたのは、とあるモノを探す課です。そのとあるモノは、ある方が大事になさっているものなのです。あるときそれが盗まれまして、そっくりに作られたニセモノとともにほうぼうへ散ってしまったのです。そういうわけで手を尽くして本物を探しているのですが、どうやらその当のお方が「もう見つからなくてもよいわ」と通達なさってしまわれ、その結果、まったく仕事のできない落ちこぼればかりが、課に集められるようになったのです」

 ……はあ?

 とある方ってのは、絶対に閻魔大王のことだ。ということは、閻魔大王が「本物の筆なんか見つからなくてもよいわ」って、言っちゃってるってことになる。

 なにそれ、どういうことなのさ?

「……な、なるほど。それで?」

「はい。それで、その方の側近も困り果てる事態になりまして、とある方に助けていただくためにお手紙をお書きになったのです。そうしたところお返事がとどきまして、曰く――」

 

 ――わたくしの遣わせた者が、近々そちらにあらわれる。

 ――その者を追いかければ、本物のとあるモノが必ず見つかることでしょう。

 

「と、お返事をくださったのです」  

 ハイコウの言葉に、わたしは頭を抱えそうになってしまった。とあるモノとかとある方とかややこしくて、頭の中がぐるぐるする! はっきりと名前を出していただきたいわ!

「あの……いろいろとまわりくどい感じになっちゃってますが、ここが地獄の入り口でみんな死んじゃってるってのはわかってるんで、ヘンに隠さないで、全部まるごと教えてもらうことはできない感じなんでしょーか?」

 わたしが言うと、ハイコウははっとしたように目を丸くした。ヤバい。逆にわたしがぶっちゃけすぎたっぽい!? 慌てて口を手でおおうと、ハイコウは指にくっついた米粒をていねいに口に入れつつ、神妙な様子で深くうなずいた。

「……そうですか。通りすがりの見知らぬお方。あなたはとても聡明でいらっしゃるのですね。そうであれば僕も、おにぎりのご恩があるあなたに、心置きなく話せます」

 ごちそうさまでしたと手をあわせ、ハイコウは満足げな吐息をつき、続けた。

「とある方とは、閻魔大王さまです。大王さまは大事な筆がなくなって、はじめはたいそう焦っていたのです。けれどもそのうちに、裁判をしなくてもよい日々に慣れてしまわれ、王宮では女官と遊び放題。こう言ってはなんですが、大王さまは少々困ったお人なので、ちょっとでもお時間ができますと、思う存分に楽しみたい性分の持ち主なのです。まあ、不老不死でとても美しい青年ですし、いろいろと楽しみたいというお気持ちはわからなくもないのですが」

「――は?」

 美しい青年? いやそれ、あきらかに違うし!

「えーと……閻魔大王って真っ赤なお肌してて、おっそろしい顔つきのお方じゃなかったでしたっけ?」

「あっ、それは変身後のお姿です」

 え。

「おそろしいお姿のほうが、死者の方々への威厳が保てますので、裁判の前には必ず変身なされるのです。とっても辛い特製のお飲み物を飲まれて」

 変身って、マジですか。

「そ、そうなんだ……」

「はい」

 そっか。閻魔大王って、変身した姿なのか……って、それはいま突っ込むべきことじゃない。その先を知りたい!

「まあいいや。それで?」

「はい。それで、筆がなくなって、仕事をしなくてもよい口実ができたといわんばかりに、大王さまが遊びほうけておられるので、側近である十王のひとりの初江王(しょこうおう)さまが、阿弥陀如来さまにお手紙をしたためたのです」

 阿弥陀如来がナチュラルに会話に出たのは、父さんとの世間話以来だ。

「とはいえ、あちらの天の世界と、閻魔大王さまの世界とでは、さまざまなしきたりがありまして、お互いの世界のことに首を突っ込むことはできないのです。ですので、ちょうど中間の世界から、阿弥陀如来さまが使者を遣わしてくださったようなのです」

「中間の世界?」

「人間界です」

 娑婆ってことだ。

「娑婆から、使者が来るの?」

「はい」

 ハイコウはきっぱりとうなずいた。

「阿弥陀如来さまから初江王さまに『人間界からいらっしゃる使者の方が、閻魔大王さまの本物の筆のもとへ導いてくれるはず』とのお返事が来たのは、ほんの数日前のことです。僕たち課の者は、その方をも探すことになってしまいました。それでこうして班に分かれて、あちこちの宿に泊まりながら、与えられた界隈を捜索するはめになったのです。とはいえ僕の班の仲間たちは、まるきりやる気がないのです。ただもう宿を泊まり歩いて、寝てるか僕をいじめるか、そんなことをしてばかりです」

 そう言って、ハイコウはしょんぼりとした。対するわたしは、興奮をおさえきれない。

 だって、ハイコウの言ったとおりだとしたら、わたしのほかにもこの世界に来ちゃってる人がいるってことになるからだ。

「ち、ちなみにだけどさ。それって、どういう人?」

「はい。年の頃は十六、七歳ほどの、日本なる国の娘さんだそうです」

 それは……大変だ! ってか、その女子大丈夫!? 

 いまごろどこにいるんだろ。まさか、ひとりきりってわけじゃないよね。阿弥陀如来の使者なんだから、なんかこう……執事? 使用人? わかんないけど、そういうつきっきりでお世話してくれる人とか一緒のはずだもんね。

 けど、わかんないな。そうだったらいいけど、ひとりぼっちだったらどうしよう。ものすごく不安になってきた。

 だけど、待てよ。ってことは、その女子をわたしたちも見つければ、ホンモノの筆にいきつけるってことなんでは……? しかも、本物の筆は西崎が持っているわけだから、その女子も西崎の近くにいるってことになるのでは……?

 背筋が寒くなってきた。まさか、いまごろわたしの代わりに、競売にかけられていないよね!?

 なんにせよ、西崎から本物の筆を盗むんだから、そのときにその女子を助けることだってできるはずだ。よし、それがいいし、そうしないと!

 しかし、おにぎりひとつですごい情報を入手してしまった。

「ありがとう」

 思わず頭を下げると、ハイコウも丁寧に頭を垂れた。

「おいしいおにぎりを、ありがとうございました。いろいろとお話しができまして、僕ももう少しがんばれそうです。あっ、あと、このことはお願いですからご内密に!」

 そそくさと廊下を渡り、さっき見かけたときと同じ場所に体育座りをするなり、わたしを見てにっこりとした。どうやらあそこがハイコウの定位置みたいだ。いや、それはいまどうでもいい。

 ごめん、ハイコウ。内密にはしておけない事情が、わたしにはあるのだ。

 そう――みんなにこの情報を、伝えなくては!

 鼻息荒く部屋に入って、戸を閉める。

 娑婆からこの世界に来ちゃったという、まるでわたしみたいな女子(わたしには使命とかないけどね)のことを、いま一度想像してみた。

 ……うーん。その女子、きっと無事だよね!?

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