伍ノ章
廿日鼠と白い鷹
其ノ36
大柳邸には明日の深夜忍び込むと、夕食時に雨市は言った。
深夜ということは、あの辺りにはアレが出る。アレとはつまり、魑魅魍魎系のやつだ。
というわけで、日差しのあるうちに大柳邸周辺の宿にいったんチェックインし、まずはハシさんが結界をつくってまわる。そうして夜が更けるのを待ってから、屋敷内に潜入する計画だ。
とは言っても、邸内に潜入してから雨市がなにをするつもりなのか、わたしには想像もつかない。なにしろ西崎は、本物の筆を肌身離さず持っているのだ。そんな西崎から、雨市はどうやって筆を盗むつもりでいるんだろ。
ご飯を食べ終え、ハシさんと台所で茶碗を洗う。そうして布巾で拭いていたとき、雨市が顔をのぞかせた。
「おい、椿。ちょっと居間に来い」
ハグを押しつけた照れくささがまだ残っていて、雨市の顔をまともに見られない。
「な、なにさ」
手を拭きながら居間へ行くと、洋服を渡された。
「俺のだけど、明日はそれを着てここを出ろ」
西崎一派にバレないよう、男子のふりをしてみんなについて行く約束だった。たしかに着るもののことなんて、なんにも考えていなかった。
「用意してくれたんだ」
シャツにネクタイ、ベストとズボンにジャケット。雨市のスーツ一式だ。
「ちっとデカいかもしれねえけど、おまえは背が高いからな。靴も俺のしかねえけど、つま先に布つめてあるから、紐をきつめにしばってそれを履け」
「わかった。ありがとう」
雨市のスーツから、ほんのりと煙草のにおいがたちのぼった。どうしよう、これ、今夜抱きしめて寝ちゃう感じになるやつだ!
「おい」
居間を出ようとしたところで、ふいに雨市に呼び止められる。
「明日はハシさんと先にここを出ろよ。宿はもう決めてある。あとから俺と竹蔵が行く。それまでは宿の部屋から、一歩も出るな」
「うん、わかった」
うなずいて、居間を出る。階段を上がって部屋に入り、もうすぐこの世界ともお別れなのかと考えた。ホンモノの閻魔の筆が手に入ったら、滞っていた裁判がはじまる。そして雨市は『極楽行きの賞金』を、『わたしを娑婆へ戻すための直談判』に変更するのだ。
――セツさんは、どうなるんだろう。
――みんなは地獄に行っちゃうんだろうか。
そんなことをぐるぐると思い巡らせたところで、答えは出ない。深く嘆息しつつ、雨市のスーツをぎゅうっと抱きしめたままベッドに寝転がった。
なにはともあれ。
「思い残すことがなにもないように、過ごさないと」
着物を脱いで、ジャージとTシャツに着替える。皺になるといけないから、雨市のスーツはたたんだ着物の上にのせて、床に置いた。
それからベッドに潜って、わたしはまぶたを閉じた。
♨ ♨ ♨
ネクタイって、どうやって結ぶの?
翌朝。雨市に借りたズボンとシャツを着たまではよかった。もともとぺったんこな胸にスポーツブラでがっちりガードしたので、ベストの上にジャケットを羽織れば男子の胸そのものになる。
それはいいのだ。いいのだけれど、とにかくネクタイが結べない!
「……ま、いっか。いらないよね、これ」
ネクタイをぐるぐる丸めて、ズボンのポケットに突っ込んだ。
それにしても、久しぶりの洋服はいい。両足が自由に動かせるなんて、最高すぎる!
丈が長いので、てきとうに折る。ジャケットを羽織ると袖が長いし、肩幅も大きくてぶかぶかだけれど、雨市に守られている感じがしてなにげに嬉しい。
「……えへへ」
にやにやしながら台所へ行く。すると、ハシさんがおにぎりをにぎっていた。
「おや! おはようございます、ツバキさん。ほほう、少々背広が大きいですが、なかなか似合っておりますなあ」
「おはようです。ハシさん師匠、朝食はおにぎり?」
「腹が減ってはなんとやら、でございます。これは本日の、わたくしたちの食料でございますよ。宿でのん気にお食事をいただいている暇はありませんからなあ」
「そっか、そうだよね」
いまさらだけれど、緊張してきた。ホントに今日、潜入するんだ。
「手伝います!」
手を濡らしてから塩をひとつまみ、両手にさっとこすり、梅干しを具にしたおにぎりを作る。ハシさん製の美しい三角おにぎりに、不格好なボールおにぎりが仲間入りしたところで、ベストとシャツでキメキメの雨市が姿を見せた。
「おい、うまく着れたか」
「うん。かっこいいでしょ!」
モデル立ちをして見せたのに、わたしの襟元に視線を向けた雨市は、けげんそうに顔をしかめた。
「おい、ネクタイはどうした」
「うっ……と、結べなくて……ってかさ、いらなくない?」
「ダメだ、ちゃんとしろ。ネクタイはどこだ」
「持ってるよ」
ズボンのポケットからネクタイを出して渡した。それを手にした雨市は、わたしを廊下に立たせる。
言われるがままに立つと、目前に立った雨市の両手が伸びてきた。と、わたしのシャツの襟に指を滑らせ、しゅっと立たせる。
「こうやって結ぶんだ」
濃紺のネクタイを襟に通すと、器用に結んでいく。うつむいた雨市の前髪が近い。たったこれだけのことで、ありえないほどドキドキしてきた。
「覚えたか?」
「えっ? いや……覚えてどうすんの。もうこんな格好することないし……」
雨市はわたしを上目遣いに一瞥し、小さく笑った。
「旦那ができたら、結んでやれ。嫁さんってな、そういうもんだ」
なに言ってんの。
「わたしをもらってくれる男子とか、いないんじゃなかったっけ? 前に雨市氏、そう言ったじゃん」
「……だな。そうだった。すっかり忘れてた」
結び終わったネクタイをきゅっと引き締め、襟を折りなおして仕上がった。
「ほらよ、これでいい。帽子も貸してやるから、髪を耳にかけてそいつをかぶれ。少しは顔も隠れるだろ」
「ありがとう」
「おう」
そう言った瞬間、雨市はわたしの肩に鼻を寄せ、ニヤッとした。
「俺のにおいが邪魔してやがる。よかったな。出歩いても娑婆のにおいはしねえよ」
「う、うん」
わたしの肩をぽんぽんと二度軽く叩き、雨市は居間に入っていった。その背中をどうしても、わたしは目で追ってしまう。
誰かを好きになるってことがどういうことなのか、日を追うごとにわかってくる。だけどそのたびに、別れなくちゃいけない日も迫ってる。
ああ、さびしいな。どうしようもなく、さびしい。
「さて、朝食をいただきましょう」
ハシさんに声をかけられて、背筋を伸ばした。
それでもいいのだ、と思う。胸はまだ苦しいし痛いけど、それでいい。
いまのこの気持ちも、なにもかもすべて丸ごと、わたしは娑婆へ持って帰るんだ。
「うん。食べよう、ハシさん!」