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肆ノ章

大柳邸に潜入せよ

其ノ30

 雨市と一緒に外へ出る。とっぷりと暮れた空には、巨大満月が浮かんでいた。
 右を向くと、どっしりと構えた三階建ての大柳邸が見える。その建物を囲むように、あちこちでランプの灯りが揺れていた。雨市がばらまいたというニセの筆を、邸内の人間が探しているのだ。それと、逃げようとしているわたしと雨市のことも。
「こっちだ」
 ささやくように言った雨市は、離れの裏手にまわった。枝葉を揺らす木々の向こうに、レンガ造りの門塀がある。高さは三メートル近くあり、木に登って枝をつたい、越えるしかなさそうだ。
「椿、登れるか」
「もちろんだよ」
 こんなところで田舎育ちが役に立つなんて、考えたこともなかった。なんでも経験はしておくもんだね。
 先に雨市が木に登り、枝をつたって門塀に足をかけ、しゃがんでから華麗に塀を越えた。わたしは着物の裾を膝のあたりでぎゅっと結び、下駄を袖に突っ込んでから幹に足をかける。なんとか登り、枝をつたった。勢いをつけて塀の上に飛び移り、両手でぶら下がってから地面に着地する。速攻で下駄を履き、雨市と一緒にその場から逃げた。
「やった! 逃亡成功だね!」
「まだ喜ぶな。走れ」
 雨市がわたしの手を取って走る。こうして走っていると、こっちに来たときのことが思い出された。あのときはまさか、雨市を好きになるなんて考えもしなかったのにな。人生って、なにが起こるかホントにわかんないんだな。
 大柳邸のある界隈は、ご立派な洋風の建物ばかりだった。でも、一歩でも路地に入ると道は狭くなり、瓦屋根の建物があらわれた。
「もういいだろ」
 立ち止まった雨市は、ぜいぜいと息をつく。同じく足を止めたわたしは、辺りを見わたして首を傾げる。
「そういえばさ、ここってどこなの?」
「上野だ」
 人影のない狭い通りで、ポケットから煙草を出してくわえた雨市は、火をつけると煙を吐いた。
「……さあて、まいったぞこりゃ」
 片手をポケットに入れつつ、まぶたを閉じる。
「まいったって、なにが?」
「俺の家は新橋だ。ここからは歩いても帰れる。つっても、すっかり遅い時間になっちまった。もう車も走ってねえし、歩いてるうちにヤバい時間に突っ込みそうだしな」
「ヤバい時間?」 
「夜更けは出歩くなって、おまえに言ったことがあっただろ。わかってんだろうが、ここは普通の世界じゃねえ。この近くに池があって、夜更けになるとそこから魑魅魍魎のうめき声が聞こえてくんのよ。なにしろこの下は――」
 にやっとした雨市は、地面をしめすようにコツコツと靴を鳴らした。
「――地獄だからな」
 そうでした。うっかり忘れそうになるけど、そうだった。ってか、会話に魑魅魍魎って単語がさらっと飛び出すあたり、めっちゃリアル感ある……。
「そ、それで?」
「池から這い上がろうとしてくるやつもいる。こっちの運が悪けりゃ、そいつらを見ちまうこともある。目が合ったら最後だ。人間のもっとも最悪な感情にとらわれて、それまでの自分じゃなくなっちまうのさ」
 指に煙草を挟んだ雨市は、やれやれと息をついた。
「どの家も、すっかり閉めきっていやがる。そういう時間ってことだ」
 たしかに、人っ子ひとり見えない。
「じゃあ、どうすんの?」
 雨市はちらりとわたしを見てから、煙草を地面に放り靴底で潰した。
「朝を待って、帰るしかねえよ」
 そう言うと、帽子を斜めにかぶりなおし、おもむろに歩きはじめる。っていうか?
 朝を待つって、どこで? あ、わかった! きっとセツさんの住んでいる家が、このあたりにあるんだ。それはいいね! と思ったところで、ふいに疑問がわく。
 その声を聞いたセツさんは、なにか気づいてしまうんじゃないのか。
「……あのさ。死んでるってわかってない人が、そういううめき声を聞いたらさ、ここがヘンな世界だってわかるんじゃないの?」
「自分は生きてるって思い込んでるぐらいだ。化け物の声だとわかっていても、そんなふうには考えねえよ」
 瓦屋根の建物が並ぶ、狭い通りを歩く。もしも雨市が来てくれなかったら、わたしはいまごろどうなってたんだろ。まだあの屋根裏部屋にいて、明日になったら競売にかけられていたのかも……! うっわ……いまになっていろいろよみがえってきた。ありえないありえない、ホントにマジで怖いことになってた!
 それにしても、西崎。わたしへのイジメが、ハンパないレベルに達してたよ。激似の衣心をはるかに上回ってる。そんな末恐ろしい西崎の言葉を、ふと思い出してしまった。
 宦官になりすましたのが雨市なら、絶対に許さないみたいなことを言っていたはず。なにをどう許さないのかはわかんないけど、そのわかんなさ加減がめちゃくちゃ不気味だ。
 わたしを逃がしたのは雨市だと、おそらく西崎はもう気づいてる。証拠なんかなくても、あの西崎ならそう思うはず。ってことは、ちょっと待って。
 雨市こそ、危険なんじゃないのか!?
 住所はバレバレだし、西崎がなにを仕掛けてくるのかもわからない。西崎の手下たちがどこかで雨市を待ち伏せし、集団で襲いかかる場面を想像してしまい、焦ってきた。そんなはめになったら、わたしはどうすればいいのさ! ヤバいじゃん!……って、ちょっと落ち着こうか、大丈夫だ。
 両手を縛られていたから、西崎に首を絞められたりしたのであって、そうでなければあの身のこなしから察するに、わたしでもじゅうぶんに戦える相手だ。手下たちだって似たようなレベルだろう。ってことは、だ。
 わたしが雨市のSPになれば、いいんだよ!
「う、雨市氏!」
「なんだよ。いきなり大声出して」
 立ち止まった雨市が、振り返った。
「雨市氏、もしかするとさ、今日からとても危険なことになるかも!」
 はあ? と雨市は眉を寄せる。
「だってさ、宦官になりすましたのが雨市氏なら、俺は絶対に許さないんだぜ的なことを西崎が言ってたんだよ。だからわたし、今日から雨市氏のSP……じゃなくて、警護するよ!」
 雨市は困惑した様子で、あんぐりと口を開けた。
「……なん、だって?」
「大丈夫、わたしが雨市氏を守るからね! 西崎とか奴の手下レベルなら、わたしのほうが絶対に強いし。これでもめちゃくちゃ本気でジムに通ってたし、トレーナーからプロを目指さないかって言われたこともあるんだから!」
 おまえはなにをしゃべってるんだと言わんばかりに、雨市は眉間の皺を深くする。マズい、英語をたくさんミックスしてしゃべってしまった。
「ああ、だよね。説明するよ。まず、ジムっていうのはさ――」
 説明しようとしたわたしに向かって、雨市は右手を広げて制した。
「待て。いや、そういうことじゃねえ。そうじゃねえんだ」
 そうじゃねえと繰り返した雨市は吹き出し、なぜかいきなり笑いはじめた。こんなふうに子どもみたいに、お腹を抱えて笑う雨市をはじめて見た。
 なんか、びっくり。雨市も、こんなふうに笑うんだな。
「……腹が痛てえよ、ああ、笑えるな! 守ってやると娘に言われたのは、さすがに俺もはじめてだ。すげえなあ、おまえはよ!」
 雨市の爆笑は止まらない。
「いや、だって! 笑ってる場合じゃないし!」
「わーかってるよ。西崎に殺されるわけじゃねえさ。こっちも向こうもすでに死んでんだ」
 息をととのえながら、肩をふるわせつつ雨市はわたしを見る。
「わかってるけど、わかんないじゃん?」
「あいつの〝許さない〟ってのは、俺の弱みにつけこむってことだ」
 笑みを消しながら、雨市はわたしを見つめた。
「……は? 弱み?」
 押し黙った雨市は、わたしに顔を近づける。なにか言いたげに口を開きかけた矢先、しかめ面をした。
「なにさ」
「いや……。おまえ、娑婆の匂いに気づかれただろ」
「あー……まあ」
「誰かに、なんかされなかっただろうな?」
 山ほどされたけど、もう忘れたい。
「とくには……」
 探るような眼差しで、雨市はわたしをまじまじと見た。
「……どうする? 一応、消しとくか。いまさらだけど」
「うーん……そのほうがいいかもだよね。でもさ、瓶的なものがないし……」
「ああ、ねえな」
 瓶的なものがないとすると、トンネル以来避けてきた、アレをおこなうしかないってことだ。とたんに胸の奥がむずむずしてくる。
 雨市を好きな身としてはかなり微妙な状況だし、ハンパなくドキドキすると思うけど、生涯の思い出としてとっておくには悪くない経験なんじゃないのか?
 そうだよ……これは、悪いことじゃない。雨市にとっては人口呼吸みたいなものなんだから、腹をくくってしまえ、山内!
「了解です。お願いします」
 ぎゅっと強く、まぶたを閉じた。すると、左の頬に雨市の指先が触れた。
 雨市の顔が、近づく気配がする。うっわ……わたしの心臓がバクバクいってる。うう、早くして! ちゅってして終わる、短いわたしの思い出をください!
 さらにきつく目を閉じた瞬間、ふわっとしたそれが、唇に触れた。そのふわっとした感触は、すぐに……離れない!
 あれ? なんかおかしくないかな、これ。なんか、トンネルのときと違う気がする。あのときはわたしがどついてしまったから、ホントはわりと時間のかかることだったってことなのか?
 それにしても、おかしい。まだあるね、まだあるよ。まあ、たしかに人口呼吸って時間のかかることだからね……って、待って。
 これ、たぶん、そういう方向の感じじゃないから!
 握っていた両手を開き、雨市の顔をがっしりと挟む。お面をはぎ取るかのごとく、挟んだ雨市の顔を離して叫んだ。
「な、長い……気がっ!」
 はっとした雨市は、とっさに口を手でおおってうつむいた。
「……間違った」
 間違った? なにを?
「――え」
 雨市は口をおおったまま、わたしをちらっと上目遣いにし、すぐに視線をそらす。
「……悪い。うっかり」
 うっかり? うっかり、なにさ?
「え、え? い、いいんだよね、いまので? 娑婆の匂いはおさまったんだよね、とりあえず?」
 雨市はなにも言わない。おかしな空気が流れて、居心地が悪くなってきた。
 いろいろ考えると、フラれているくせに勘違いをしそうだから、やめておく。とにかく、思い出の一ページ目は刻んだのだ。全部丸ごとよしとするよ!
「と、とにかくさ、そろそろセツさんの家に行こうか、雨市氏!」
 場の空気を変えたくて告げると、雨市が顔を上げた。けげんそうに眉をひそめると、わたしを見つめながら言った。
「セツの家? 泊まるのは宿だぞ」
 ……なん……ですと!?

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