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肆ノ章

大柳邸に潜入せよ

其ノ32

 うっすらと、煙草の匂いがする。

 ぼうっとしながらまぶたを開けると、眠っている雨市の顔が、鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離にあって、うっと息を止めてしまった。

 薄く唇を開いた雨市は、わたしの布団に左腕を添えた恰好で眠っている。昨日、外を徘徊する魑魅魍魎的なうめき声を怖がったから、わたしが眠るまでそばにいてくれたのはわかる。わかるんだけど、なんだろうこれ。

 ……なんで雨市の枕が、わたしの布団側にのっかってんの?

 枕とともに雨市の頭も、あっちの布団とこっちの布団との、ビミョーな境界線をあきらかに越えている。ってか、もう身体ごと、おんなじ布団の中にいるみたくなっているのでは!

 いやいや、とにかく焦らずに落ち着こう。わたしは怖がった。だから安心させようとして、雨市が超至近距離で眠ることにしてくれただけに違いない。そんで眠っているうちに、この位置に落ち着いてしまったんだろう。ともかく、おそらく、そういうことだ。うん。

 外はすっかり朝で、障子窓から優しい光が射し込んでいて部屋を包んでいた。右頬を枕にのせた雨市は、まだ目覚めない。眠っている雨市は無防備で、すごくかわいい感じだ。いつもの前髪の分け目はぐしゃぐしゃで、それが額にかかっていて、きりっとしてる眉を隠している。じいっとその顔を見つめていたら、なんともいえない気持ちになってしまった。

 ずっとこの人と、一緒にいれたらいいのになあ……。

「……無理だけど」

「なにがだよ」

 ひとりごとのつもりだったのに、眠っていたはずの雨市の口が動いて、びっくりする。まぶたを閉じたまま顔をしかめた雨市は、その顔をぐぐぐと枕に押し付けて、軽くうめきながらしゃがれたような声をもらした。

「……起きたのか。……ぐっすり眠りやがって」

 わたしの布団から左腕を離し、自分の髪をくしゃりとつまんだ。

「……俺ってすげえよなあ。すげえなあと思ったぜ、ほんとによ」

 なにがすごいのかわからないけど、寝ぼけているせいか。それに、いったいいつから起きてたんだろ。

「お、はようさんです。起きてたんだね」

 枕から左頬を離しつつ、しかめ面でまぶたを開けた雨市は、わたしをにらむみたいにして横目にした。

「……起きてたっつうより、ちゃんと眠れてねえだけだ」

「えっ」

 まさかそれは、ひと晩中起きてたってことですか!

「そ、そっか、なんかごめん。もしかしてわたしが怖がったから、ずっと起きててくれてたんだね!」

 申しわけない! と謝ると、雨市は深くため息をつく。のっそりと起き上がり、畳の上の煙草に手を伸ばし、それをくわえて布団から出る。障子窓のそばに座ると片膝をたてて、げっそりした表情で煙草に火をつけた。

「……ああ、もう、そういうことにしといてくれ」

 そういうことに、しといてくれ? じゃあ、違う方向で起きてたってこと?

「はあ……?」

 くわえ煙草で頭を垂れた雨市は、畳に放られたネクタイをつかんだ。

「いいふりこいて、いいことねえな。ちょいヤバかったけどよ」

 寝不足のせいなのか、さっきからしゃべっていることが意味不明だ。雨市はシャツの襟をたてて、ネクタイを通す。はだけてたボタンをとめると、器用にネクタイを結びはじめた。ポケットから出したピンを挿す様子を見て、わたしはにやける。

「……なんだよ」

「いえ。なんでもございません」

 腰を上げてベストを羽織った雨市は、髪をかきあげると帽子をかぶる。上着を持ち上げ、煙草の煙をくゆらせながら部屋を歩き、戸に手をかけた。

「金払って来るから、その間に用意しとけ。帰るぞ」

「うん」

 雨市が部屋を出たので、速攻で起きて着付けした。猛スピードで帯を締め、二人分の布団をたたんで押し入れに突っ込んでいて、ふと気づく。畳に置かれた灰皿の吸い殻が、すごい量になっていたのだ。

 この部屋に来てから雨市が吸った煙草は、たしか二、三本くらいなはず。ってことは、わたしが眠ってる間も、ずっと起きていて吸っていたってことだ。

「……なんでそんなに、起きてたんだろ」

 謎だ。

 

 宿の女将さんが人力車を用意してくれたので、それに乗って路面電車の停車場まで行く。そこから電車に乗り、家へ向かった。朝の早い時間だからか、通りを歩く人の姿はまばらだったけれど、真っ青な快晴の空の下で目にするその光景は、昨夜のものとは全然違った。こうしていると地獄の入り口だなんてとても思えないのに、でもそうなのだ。その片鱗を、昨日わたしは耳にしてしまったんだから。

 路面電車が駅に着くやいなや、わたしの手を引っ張った雨市は、西崎を気にしてか早足で家路を急いだ。

「に、西崎が待ち伏せしてたりするかな?」

 小走りになりながら訊くと、大丈夫だと雨市は答える。

「昨日の今日で、そんなわかりやすいことしねえよ。あいつはもっとねちっこいこと、考えてるはずだからな。けど、急ぐぞ」

 ねちっこいって、それはそれで最悪じゃん!

「う、雨市氏、西崎のことマジで気をつけて欲しい! 雨市氏笑ったけどさ、わたしはいつでも雨市氏の警護するからね!」

 そう言うと、またもや雨市は破顔する。でも一瞬だけ、ぎゅっと強くわたしの手を握った気がした。それはすぐにゆるんで離れ、雨市の足がつと止まる。通りの前方に家が見えてきて、息を整えながら近づいていると、門の前に立つ人影が大きくなる。ハシさんかと思ったけれど、違った。濃紺のストールを首に巻いて、茶と深緑が混じったような渋い色の着物に、鼠色の帯を締めるという恰好で立っていたのは、髪を前髪ごとバッサリと耳の下まで切った、なんと竹蔵だった。

 びっくりしてわたしが立ち止まると、雨市は帽子を脱ぎながら竹蔵に言った。

「床屋に行ったのか」

「飽きたからね」

 口調はいつもの通りで、ちょっとほっとする。だけど、美女みたいな見た目は一転、妖艶な美青年になっちゃってて、初対面の人みたいで緊張してきた。女子的な風貌だったからこそ、なんとなく気軽にしゃべれていたのに、いまの見た目じゃ断ったあとの怖さが計り知れない!

「……朝帰りって、やつだねえ」

 袖に両手を入れた竹蔵は、わたしと雨市を見る。雨市は門をくぐりながら、吐き捨てた。

「しょうがねえんだよ。勘ぐるな」

 門扉を開けながら振り返った雨市は、「入れ」とわたしをうながす。そのとき、竹蔵と目が合ってしまった。すきがないし、いろいろと恐怖だけど、わたしには竹蔵としゃべらなければいけない使命がある。魔物とかになって欲しくはないし、わたしは雨市が好きなのだ。完全に片思いだけど、それはそれとしても断らなければ!

「ち、ちょっと竹蔵さんとしゃべります!」

 門扉に手をかけた雨市の表情が、不機嫌そうにこわばった。わたしを一瞬見つめたものの、

「好きにしろ」

 竹蔵を見すえてから、さっさと家に向かっていき、玄関に入ると扉を閉めた。瞬間、強い風が吹く。乱れた自分の髪も気にせずに、目前の竹蔵を見上げつつ口を開こうとした矢先。

「ちょい待ち」

 竹蔵に制される。

「へ?」

 袖に手を入れていた竹蔵の視線が、ぐぐぐと動く。と、わたしの左耳の下あたりで、鋭い眼差しがぴたりと止まった。

「な……なん、すか?」

 苦笑とも困惑ともとれる表情を浮かべながら、竹蔵は袖から右手を出す。とたんに、わたしの髪を手のひらで持ち上げた。

「え、えっ! ちょっ、なんすか!」

「ガキじゃないんだ。あんたがしゃべくろうとしてることなんか、わかってんだよ。それはいいから、ちょっと黙って見せな」

 竹蔵の顔がぐっと近づく。のけぞると、竹蔵の眉根がありえないほど寄った。

「……な、なん」

 なのさ、と言おうとした声に、竹蔵のそれが重なる。

「……なんだい、この痣」

 痣?

「はい?」

 戸惑った直後、はっとした。わかった。たぶん西崎に首を絞められた痕だ。うわ、痣になるほど絞められたんだ!

「……実は昨日、西崎に首を絞められて」

「なんだって!?」

 ぎょっとした竹蔵が、髪から手を離した。

「あんたがどういう目にあって、雨市がなにをして助けたのかぐらいは想像がつくよ。無事でひとまず安心だ。あんたも怖かっただろ、かわいそうに」

「う、うん……まあ。けど、そっか。知ってたんだね」

「昨日、雨市と銭湯に行っただろ? それから雨市がひとりで戻って来て、あれこれ用意したとたん、あんたを助けるって言ったっきり、飛び出しちまったんだよ。それじゃあアタシの出る幕もありゃしない。じっとハシさんと、待ってるほかないさ。ヘタに動いてあんたが危なくなるくらいなら、じっとしてたほうがマシだからね。それに、昨日は悪かったよ」

「えっ?」

 気まずそうにうつむいた竹蔵は、上目遣いでわたしを見ながら続けた。

「怖がらせて悪かったって言ってんだよ。けど、それもまあ、いまはおいておく。椿、その痣は絞められたもんじゃないよ」

「マジで? じゃあ、なんだろ」

 記憶にないな。痣のあるあたりと思われるところに、手を添えながら小首を傾げると、竹蔵はあからさまに苦笑した。

「……なあんだろうねえ、それ。まるで自分のモンだって、唾つけたみたいになっちまってるじゃないか」

「……はあ?」

 なにがどうなって、なにがなにに唾をつけたってことになってるのか、わたしにわかるわけもない。

「痣……ですか。記憶はまったくないけど、けっこう暴れたからなあ」

 首をどこかにぶつけたかも? 腑に落ちない様子を見せると、竹蔵はくしゃりと表情を歪ませた。

「おや、あんたには自覚がないみたいだね。ふうん、なるほど……」

 そうつぶやいてから、顔を上げた竹蔵はまっすぐにわたしを見た。

「その痣がなんなのかわかってないあんたを、笑える余裕がなくなってきちまったよ」

「は? はいい?」

「まったく、あんたみたいなおぼこい娘を相手にしたことないから、さっぱりだ。まあいいさ。じゃあ、こうすりゃいい。アタシと雨市、二股かけりゃいいじゃないか。そのうちに、雨市の甘ったれ具合がわかって、嫌気もさすだろ。二股のうまいかけかた、教えてやるよ」

「はっ!? いっ、いやいや、そうじゃなくてですね。なんでそういう方向になるかな!」

 断るつもりが、逆に勝手にハードル上げられた!? そんなレクチャーいらないですから! 

「無理です、無理無理、マジで無理!」

 慌てて強く拒否るわたしを無視して、竹蔵は門をくぐった。

「じゃ、あんたが二股かけるってことで、いいね?」

 いいね? いや、よくねえです!

「いや、二股とかないから! それに雨市氏はわたしのこととか、なんとも思ってないから、そういう方向にすらならないっていうか、てか、そういうことじゃなくてそうじゃなくてっ」

 しゃべりながらこんがらがってきた。言葉に不自由すぎる! おや、と振り返った竹蔵の片眉が上がった。

「……あんた、やっぱりそう思ってんのかい?」

 やっぱりって、ナンデスカ? あ、そうか。竹蔵は銭湯で、わたしがまたもや雨市にフラれていることを知らないのだ。それを教えたらさらにおかしなことになりそうだから、黙っていたほうがいいんだろうか。うー、悩ましい!

 渋い顔で突っ立っていると、竹蔵は満面の笑みを見せて、玄関の戸に手をかけた。

「そら、面白い」

 面白くない。断じて、面白くない!

「と、とにかく、ないからね! そんなのないし、おかしいからね!」

「なんでおかしいのさ?」

 戸に手をかけたままで、竹蔵はきょとんとした顔で振り返る。

 ああ……ダメだ、この人。ってか、いまやっとわかった。竹蔵に一般常識は、なにひとつ通じないんだ。ああ、そうですか。じゃあ、しかたがない!

「じゃあ、わたしは今日から、竹蔵さんを避けまくりますからね。ガチで!」

 肩を怒らせて鼻息を荒くする。竹蔵は声を上げて笑った。

「律儀で真面目なあんたに、そんなことできるわけない」

 わたしはうなだれた。人間観察力、ハンパねえんですね……。

 竹蔵が玄関に入る。わたしも頭を垂らしたまま、竹蔵のあとについて下駄を脱ぐ。廊下に立ったとき、自分の部屋のドアを開ける竹蔵が言った。

「鏡で痣、見てみな」

 そう言い置いて、バッタンとドアを閉めた。鏡? 急いで階段を駆け上がり、自室に入って鏡で確認する。小さい痣がぽつんと首に刻まれていて、指で押してみたものの痛くはない。いや、待て。

 これは大人女子が主人公のマンガで、見たことがある気がする……。あれは、たしか。

「……キスマーク?」

 なのか? わからない。わからないけど、もしもそれだとしたら、どういうことだ?

「は? はあ?」

 いっきに血の気が引いた。え? なになに、どうしよう。いや落ち着け! 髪を両手でわしづかんで床にしゃがむ。着物だけどヤンキー座りでしゃがむ。キスマーク的なものだとしたら、いったいどこで誰が……と思って、床に両手をついて四つん這いの恰好になる。

「う、うそだ……」

 信じたくないけど、合点がいった。すごく考えたくない方向だけど、それしか思いあたらない。あの離れの屋根裏部屋で、わたしは意識を失っていたのだ。その場にずっといたのは、西崎の手下の……あいつだ!

「みーやーたーっ!?」

 宮田だ、宮田! なんで宮田なのかわっかんないけど、宮田しか思いつかないから、やつの仕業に違いない!

 くっそ、あいつ許さん! 今度会ったら、絶対に飛び蹴りくらわす。絶対にくらわす! っていうか、なんかもう。

「……泣きたい」

 とりあえず、そうしよう。

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