肆ノ章
大柳邸に潜入せよ
其ノ35
いよいよ眠気に耐えきれなくなったらしい雨市は、寝不足の真っ赤な目でわたしと竹蔵を指しながら「くっついてしゃべるなよ」と命じ、居間の床に布団を敷く。倒れるみたいにしてうつぶせに横たわったとたん、すぐさま寝息をたてはじめた。
「気絶してるみたいに眠っちまった」
雨市を見下ろすなり、竹蔵は苦笑する。すると、
「金庫破りの道具を作りますゆえ、わたくしもひとまずこれにて」
ハシさんが言った。いや、ちょっと待った!
「えっ! じゃ、じゃあわたしもお手伝いをっ!」
竹蔵と二人ぼっちになってしまう! 慌てて声を上げたものの、細やかな作業で集中しなくてはダメらしく、「お手伝いは無用でございます」とにこやかに告げるやいなや去ってしまった。
結局、竹蔵と居間に残されるはめになって、ものすごく気まずい。いや、正しくは爆睡している雨市と三人ってことになるわけだし、二人ぼっちってことでもないからいいのか?
竹蔵としゃべるなと雨市に命じられたものの、しゃべらざるをえない問題がわたしにはあることを思い出してしまった。もしかして、いまってチャンスかも? そうなると、いくら爆睡中とはいえ、疲労困憊の雨市を起こさないようにしゃべりたい。
「……た、竹蔵さん。この機会にですね、少々語り合わなくてはいけないことがあるのではないかと思いましてですね」
「かしこまった口調で、いきなりなんだい」
「と、とにかくですね、こちらで少々」
居間のドアを開け、廊下を手でしめす。二人して居間を出てからドアを閉めたとたん、竹蔵は自分の部屋がある方向をあごでしゃくって見せた。
「いいよ、アタシの部屋においで」
おいで? いや、それはない! そうではなくて、最強のオープンスペースでしゃべるべきだ。それは。
「ここで大丈夫ですから!」
廊下の真ん中で両手を広げ、仁王立ちをする。ここなら雨市の邪魔にはならないし、万が一なにかあっても(ないことを祈る)二階のハシさんを呼べばおさまるはずだ。
「……ふうん。あんたもいろいろ学んでるじゃないか。しょうがない、まあいいさ」
不服げに口を尖らせた竹蔵は、やれやれと床に座って足を伸ばし、壁に背を預けた。
「ついでに菓子でも持っておいで」
それはいい。
「賛成です」
台所へ行き、棚にある煎餅の缶をつかむ。お茶も淹れてお盆にのせ、廊下に戻る。床にお盆を置いてから、竹蔵の斜め前に陣取って正座した。竹蔵とにらみ合いつつ、とりあえず煎餅をパッキリと割って頬張る。この煎餅すっごい堅いんだけど、醤油味が香ばしくておいしいんだよねえ……って、しみじみ味わってる場合じゃなかった。
「あのう……ですね」
湯飲み茶碗を持った竹蔵は、音もたてずにお茶をすすった。上品だ。
「なんだい」
「二股企画……じゃなくて、竹蔵さんの朝の提案を全力で拒否させていただきますってことを、はっきり伝えなくてはと思いまして……!」
「あー……そうだろうねえ。そう言うだろうと思ってたよ。けどさ、あんたはなーんにもしなくていいんだよ。アタシと雨市の間をのらーりくらーりしてりゃあいいだけだ。楽だろう?」
竹蔵は面白がってるみたいな眼差しを、わたしに向けてくる。色っぽすぎるこの視線から、目をそらしたら負ける気がする。ここは堪えて、なんとしてでも竹蔵に勝たないと!
「……楽、なのかなあ。そういうの、わたしにはしんどそうなんだよなあ。器用にいろいろできる女子なら無理じゃないのかもしれないけど、ひとりを相手にするだけでも手一杯なのに、ふたりとかマジで無理です。だって……」
そもそも、ちゃんと誰かを好きになったのだって、はじめてなのだ。
「わたし、雨市氏のことが、本気で好きらしくてですね……」
「だろうさ。見てりゃわかるよ。だから、なんだい」
「うん。一方的になんだけれども……だからまあ、それでもさ、まっとうしたいなあって思うっていうか」
「……まっとう?」
「うん。ぶっちゃけさ、わたし、恋愛とかあんまり興味なかったし、縁もないだろうなあって思ってたんだ。もともと男子が苦手だし、好きじゃなかったから、それでいいやって。なのにさ、知らないうちに好きになっちゃってたんで、自分的にこれはすごいことだぞって悟ったっていうか」
竹蔵の視線がまっすぐに向けられていて、目をそらしたい衝動に駆られる。でも、説得しなくてはいけないのだからと心の中で叱咤して、頭に浮かぶ言葉を次から次に吐き出した。
「わたしが生きる世界は、ここじゃないってわかってるんだ。いずれは娑婆に戻るってことも、ちゃんと頭にある。それは承知のうえで、まっとうしたいなあって。娑婆に戻っても、雨市氏みたいな男子には会えないと思うし……ってことはさ、自分の人生の中でさ、これが唯一の恋ってことになるもんね。だからさ、だからこそ……適当になんてできないんだ。それに、竹蔵さんのことも傷つけたくないし。だから、ナシです」
息を吐いた竹蔵は、ゆっくりと視線を落とした。
「……困ったねえ」
そうつぶやくと黙り込み、うつむく。と、唇を弓なりにさせ、自嘲気味にうっすらと笑んだ。
「男だと意識させたくて、何年ぶりかに髪を切ったってのにこのざまだ」
「えっ、そうだったの!?」
「そうだよ。やってることがガキみたいで、自分でも笑っちまう」
「いやいや、そんなことない。似合ってるしかっこいいです」
竹蔵が照れくさそうに、クッと笑う。
「……いいさ。じゃあ、こうしよう。あんたはあんたでまっとうしな。アタシはアタシでまっとうする。あんたを娑婆に戻したくはないから、雨市には協力しないけど、あんたの邪魔もしない。アタシがどうしようが、どうせあんたは、いずれ娑婆に戻ることになる。そのときに、あんたの気持ちをもう一度訊く。それでどうだい?」
「それって、二股企画はナシってこと?」
「まあ、そう思ってりゃいいさ。あんたはね」
あんたはね? ものすごく含みのある語調だけど、ナシってことにしていいってことなんだろうか。そういうふうに受け取ったほうが、平和な気がする。
最後の最後にわたしに気持ちを訊くって、どういう意味だろ。まさか、もしかして。
「……あの……ですね」
魔物になるかどうか、そのときに決めるってことだろうか。
「魔物って、どういう方法でなるの?」
思いきって切り出すと、竹蔵は冷めたお茶を飲み干した。お盆にそれを置いたとたん、軽く腰を上げる。こちらに身を乗り出したので、思わずのけぞる。うしろの壁に後頭部があたった瞬間、竹蔵はその壁に手をつけ、顔を寄せてくる。「あんたがこの世界の住人の誰かに心底惚れて、その相手もあんたに惚れていたら、この手が」
そう言いながら、竹蔵は右の手のひらを、わたしの心臓のあたりに添えた。直後、まるで心臓をもぎ取ろうとしているかのように、ずんと強く押し付けてくる。
「あんたの身体を突き抜ける。抜けきったのちに」
離した手を握り、わたしの目の前でかかげた。
「ここにはあんたのたましいの半分が残る。こいつを」
握った手を自分の口元に寄せ、ぱっと指を開けて見せた。
「喰らうだけだ」
あまりの衝撃に、目を丸くして口を開けてしまう。それ、マジ?
「……えっ、え? つ、突き抜け?」
竹蔵はわたしを見て、不敵に笑んだ。
「突き抜けんのさ。けど、互いに想ってなくちゃそれはできない。アタシがいま、あんたにしたみたいに突き抜けない」
ばっさりと切られた黒髪が、竹蔵の顔にはらりと落ちた。その髪をかきあげながら立ち上がった竹蔵は、両袖に手を入れながら、鋭い流し目でわたしを見下ろした。
「……けど、雨市にしても無駄だよ。たとえあいつがあんたに惚れていたとしても、生きてる人間の寿命をもらうなんざ、あいつにとっては許しがたいことだろうからね。だから、娑婆に戻ったらあんたは二度と雨市に会えない。承知のうえだとあんたは言うけどさ」
言葉をきると、目の前でしゃがんだ。
「いいかい、椿。どこか遠くの土地にいて、いつか会えるかもしれないと思えるのと、二度と会えないってことには雲泥の差があるんだよ。よく考えな」
言われなくてもわかってる。いや、わかってるつもりになってるだけかな。
「この世界にずうっと残るなら、雨市とも一緒でいられるよ。それならアタシも協力してやる。だからさ、娑婆に戻るのはやめたらどうだい?」
竹蔵としゃべっていると、なにがいいことで、なにがよくないことなのか、だんだんわからなくなってくる。どろどろと泥沼にはまっていくみたいになって、思考がぐるぐるしてくるのだ。
ずっとこの世界に留まって、永遠に生き続けていられたら、幸せなのかな。
好きな人のそばにいられて、毎日同じような日常を過ごせるってことは、きっと幸せなことなんだろう。生きているのなら、だけど。
「……一応、お寺の娘なんで、諸行無常を選ぶよ。わたし」
それでも、変わってくことを選ぶ。いや、選びたい。
なんなんだろう。理屈じゃなくて本能に刷り込まれているみたいな、この感覚は。
「……そうかい」
竹蔵が小さく笑う。腰を上げると、どこか苦しげなため息を落とした。
「……あんたは本当に、強い娘だよ」
そう言い残して、自分の部屋に入ってしまった。残されたわたしは、冷めたお茶をいっきに飲み干す。冷めたお茶には渋みがあって、口の中にかすかな苦みが残った。
煎餅の缶を抱いたまま廊下に座り、ひたすら煎餅を食べ続けた。
時間の止まったこの世界に、残るわけにはいかない。なにしろここは、閻魔の裁判を待っている人たちの待合所みたいなものなのだ。そこに、生きている人間が紛れているなんて、おそらくあってはならないことだろう。だから、わたしの生きていく世界じゃない。
変化の世界は、生きている。生きているからこその諸行無常だ。自分の選択はきっと正しいって思えるのに、それなのにいまさら、ひどいさみしさが襲ってきた。
「父さんならどうするのかなあ。一応、寺の住職として」
まあ、おそらくわたしと同じだろう。
「……だよね」
なんだろ。なんか落ち込んできた。情緒不安定になって、泣き出しそうな予感がする。いかん、いけない。これは、そうだ……身体を動かしていないからだ!
そうだよ! 明日大柳邸に潜入するというのに、なにをうだうだと考えているのだ、山内!
腰を上げて、台所へ行き土間に立つ。ぐずぐずな自分をノックアウトさせるべく、拳を振りまわしていたときだ。
「なにしてんだ」
びっくりして飛び上がり、台所を見たら雨市がいた。
「あー……のどが乾いた」
ぼうっとした顔で頭をかきながら、裸足のまま土間に立つ。桶に貯められた水を柄杓で飲むと、ぐいと手の甲で口をぬぐった。
「……やっと目が覚めたな」
台所の段差に腰掛け、着物の袖で足の裏の汚れをはらう。目が覚めたと言うわりには、まだ眠たそうだ。あくびをした雨市は、袖から煙草を出してくわえ、火をつけると気持ちよさそうに吸いはじめた。
「おい、竹蔵としゃべってねえだろうな。布団敷いたあたりで記憶が飛んじまって、なにもかもがさっぱりだ」
うっと目をそらすと、雨市に突っ込まれる。
「どうなんだよ」
「……すん、ません。必要に迫られまして、しゃべりました」
雨市はがっくりとうなだれた。
「……しゃあねえなあ。言いたかねえけど、あいつとしゃべくってると、自分がいいのか悪りいのか、わけがわからなくなっちまうんだよ」
まさにそのとおりだった。
「めっちゃわかる」
雨市は探るように、わたしを上目遣いで見た。
「なにしゃべったのかは訊かねえけど、おまえがいいと思うことが、おまえにとって正しいことだ。迷うなよ」
「……うん」
のろのろと、雨市の隣に座る。手を伸ばしたら触れられる距離に、雨市はいた。だけど、娑婆に戻ったらこんなふうに、二度と一緒にいられないのだ。
それでもいいと思う。だって、しょせんわたしの片思いだしさ。でも、いまは同じ場所にこうしていられるわけで、だからこそいっときも無駄にはできないと思うのだ。
わたしの隣で、くったりした着物姿で、ぼうっとしながら煙草を吸う雨市を、どうしてもぎゅっとしたい衝動に駆られてきた。雨市にとっては面倒くさいことだろうし、迷惑かもしれないけれど、いまを逃したら二度とないかもしれない……ってか、確実にないよね? うん、ない。絶対ないって言いきれる。
好きだってまたコクるわけじゃない。ただぎゅっとするだけだから、いっすよね!
「う、雨市氏!」
思いあまって叫ぶと、雨市はぎょっとして咳き込んだ。
「突拍子もねえときに、大声出すなよ。なんだよ、いきなり」
「その……ですね。一生のお願いが、ありまして」
「あ?」
雨市は袖に両手を入れながら、けげんそうに眉を寄せた。なんと言われようとも、いっときも無駄にはできないのだ。すべてのチャンスをモノにすべく、突撃していくしかない。たぶん、全力で拒否られるだろうけれども、提案するのは自由だし!
「雨市氏!」
「だから、なんなんだよ」
わたしは意を決して、両腕を広げた。
「――ハグ、させてください!」
わたしを見ていた雨市が固まる。沈黙が流れ、くわえた煙草の灰が着物に落ちて、
「……熱っ!」
慌てた雨市がそれをほろう。煙草を指に挟んでわたしを見ると、眉間の皺を深くした。
「なん……だって?」
ああ、もうこれ、拒否られる方向だ。まあいいや。言っちゃったし、最後まで貫こう。だって、後悔したくないもんね!
「ハグです。剥ぐじゃなくて、外来語的な!」
腕が疲れてきたけど、あとには引けない。雨市は静かに煙草を吸い続ける。煙草が短くなったところで、おもむろに腰を上げ、流し台の灰皿にそれを捨てると、今度はわたしのそばでしゃがんだ。
「それは、感激したときにするもんなんじゃねえのか?」
おお、覚えててくれてたなんて嬉しい……って、そういう感激はいまはいらない!
「いまこのとき、この一瞬に、感激してる方向っていうか!」
むちゃくちゃなのは自分でも認める。「なにを言ってるんだ」と言わんばかりに、しゃがんでいる雨市の表情は険しい。
正直な気持ちとしては、好きだから抱きしめたいんです! なのだけれども、それをうまく曲げて伝える言葉が思いつかないのだから、どうしようもない。
押し黙った雨市は微動だにしない。その態度が無言の拒否だと受け取れた。まあ、だよね。広げた両腕を下ろしながら、肩を落としてしまった。
「……まあ、なんでもないす。忘れ」
てください、と続けるつもりだったのに、のっそりとした動きで隣に腰を下ろし、土間に足を投げ出した雨市にさえぎられる。
「……しゃべってる意味はわからねえ、けどよ」
うつむき、がりっと頭をかいた直後、雨市がわたしを見た。見て、わたしの右腕を引っ張る。引っ張って、引き寄せて、わたしの背中に腕をまわした。あまりにとっさのことで、心臓がありえないほど高鳴る。
――え、えっ?
「これでいいのか」
耳に、雨市の声が触れる。着物から、煙草の匂いがした。あっ、そうだ。西崎の離れでも、こういうことがあったんだった。
「……うん」
雨市の背中にまわした自分の腕に、力を込めた。この感覚を記憶に焼き付けるために、思いきりぎゅうっとしてやる。そうだ、娑婆に戻ったらクッション作ろう。このぐらいの幅と堅さのやつ!
ああ、満足だ。ありがたい。そうして離れようとした素振りをしたとき、逆にぎゅっとされてしまった。ほんの一瞬だったけれど、背骨が折れるほどの力だった。
びっくりして、思わず「ひっ」と声を発してしまう。直後、雨市はとっさに腕を解き、わたしから離れた。
いまの力、すごかった。男の人の力って感じがした。
鼓動がありえないほど脈打ち、なにを言ったらいいのかわからなくなってうつむく。同時に立ち上がった雨市は、わたしの頭を手のひらで包み、軽くくしゃりとやって押しやった。
「……アホが」
背中を向けると台所を行き、引き戸を閉じる。
わたしの提案を、無理して引き受けてくれたってことだよね。それに、最後にぎゅっとまでしてくれた。ただ、それだけのことだ。
「……よかった。満足、満足」
胸の鼓動はまだ激しい。この感じも覚えておこうと思う。
思いながら、だけど胸が苦しすぎて、ちょっとだけ泣いてしまった。