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肆ノ章

大柳邸に潜入せよ

其ノ31

 しばらく歩くと、『小川屋』としるされた提灯が通りの向こうに見えてきた。街灯のない暗がりの道を照らしているのはそれだけで、なんとも不気味だ。

 小川屋は瓦屋根の二階建てで、暖簾をくぐろうとしたそのとき、中から中年の女性があらわれた。きっちりと髪を結い上げていて、高そうな着物を着ているから女将さんかもしれない。

「おや、まあ。こんな夜更けに外を出歩くお方がいるなんて、珍しい。お泊りでございますか?」

「ええ。お願いできますか」

 雨市が答えると、女将さんらしき大人女子は「もちろんでございます」と招き入れてくれた。

「あたくしはここの女将でございます。どうぞ、こちらへ」

 案内されたのは、二階の部屋だ。広さは六畳ほどの和室で、障子窓のある純日本家屋だ。灯籠を灯しながら、遅い時間のためおにぎりと漬け物しか残っていないと申し訳なさそうに話す。

「軽食はあとでお持ちいたします。それからお布団、いま敷きましょうか?」

「いえ。自分たちで用意しますから、気になさらず」

 そう言った雨市は帽子を取り、ネクタイをゆるめた。会釈をした女将さんが出ていってしまうと、あたりまえだけれど雨市と二人きりになってしまう。

 ぼうっとした灯籠の明かりを見つめていたら、妙に緊張してきた。なんだろう、この……昔の文豪が愛人と密会してますみたいな雰囲気は。ヤバい。意識しすぎてヘンな汗が浮いてきたし、置かれた状況が大人すぎててんぱってきた!

「どうした?」

 障子窓を少し開けて、外の様子を眺めた雨市が振り返る。引き戸を背にして直立していたわたしは、なんとか声にした。

「い、いや……なんでもないです」

 落ち着け、山内。大丈夫だ。なにが大丈夫なのかは自分でもよくわかんないけど、これはいたしかたのない流れなのだ。べつにさ、いちゃつく目的でここに来たわけじゃないし。ってか……いちゃつくとかなにさ!?

「おい、大丈夫か。顔色おかしいぜ」

「や。おかしくねーですよ。いつもどおりっす」

 けげんそうに眉根を寄せた雨市は、障子窓を閉めるとベストを脱ぐ。そのとき、わたしの視界にネクタイピンが飛び込んだ。

「あれ、あれれ? それ!」

 それは、雨市にあげた傘のネクタイピンだった。

「それ、付けてくれてたんだね! 気に入ってないと思ってたのに」

 嬉しくなったとたん、おかしな自意識が消えた。にやにやしながら雨市に近づき、ピンを着用している姿を眺めた。いいね、やっぱいいよ!

「気に入ってねえなんて、言ってねえぞ俺は。つっても自分じゃ選ばねえよなあ、こういうのは」

 ピンをはずした雨市は、それを指でつまんでまじまじと見入った。

 よかった。ゴミにされたと思っていたから、安心した。と、ピンをズボンのポケットに入れた雨市と、うっかり目が合う。瞬間、距離が近すぎることにいまさら気づいた。

 ホントに雨市って、きれいな顔してるなあ……。この顔とわたし、さっき人工呼吸したんだよなあ……って、それはダメだ! それはいま、思い出してはいけない場面だ! 挙動不審に戻っちゃうから! うっ、と息をつめてとっさに目をそらし、雨市から後ずさる。

「……なんなんだよ」

 雨市が苦笑した。

「な、なんでもございませんでございます」

 雨市はどこからどう見てもいつもどおりなのに、わたしだけ意識しまくって、挙動不審になっててバカみたいだ。こんなふうにここにいたって、恋人同士じゃないんだからなんにもないって。そうそう、いちゃつくとかホントないから、とにかく深呼吸をして落ち着こう。大きく息を吸って吐いた直後、お盆を手にした女将さんが姿を見せた。

 畳の上にお盆を置くと、ごゆっくりと告げて去る。考えてみたら、朝からなにも食べていない。なんかものすごく長い一日だったなあ。

「……娑婆に戻るまで、おまえは一歩も外に出ねえほうがいい」

 お盆を前にして、雨市はあぐらをかいた。 

「家にいれば、西崎はなにもしねえさ。あいつは竹蔵を避けたがってるからな」

 おにぎりと漬物を挟んで、わたしも正座する。すっかり忘れていたけど、竹蔵に言われたことを思い出してしまった。

 ――まさか死んでから、生きてる娘に惚れるとは思わなかったよ。

 魔物になるとまで、竹蔵に言わせてしまった。家に帰ったら、わかってもらえるようにちゃんと断らないと。わかってもらえなかったら、わかってもらえるまで説得するしかない。うまくいくかはわかんないけど。

「うん、わかった」

 銭湯に行かなくても、身体は拭けばいいし、髪は水でも洗えるからそれはいい。いいんだけど、西崎のせいでってのがなんかムカつく。西崎の顔を思い出したとたん、大事なことが脳裏をよぎった。そうだった!

「そういえば西崎がさ、自分が筆を持ってるみたいなことしゃべってたんだ」 

 おにぎりを頬張りながら言うと、お茶を飲んだ雨市は表情を険しくさせた。

「やっぱりか。……なんつってた?」

「ええと……たしか、この世界はもう動かないからとかなんとか。そういうことをもうわかってるみたいな感じだったんだ。そんで、生きてるわたしを競売にかけようとしててさ」

「あ? おい、なんだって?」

「だからさ、この世界はもう動かないからとかなんとか、西崎が言ってて」

 最後まで言いきらないうちに、雨市に突っ込まれた。

「そうじゃねえよ。そのあとだ」

 あと?

「ああ、競売?」

 きつく眉をひそめた雨市は、鬼のような形相でわたしを上目遣いに見た。お茶を飲み干し、怒ったように茶碗をお盆にどんと置く。そうしてポケットから煙草を出し、わたしを見つめたまま口にくわえた。

「……あの野郎、そうきたか」

 障子窓の下にある灰皿とマッチに手を伸ばし、引き寄せる。煙草に火をつけて煙を吐くと、まぶたを閉じて腕を組んだ。

「……なあんだろうなあ、最高にムカついてきたぜ」

「わっかる! だよね!? あいつホントにわけわかんないしムカつく! しかも、わたしの首とか締めてき――」

 雨市が咳き込んだ。

「――なん、だって!?」

「え? いや、だからさ、わたしの首を絞めてきて、かぐわしい匂いだとかなんとかしゃべくりながら顔近づけてきて……いやあ、キモかった!」

 煙草を指に挟んだ雨市は、がっくりと深くうなだれた。

「……なんかされてんじゃねえか。なんでさっき、そう言わねえんだよ!」

「いや、だってさ、たいしたことないかなと思って」

「たいしたことあんだろうが!」

 はあ、と呆れたように息を吐き、雨市はうなだれたまま煙草を吸い続ける。短くなった煙草を灰皿に押し付けると、またもやため息をついた。

「……しょうがねえな。こうなったら、のん気にしてもいられねえよ」

「でも、どうすんの?」

 雨市は目を鋭く細めて、きっぱりと告げた。

「――筆を盗むしかねえだろ」

 

 

 大柳財閥の一員である西崎も、賞金稼ぎに名前をつらねていたらしい。その名目は〝会長を極楽へ!〟だそうだ。

 なぜか娑婆に出回ってしまっている百七本の偽物の筆と、それに紛れる一本の本物の筆。それを求めて、雨市以外にもたくさんの人が、極楽行きの賞金を手に入れるべく娑婆を訪れて探していたのだ。何年も、何年も。

 めでたく本物の筆を手に入れたのは、残念なことに大柳一族の誰かだった。でも、西崎は仲間ともいうべきその誰かから筆を盗み、隠し持っている可能性がある。会長を極楽へ行かせるどころか、永遠にこの世界に留まっているために。

 ひとしきり語った雨市は、ふたたび煙草に火を付けた。

「でもさ、ハイコウは本数をきっちり数えて、ニセの筆を回収してるっぽいよ? 西崎がホンモノを隠してたら、一本足りないってなんないかな」

「どっかの木彫師におんなじようなのを、金でも積んで一本作らせたんだろ」

 西崎ならやりかねない。

「役所も役所だ。最初っから全部の筆を、回収してりゃあよかったんだ。娑婆への通路を開くのは、どうせ役所なんだしな」

「マジで? じゃあ、わたしもそこへ行けば戻れるじゃん!」

「年に数回しか開かねえし、賞金稼ぎ以外のやつは通れねえよ。それができるなら、とっくの昔におまえを役所へねじ込んでるってハナシだ。だから忘れろ」

 そりゃそうだ。残念だけど了解です。それにしても、筆が全部で百八本って。煩悩の数かよと突っ込みたい。

「うーん……ってことはさ、ホンモノの筆は、あの離れの中にあるのかな」

「もしくは大柳の本邸か。なんにせよ、犯人が西崎で決まりなら、どういうところに隠すのかってのを、一級の泥棒に訊くしかねえよ」

 ハシさん師匠の出番だ。めっちゃ心強い!……っていうか、どうしようこれ。

 押し入れにあった布団をほいほいと、雨市としゃべりながら敷いてたのだけれども、会話に夢中で重要なポイントに気づけなかった。

 ふたつの布団がぴったりと、くっついて並んでる絵面になっていることに、たったいま気づいてしまった!

「これで最後だ。ほらよ」

 雨市が枕を投げてくる。受け取ったものの、困ったぞ。これ、どうすればベストな位置になるんだろ。できればわたし側の布団を離したいけど、そうしたらあきらかに、自意識過剰っぽいアクションになるし。六畳ってけっこう狭いから、しょうがない並びな気もするんだけど、気持ちもうちょい離したい。離しても、いいすか!?

「う、雨市氏!」

「なんだよ」

 見下ろしていた布団から顔を上げると、雨市は片手でシャツのボタンをはずしていた。

「ああっ! そ、それは着てて……っ!」

「……あ? そら着てるけどよ、首がきっついんだよ」

 シャツのボタンがみっつはずされて、ゆるまりすぎてる。引き締まった素肌がチラ見え……って、わたしはどうすればいいのだ! この場合、どう行動するのが正しいのさ!?

 昨夜のギリギリな場面がいきなり蘇って、固まった。頭が真っ白になってくる。もういっそ、ここで意識を失ってしまいたい……。

「さっさと寝ろ」

 襟元から右手を入れ、肩を揉みながら雨市は言った。あくびをすると掛け布団の中に入り、さっさと背中を向けて横になる。てんぱって意識しまくっているのは、わたしだけじゃん。ホント、バカだなわたし。でも、なんかほっとした。

 浴衣がないので、着物姿のままのろのろと布団に入ろうとしたものの、帯が邪魔すぎる。やっぱ、着物を脱がないとダメっぽい。でも、脱いだらマダム・リリィみたいな丸出し状態で目覚めそうで恐怖だ。そんな姿を雨市に見られたら、確実に人生終わるよ。ああ、誰かいますぐ、わたしにパジャマをください!

 どうにもできなくて布団の上で正座をしていると、雨市が言った。

「……なにしてんだ。脱げばいいだろ」

 え! びっくりして雨市に顔を向けると、肩越しに振り返っていた。見ていたんですね……。

「そう、だけどもさ」

 ふ、と小さく笑み、雨市は顔をそむけた。

「なんにもしやしねえよ。言っただろ? 俺はその気のねえ娘に、手は出さねえの」

 だよね。了解です。

 のろのろと帯締めをはずし、ゆるゆると帯を取る。脱いだ着物はきちんとたたみ、肌着になって布団に入ろうとした矢先、もぞりと雨市が動いた気がした。なんとなくこっちを見ていて、それから寝返ったような感じがしたけど、きっと気のせいだ。

 灯籠のろうそくが短くなって、ほのかな明かりがゆらゆらと揺れている。雨市の背中を見つめていたら、なんでか泣きたくなってきた。

 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、この人はわたしの世界の人じゃない。

 生きてない人なんだ。

 ヤバ……ホントに泣きそう。そんなことわかってるじゃん。それでもいいって、好きだって自覚して、腹をくくったのはわたしなのに。

 ぐるんと寝返って、雨市に背中を向けた。泣く前に寝てしまおう。ぎゅっときつく目を閉じたものの、睡魔におそわれる気配はゼロだ。

 それには、理由がある。
 かすかだけれど、外からなにかの声が聞こえているからだ。

 ……うわ、なにあの不気味な声。

 雨市を起こさないように起き上がり、四つん這いで障子窓に近づく。嗚咽のような、うめき声のような、世にもおそろしい声が何重にもなって外にこだましていた。その声が、どんどん近づいてきて、思わず障子窓から離れた。

 あれが、池から出現した魑魅魍魎の、夜な夜な徘徊している声なんだ。布団に潜ってみたものの、どんどん声が大きくなる。雨市が早く寝ろと言ったのは、こういう意味もあったんだろう。

 ――地獄なんだ。この世界の下は、ホントにリアルに地獄なんだ!

「怖えか」

 突然の雨市の声に驚く。起きてたんだ。

「う、うん。なんか、こういう感じ、あんま無かったから」

「俺の家のまわりは、役所に入るハシさんが結界張ってんだ。あちこちの壁に梵字でな」

 それであんなに静かだったんだ。深夜のジョギングとか、しなくてよかった。

「こ、声がおっきくなってるね」

「通り過ぎてくだけだ。けど、窓開けて見るんじゃねえぞ」

「わかった」

 ふと思う。そういう世界に、雨市も竹蔵もハシさんも、本当に行ってしまうんだろうか。魑魅魍魎みたいな感じに、なってしまうってことなんだろうか。閻魔の筆に彫られてた餓鬼みたいな姿に、なってしまうんだろうか。

 よくないことをしてきた罪人かもしれないけど、すごくいい人たちなのにな。まあ、竹蔵は人を斬ってるみたいだし、しかたないのかな。たぶん、避けられないことなんだ。

 でも、ショックだ。すごくショックだ。

「……う。雨市氏」

「……どした?」

「あ、ああいうふうになんの? 雨市氏も竹蔵さんも、ハシさんも」

「……ああ、だろうな」

 涙がぼわっと込み上がって、布団の中で鼻水をすするはめになる。堪らえようとしても大粒の涙が、次から次に目に浮かんだ。

「おい、なんだよ、泣いてんのか?」

「……だってさ、みんな悪いことしたのかもだけどさ、ああいうふうにはなってほしくないからさ。あんなの、見てないからわかんないけど、もう人とかじゃない感じじゃん。だったら鬼とかのほうが、まだマシとか思うじゃん」

 布団をかぶったまま、ずずっと鼻水をすする。

「わたしはみんな丸ごと、極楽に行って欲しいよ。そうしたら、わたしんち寺だし、なんか世界的につながってるっぽいし……」

 そう言った瞬間、布団がめくれた。うつぶせで横たわった雨市が、めくった布団から困惑した顔をのぞかせていた。

「……悪い。考えごとしてて、ぼうっとしちまってた。テキトーに答えただけだ」

「えっ、え?」

「すまねえ。まさかおまえが泣くとは思わなかった。地獄に行っても、あんなふうにはならねえよ。ありゃ最悪の特別な野郎どもだ」

 えっ。

「な、なんだ……っ。もう、マジでビビった!」

 よかった。違うってわかって、ホントによかった。安心したとたん、泣き顔を見られた照れくささに襲われ、苦笑してしまう。

「あんなふうには、なんないんだね?」

「ならねえよ」

「じゃあ、ああいうふうになるのは、西崎とかだ」

 雨市はにやっとした。

「だな」

 まったく、テキトーでよかったよ。いや、よくはないけどさ。でも、気もそぞろな返答をするほど、雨市はなにを考えてたんだろ。

 めくっていた布団から、雨市は手を離した。うつぶせのまま煙草に火をつけ、敷き布団に肘をあてて吸いはじめた。その横顔の視線は、いやに遠い。

 そっか。きっと、わたしのせいで手を切るはめになった女子たちのことを、考えてたのかも。そんで、いまも考えているのかも……。

「……雨市氏、あのさ」

「なんだよ」

 わたしを一瞥してから、雨市はすぐに視線をそむけた。

「西崎に、夫婦でないってバレてます」

「だろうな。だから、どうした」

「いや、だからその。会いたい女子には会える感じになってるんではないかな、と」

 へ、と煙草を吸いながら、雨市は苦笑した。

「んな暇ねえし、もうどうでもいい」

 あれ、そうなんだ? 

「そう、すか……」

 寝返りをうとうとしたとき、雨市は言った。

「……しょせん、互いに恰好つけて嘘こいて、会ってるみてえなもんだったからな。ただの暇つぶしの遊びだ。向こうも同じ。俺がいなくても代わりの男がいんのさ」

「はあ……」 

 大人の世界は複雑なのか。そんな複雑な関係を渡り歩いてきた雨市が、わたしを好きになるなんて、どう転んでもないような気がする。考えてみたら年の差は、六歳? ハイコウが雨市の年を言っていたから、六歳だ。六歳年下の女子なんか、雨市にとっては鼻タレ女子に違いない。

 でも、女子たちと会わないってわかって、単純に嬉しい。へへへとにやついた顔で布団に潜る。とたんに、近づいて大きくなった外の声が、部屋に響いた。

 うわあ……これはガチ中のガチすぎる。寺の娘だから苦手じゃないけど、さすがのわたしも震えてしまう。

 ぎゅっとまぶたを閉じたとき、ぽんと優しく布団がたたかれた。

「……おまえがちゃんと眠るまで、起きててやるから怖がるな」

 布団から目だけを出すと、雨市は煙草を消してこちらを向き、右手で頭を支えた。

「いや、大丈夫だから」

「ほらな、また出た。〝大丈夫〟ってやつ」

 雨市が小さく笑った。

「いいから、黙って寝ろ」

 わたしはまた、頭まで布団をかぶる。すると、まるで赤ちゃんをあやしているかのように、布団がぽんぽんとたたかれた。ああ、安心するな。

 母さんを思い出してしまった。思い出しているうちに、眠くなってきた。

 寝入る間際、布団がめくられて、左耳の下あたりになにかが触れたみたいな気がしたけど、きっとわたしの気のせいだ。

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