top of page
cider_logo.png

肆ノ章

大柳邸に潜入せよ

其ノ33

 宮田の顔が思い出せない。顔も思い出せない相手に、なんでこんなことされなくちゃいけないのだ……?
 人生とは、本当に修行の連続だ。仏教的な悟りを感じようとしてまぶたを閉じたものの、腹立たしさはおさまるどころか増していく。くっそう、宮田マジで許さん! 怒りが憤りに変化して、その場で地団駄を踏んでいたとき、ぐうとお腹が鳴ってしまった。
「……なにこの緊張感のないタイミング……」
 まあいい。よくもないけど、宮田印のキスマークは食べて忘れてやれ!
 肩を怒らせながら台所へ行くと、壷に入ったぬか漬けをこねまわすハシさんがいた。わたしに気づいたハシさんは、にっこりするときゅうりをつかむ。
「ご無事でなによりでございます。元気に朝食をいただきましょう」
「はい!」
 漬け物をまな板の上に置く。ハシさんは土間の釜の前に立って、鍋の中のみそ汁の味見をはじめる。わたしはきゅうりとなすびを包丁で切りながら、そんなハシさんの目を盗んでつまみ食いをすると、おいしさのあまり卒倒しそうになった。
「うんまーっ!」
「……うめえか」
 うしろからいきなり声がして、びっくりして飛び上がった。振り返ると、和服に着替えた雨市が腕を組んで立っている。ものすごく眠たそうな顔つきだ。そんなわたしの予想どおりに、雨市は「眠い」とつぶやきあくびをした。
 昨夜は一睡もしていないっぽいのだから、眠いのは当然だろう。眠ればいいじゃんと言おうとした矢先、なぜか雨市はあーんと口を開けた。
「どしたの?」
「……それ、俺にも食わせろ」
「へ?」
 眠たすぎて寝ぼけているのか、眼差しはとろんとしている。
「それって、この漬物?」
 漬け物の載った皿と箸を差し出すと、雨市は子どもみたいに首を振った。
「食わせろって言っただろうが。動きたくねえの」
 はああ? 動くったって、両手を袖から出して漬け物を口に運ぶだけじゃん。わけがわからないと呆れたものの、しかたがないので言われた通りにした。箸を手にしてきゅうりをつまみ、あんぐりと口を開けた雨市に食べさせようとする。
「あー……なすびがいい」
「はあ? 面倒くさっ! なら最初に言ってよ!」
 しかめ面のわたしを見つめながら、雨市は面白がってる様子でにやりとした。
「にやにやしてなにさ。自分で食べればいいじゃん!」
 そう文句を言いながら、わたしは雨市の口になすびを入れる。瞬間、なんでかちょっとだけ、胸がきゅっとなってしまった。
 あれ? いまさらだけどなんかこれ、めっちゃ夫婦っぽくないすか!? うっわー、顔が赤くなりそうだから、こんなこと考えるのいますぐにやめないと!
「……うめえな」
 口を動かしながらぼそりともらした雨市は、ふとわたしの首のあたりを見た。と、眠たげな雨市の瞳がいっきに見開かれる。漬け物を飲み込んだ直後、ぐぐぐっと眉根を険しげにひそめた。
 まさか、宮田印を見つけた……?
「……おい、それ」
 思わず痣を手で隠す。好きな相手に宮田印のことなんか、知られたくないし言いたくないですし!
「なんでもないす! まったくなんでもないす!」
 雨市の表情は見るみるこわばっていく。バレたんだと直感した。好きな相手に、顔も覚えてない男子にイジメられた証を、見られた&気づかれた……。そうとなれば、隠しておくこともない。しゃべってしまったほうがいい。わたしは肩を落としてささやいた。
「……あー。まあ、そうっす。たぶん宮田かな、と」
「あ?」
 雨市はぎょっとした声音を放つと、うなだれるわたしをのぞき込んできた。
「意識なくしてたときに、やられたっていうか。たぶんコレは、西崎の手下の宮田がやったのではないかな……と推理している次第でしてね」
「使えねえ警官みたいな口ぶりじゃねえか」
 そう突っ込むと、雨市は苦笑を浮かべた。
「……違げえよ。そりゃ、俺だ」
 なん……ですと!
「は?」
「犯人は俺だよ、警官さん」
 がりがりと手で髪をかいた雨市は、照れくさそうにうつむいた。
しゃあねえだろうが。同じ部屋に怖がる娘がいて、かわいそうな気持ちになっちまったせいだ。どうせおまえは眠ってたんだ、それ以外のことはなんにもしてねえよ。許せ」
 しゃべりながら背中を向ける。居間のドアに手をかけたとき、小さくつぶやいた。
「寝顔がかわいかったんだよ」
 中に入り、バッタンとドアを閉める……って、ちょっと待て。
 ってことは、だ。これは宮田印ではなくて、雨市印ということ? しかもいま〝かわいい〟とか言った! わたしはしっかり聞いたもんね。空耳なんかじゃないもんね!
 え? ってか、なにさ。それってどういうことなのさ。もしかして、寝てるときだけ〝かわいい〟ってこと? だったらわたし一生寝とくし!……って、頭のてっぺんから煙が出そうだから、マジで落ち着こう。
 ふうーっと深く深呼吸をすると、いつの間にか台所の隅に立っていたハシさんと目が合う。朝食をのせたお盆を持っているハシさんは、ぽっと頬を赤らめて微笑んだ。
「若さとは、美しきことでございますなあ」
 いまのやりとりを、聞いていたのですね……。

♨ ♨ ♨

 朝食の席での会話は、当たり障りのない天気についてであろうはずもなく、閻魔大王の〝本物の筆〟を西崎が持っていること前提で進められた。
 その間、わたしは真正面に座っている雨市から目が離せない。そんなわたしを見ているのは、雨市の隣にいる竹蔵で、なにやら不穏かつ微妙な空気感が居間に漂っていた。そんな気配をもろともせずに、
「西崎から、筆を盗む」
 雨市はみそ汁を飲み、告げた。
「さようでございますか」
 そう答えたハシさんは、落ち着いた様子で焼き魚を口に運ぶ。一杯目のご飯を平らげたわたしが、おひつのご飯を茶碗にこんもりと盛っていると、漬け物を噛む竹蔵が言った。
「アタシはやらないよ。あんたら二人でやっとくれ。だから、明日は椿とお留守番だ」
 箸をテーブルに置いた雨市は、煙草をくわえて竹蔵をにらむ。
「なんでだよ」
「本物の筆が手に入ったら、椿は娑婆に戻っちまうじゃないか。そんなのいやだよ。だからやらない」
 ……そっか。本物の閻魔の筆が手に入ったら、賞金がもたらされる。わたしを娑婆に戻すことを、その賞金として受け取ることを雨市は決めていた。でも、手放しでは喜べない。だって、そもそもはセツさんを極楽へ行かせるために、していたはずのことだったのに。
「……なんか、すんません」
「おまえは黙ってろ、ややこしい。そうかよ、竹蔵。でもダメだ。おまえだけここに残すわけにはいかねえな」
 煙草に火をつけた雨市は、まぶたを閉じると考え込む。
「なんでさ」と竹蔵。
 渋い顔で腕を組んだ雨市は、くわえ煙草でうつむいた。
「そうしたら、おまえと椿だけになっちまうだろうが。昨日のこと、忘れたわけじゃねえよなあ? どうせおまえはまた、椿を困らせる。その絵面らが目に見えるぜ、くっきりとよ」
 そっぽを向いた竹蔵は、煙管を口に含んだ。
「そんな大昔のこと、覚えてるほうがどうかしてるねえ」
 雨市が椅子から立ち上がる。竹蔵の着物の襟を左手でつかみ上げ、右手に煙草を挟むと、竹蔵の顔に煙を吹きかけた。朝食をきれいに食べ終えたハシさんは、ほほほと微笑みながら、のん気にささやいた。
「……いいですなあ。若さ」
 師匠、のん気すぎです! 一触即発。いままさに、喧嘩になりそうな雰囲気だ。その理由は、あきらかに間違いなくわたしだ!
「わ、わかった! はい、はい! 山内さんも行きまっす!」
 竹蔵の襟をつかむ雨市と、つかまれた竹蔵が、同時にわたしを見た。
「……行くってあんた。どこにさ」
「西崎から筆を盗みに行くってことだよ。わたしが雨市氏とハシさんにくっついて行けば、竹蔵さんはここで一人でお留守番ってことになるかなって」
 竹蔵は顔をしかめた。
「なにが楽しくて一人で留守番すんのさ。だったらアタシも行くよ。手伝うつもりはさらさらないけどね」
 雨市は竹蔵の襟から、ゆっくりと手を離した。
「……ダーメだ。そいつはダメだ。おまえ、昨日あそこの敷地内に監禁されてたんだぞ?」
「ほうらね。だからアタシとお留守番が一番だ」
 勝ち誇ったように、竹蔵はにやっとする。雨市は両手で自分の髪をかき混ぜながら、苛立たしげに歩きまわった。
「あっちが立てばこっちが立たずか。くっそ、なんなんだよ、まったくよ!」
「だ、だからさ、大丈夫だって! あっ、そうだ。わたしも雨市氏みたいなスーツ着て行けばいいんじゃん? そうしたらわたしだってバレないし! ともかくさ、見張りとかできるし、なにかと使えるって。それに、ほら!」
 右袖をまくり上げて、盛り上がった二の腕の筋肉を見せる。
「こういう小娘だもんね!」
 ふんっと鼻息を荒くして答えると、沈黙が居間を包んだ。納得のいかない表情を浮かべた雨市は、動きを止めてじいっとわたしを見つめる。そうしてやがて、静寂をやぶった。
「……椿も行くなら、おまえも行くんだな、竹蔵?」
「一人で留守番なんかしてられるかい」
 深く嘆息した雨市は、ハシさんを視界に入れた。
「……わかった、ちょっと考えさせろ。まずは西崎がどういうとこに大事なモンを隠すか、ハシさんの意見が知りてえな」
 お茶をすすったハシさんは、湯飲み茶碗をテーブルに置いた。
「そうですなあ。実際にお会いしたことはないのですが、お噂から察するに、西崎さんというお方はかなり神経質で、自分以外の人間は信じないという性格だそうですから。まあ、そうですなあ。たいがいは、金庫」
「金庫?」
 わたしと雨市の声が重なる。
「ではなくて」
 ほほほとハシさんは笑った。
「これはたいそうやっかいなヤマですなあ。わたくしの腕もなるというものです。まあ、わかりやすいところには隠しませんでしょう。なにしろ信じているのは己だけですので、だとすれば間違いなく」
 にっこりと笑んで、ハシさんは言った。
「肌身離さず、持ち歩いておられるでしょうなあ」

<<もどる 目次 続きを読む​>>

bottom of page