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肆ノ章

大柳邸に潜入せよ

其ノ34

 閻魔大王の本物の筆を、西崎は肌身離さず持ち歩いているだろうとハシさんは言う。だけど、カバンを持っているところを見たことはない。柄の長い筆を、いったいどうやって持ち歩いているんだろ。
「スーツのポケットとかに入れたとしても、長くてはみ出すよね? 持ち歩けないと思うけどなあ」
 わたしの疑問に、ハシさんはいつもの「ほほほ」笑いではなく、含みのある「ふふふ」笑いで目を細めた。
「おそらくでございますが、サラシで身体に巻き付けておるですよ。一尺ほどありますから、たぶん脇の下あたりに」
 右腕を上げたハシさんは、自分の脇の下を指でしめした。ああ、なるほど!
 ハシさんを見た雨市は、思案するかのように腕を組んだ。
「そうだとしても、あいつのことだ。屋敷のあちこちに、罠は仕掛けてあんだろ」
「さようでございますなあ。たとえば、金庫。からくりのようななにかしらの細工が、ほどこされてあるやもしれません。開けたら鈴が鳴る、といったような。もちろん、箪笥の引き出しなどにも」
 ハシさんの言葉に、雨市は面倒そうに嘆息した。そんだけ用心深い西崎が、わたしの逃亡を許してしまったのだから、いまごろものすごく怒り狂ってるような気がする。うへえ、想像しただけで身震いできるよ。
「西崎って、あの離れみたいなとこで寝起きしてるの?」
「いいや、西崎は大柳の本邸で寝起きしてる。大柳のじじいは金に群がる自分のガキどもよりも、文句も言わずに汚い仕事をする西崎を信用して、かわいがってんだ。だから、ちょっとのことでも西崎を呼びつけるもんだから、西崎はじじいの居室の隣を使ってんだよ」
「へえ。じゃあ、あの離れはなに?」
「昔はあそこで暮らしてたんだろうが、いまじゃただの物置だ。西崎のガラクタ屋敷ってとこだな」
 そのガラクタ屋敷に、わたしは監禁されていたってことだ。
「ちなみにだけどもそのじじいって、大柳の偉いっぽい人?」
「ああ、大柳平吾朗。財閥のアタマだ」
 社長とか会長みたいな偉い人に気に入られてて、物置と化しているとはいえ離れまで与えられてるなんて、ますます西崎が謎すぎる。
「……西崎って、大柳の親戚とかなの?」
「違うよ」
 答えたのは竹蔵だ。
「もともとは使用人だった女の子どもだってハナシだ。て言っても、じじいがその女に手をつけてできた子どもってわけじゃないよ。軍人だった亭主がどこぞで死んで、寡婦のまんま使用人に雇ってもらったのさ。そのうちに成長した西崎も奉公で屋敷に上がって、じじいに気に入られちまったんだよ。だから大柳のじじいは西崎にとって、養父みたいなもんなんだろうさ」
 西崎の存在について、なんとなくは理解できた。偉いじーさんに好かれている西崎から筆を盗むなんて、できるんだろうか。
「身体に巻き付けているとしたらさ、寝てるときしか盗めないよね?」
 ハシさんはにっこりと笑み、わたしを見た。
「ほほ! 椿さん。そのとおりでございます」
 雨市は苦い表情を浮かべた。
「つっても、ちょっとでも身体に触れたら、たぶんあいつはすぐに目を覚ますぜ。それに、夜は園谷が警護役になって、部屋を見張ってやがる」
「園谷?」
「前に小太りの男が、西崎と一緒に訪ねて来ただろ。あいつだよ」
 雨市によれば、園谷は西崎の右腕で、ほかの手下たちとは段違いでやっかいだそうだ。
「昨日いなかったのは、おまえの競売の準備に奔走してたからだろうよ」
「きょ、競売ですとっ!?」
 ハシさんが声を上げたのと同時に、竹蔵もぎょっとする。
「……なんだいそれは。さすがのアタシも想定外だよ。そこまでするとは、腐りきってる証拠じゃないか」
 まったくもって、同じ意見だ。それにしても、園田か……。口には笑みを浮かべているのに、小さな瞳はあきらかに笑っていないという小太り中年紳士のことは、記憶にある。
「じゃあさ、その園田ってのにも眠ってもらわないと、西崎の部屋に入れないってことだよね」
「さようでございます」
「だったらもうさ、睡眠薬でも飲ませて眠ってもらうのがいいよ!」
 睡眠薬がこの時代にあるのかはわからないけれども、思わず言ってしまった。とたんに、三人は真面目な顔で押し黙り、わたしを見つめた。やがてぽつりと、雨市がつぶやく。
「……バルビタールか」
「量を間違ったところで、すでに死んでおりますしなあ」
 ハシさんが言うと、竹蔵が引き取った。
「いや、ダメだね。なにかに混ぜたところで苦みがあるから、西崎はすぐに気づいて吐いちまうさ。園谷も同じ」
 煙草に火を付けた雨市は、煙をくゆらせながらうつむいて、腕を組んだ。
「……しゃあねえなあ」
 そうささやくと、なぜか小さく笑んで、ひとりごとのように言った。
「ひっかかってやるか。西崎の罠によ」

♨ ♨ ♨

 大柳邸に入ったことがあるのは、雨市だけらしい。テーブルに半紙を広げた雨市は、邸内の見取り図を筆で書きながら説明した。
「じじいの寝室は二階の南端。西崎の部屋はその隣だ」
「大柳会長の寝室に、金庫がありそうですなあ。あるとすれば、鍵穴とダイヤル装備の東京阿野金庫。ですが、西崎氏も持っておられるでしょう。こちらは小型で持ち運び便利な間宮式。それを枕元に置いておられるはず。そうでなければ通常は、室内の箪笥の中などに入れれている可能性が高いですな」
「その金庫に、からくりがほどこされてるってことか?」
「さようでございます。いかんせん持ち運べますので、持ち上げる、または解錠と同時になんらかの音が鳴る、といったような」
「開けると中には、なんにもねえってか」
 雨市の言葉に、ハシさんはうなずいて見せた。
「ないでしょうな。もしくは、ニセの筆を仕込んでおられるやも。ニセの筆というのは、ニセのさらにニセという意味でございます。盗みに来た者の正体を知るために、あえてからくりをほどこさず、簡単に盗めるようにしている可能性もございます」
「ああ……なるほどな。木彫師にニセの筆を二本作らせて、一本は役所に渡し、もう一本を罠用に使うってことか。それにしても、本物の筆を持ってるってことを、西崎は誰にもバレねえようにしてるはずだぞ。もちろん、園谷にも……」
 言葉をきって、雨市は硯に筆を置いた。自分の書いた単純な見取り図を見下ろしたとたん、にんまりと笑みを浮かべた。
「……ははあ、合点がいったぜ。あいつのやりそうなこった」
「どういうことだい?」
 竹蔵が訊く。すると雨市はわたしを見た。
「自分が筆を持ってるようなことを、西崎はおまえに言ってたんだろ?」
 この世界はずうっとこのまんまだみたいなことを、西崎が言っていたのははっきりと覚えてる。
「うん、言ってた。それだけはちゃんと覚えてるよ」
 雨市は口の端を上げて苦笑をもらした。
「用心深い西崎が、うっかりしゃべるわけがねえ。すでにあいつは、こっちに罠を仕掛けてんだ。万が一おまえが逃げたとしても、その先のことも頭にあんだよ。……待ってんだな」
「待ってるって、なにを?」
 わたしの疑問に、雨市は一瞬だけ視線を鋭くさせて答えた。
「俺を。俺に全部の罪をかぶせるつもりで、もう網を張ってんだ」
「……うっそ、なにそれ」
 わたしがぎょっとすると、竹蔵が続ける。
「役所はいまごろおおわらわだ。全部で百八本の筆が揃ってるっていうのに、全部が偽物で本物がない。役所がさらに突っ込んだ調査をはじめる前に、西崎は誰かに罪をおっかぶせるつもりでいるんだよ。ホンモノの筆を隠してるっていう、最悪の罪をね」
 息をきった竹蔵は、煙管の煙をすうっと吐く。
「罪をおっかぶせられたら、相手になるのは閻魔の手下の秦広王(しんこうおう)だ。そいつに西崎のことをしゃべったところで、証拠がなけりゃあ極卒どもの拷問が待ってる。どうせこっちは死んでんだ。手加減なんかないよ。その間に西崎が、本物の筆をほかの場所へ隠しちまえば、閻魔の裁判はいつまでもはじまらずに、世界はずうっとこのまんまだ。そして拷問受けてるやつは、永遠に逃れられないっていう寸法だ。それこそまさしく、地獄だねえ。地獄にもまだ行ってやしないってのにさ」
 西崎から筆を盗むということが、どんだけ危険ななことなのかを思い知らされて、思わず身震いしてしまった。だって、竹蔵の言うとおりだとすれば、拷問を受けるのは雨市ってことになってしまうからだ。
「そそ、そ、それは!」
 ダメ、ダメ! そんなのホントにダメだから! 
「危険っぽいから、いったんやめたほうがよくない? ってか、てやめたほうがいいって!」
 叫んだ瞬間、雨市はわたしの手を取り、
「ちょっと、来い。話がある」
 そう言って引っ張りながら居間を出た。
「え、え? な、なにさっ」
 ドアを閉めた雨市は、台所の引き戸に背中を寄せると、組んだ両手を袖の中へ入れながらうつむいた。
「やめるわけにはいかねえよ。俺はおまえを、なんとしてでも娑婆に帰す。そう決めてんだ」
 わたしを見つめる雨市の眼差しは、やけに険しかった。きっとそれだけ真剣なのだ。真剣に、わたしの身の上のことを考えてくれているってことだ。そのことがわかっただけで、なんだか泣きそうになる。
「いずれにしろ、いつかはやらなうちゃなんねえことだ。それを先延ばしにしたところで、状況がよくなるわけでもねえ。そうだろ?」
「まあ……雨市氏がそう言うんなら、そうなのかもだけど……」
 ふっと小さく笑んだ雨市は、わたしの頭にぽんと手を置き、顔を近づけた。
「俺はおまえを娑婆に戻してえ。それには本物の筆が必要だ。役所のやつらじゃ、西崎を相手にすんのは無理だ。いつか誰かが盗むしかねえんだよ」
「じ、じゃあさ、役所の人に西崎が持ってるって、告げ口すればいいじゃん?」
「証拠もねえのにんなことしたら、こっちが尋問くらっちまう。あれこれ訊かれておまえの正体がバレちまったら、閻魔の手下か、ヘタすりゃ女官という名の遊び相手だぞ?」
 最悪だ……そんなん全力で断るよ!
「わかった。絶対無理だし」 
 苦笑した雨市は、わたしの頭からゆっくりと手を離した。
「明日、ヤバいと判断したらすぐに逃げる。俺がちゃんと守ってやる。だから、明日は俺の言うことを聞いてくれ」
「もちろんだよ」
 思いきりうなずいて見せると、雨市が笑った。その表情はすごく柔らかくて優しくて、はじめて目にしたものだから、びっくりして思わず息をのんでしまった。でも、それはほんの一瞬のことで、笑顔を崩した雨市は眠たそうにあくびをした。
「……しっかし、眠てえよ。頭がまわらねえ」
「昼寝すればいいよ」
 雨市はむすっと、なぜか唇を尖らせた。
「俺が眠ってる間に、竹蔵になんかされるかもしれねえだろうが。明日だって本当は、おまえを連れて行きたくなんかねえんだよ。けど、おまえがここに残れば竹蔵も残っちまう。しょうがねえから連れてくって決めただけなんだよ。まったく……」
「わかってるよ。だからさ、明日は雨市氏の言うことちゃんと聞くし、ハシさんだっているんだから、今日はずうっとハシさんにくっついてることにするから」
「ホントだな?」
「ホント、ホント。どうぞ安心して、お昼寝してください!」
 へっと呆れたように笑った雨市は、「じゃあ、お言葉に甘えて」と、いつになく丁寧な言葉をわざと残して、居間に戻った。わたしもあとに続き、ハシさんと一緒に茶碗をお盆にのせ、台所に運んだ。
 明日、大柳邸に潜入する。
 わたしは茶碗を洗いながら、うまくいきますようにと繰り返し祈った。
 地獄の手前な世界にいながらにして、真逆な世界にいるであろう、後光を背負った仏さまに。何度も、何度も。

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