肆ノ章
大柳邸に潜入せよ
其ノ29
部屋を出た西崎と宮田は、外側からきっちりと鍵をかけて去った。
いまだ両手を縛られているわたしは、窓から外の様子をうかがった。
本物の筆がどこにあるのか探りたいものの、このままでは競売にかけられてしまう。ひと晩の猶予はあるけれど、ここでじっとしていたら探りたくても探れない。
自由の身になってどこかに潜んで、あちこち探るためには、ここから出ないと話にならない。
「……この隙になんとかしないと」
空は淡い藍色に染まり、この屋根裏部屋も薄暗くなってくる。木箱だらけの周囲を見まわしながら、西崎と宮田のやりとりを思い返した。
宮田にハイコウがあらわれたと告げられた西崎は、同じ名前の宦官はすでに来たと言っていた。そして「里下か」と叫んだのだ。
宦官になりすましたのは、本当に雨市なんだろうか。わたしが銭湯からいなくなって、西崎を疑った雨市が、ここに潜入するために宦官に〝化けた〟ってことなのかな。
わからないけど、もしもそうなら、わたしを助けるために来てくれたってことだよね。そうだったら、めちゃくちゃ嬉しい! つうかもう!
「好きです!」
思いあまって叫んでみたものの、違うかもしれないんだからぬか喜びはしないでおこう。とにかく、わたしはわたしで逃げる方法を考えないとね……って、そうだ!
「アレが使えるんじゃないのか? 雨市がトンネルの壁に、なんか書いてドンて叩いてたアレが!」
なんだったっけ……梵字? 詳細な形はまるきり思い出せないけど、こうなったらニュアンスで、下駄のつま先で床に書いてやれ!
「にゅるってしてて、しゅってなってたのが……五文字くらいで」
下駄でなぞり、床をドンと踏みしめてみたものの、なにも起こらない。だよね、知ってた。よし、もっと現実的なところから攻めよう。
「うう……とにかく縄を解きたい……ってか、あっ!」
ひらめいた。積まれている木箱にハサミとか、刃物的ななにかがあるかもしれない。
壁に沿って積まれた木箱を、蹴ろうとして右足を上げたときだった。床を踏みしめる革靴の音が近づいて、ドアの前でピタリと止まる。それと同時に、一か八かの逃亡作戦がひらめいてしまった。
ドアを開けた人物に体当たりし、全速力で駆け出すというミッションだ。
そっとドアに近づき、壁を背中にして横に立つ。精神統一をするべく、まぶたを閉じて深呼吸をした。やがて鍵のはずされる音がたち、ドアが外側へと放たれる。
入って来たのは、西崎だった。横から飛び出したわたしは、西崎めがけて力一杯に体当たりをしてやった。西崎はよろめき、床に片膝をつく。その隙に駆け出そうとするわたしの袖を、はっしと握った西崎は、力まかせにそれを引っ張った。
両手を縄で縛られているために、バランスを崩したわたしはうしろに倒れ、床に尻餅をついてしまった。
立ち上がった西崎はすぐにドアを閉め、わたしの首に右手をかけると、床に押し付けた。
うっ……く、苦しい!……てか、ギブ! ギブ!
暴れるわたしの首を、西崎はぎゅうと締め上げた。
「様子を見に来てみれば……。まったく、困った人だ。おてんばな行動も、ほどほどにすることですね」
馬乗りになった西崎の顔が、めっちゃ近い。くそう、くっそう!
「覇甲という名の宦官になりすまし、ニセの筆をさらって行った男は、この敷地内にまだいるかもしれません。門から出て行く姿を、誰も目にしておりませんから」
――え。
「いま訪れている同じ名の宦官には、邸内でお待ちいただいているところです。いままで集めてきたニセの筆を渡さなければ、役所の聴取を受けるはめになる。役人になりすました男に盗まれたと伝えたところで、それは変わらないんですよ。聴取担当の宦官どもは、ニセの筆を回収している下っ端役人とはわけが違う。奴らはこちらの内面を探る魔術を操るのでね。私としては、なんとしても避けたいのです」
西崎は手をゆるめない。
「もしも役人になりすましたのが里下だとしたら、私は絶対に許さない」
そんなん……知るか! 酸欠のせいかなんなのか、わたしの視界がぼやけてきた。頭がぼうっとしてきて、どんどん意識が遠のいていく。
「……それにしても、あなたはとても興味深い。なんておいしそうな香りだ。そのうえ、まれに見る可憐さ。さすがの私も、久しぶりに執着を覚えますよ」
うっわああああああ、執着しないで欲しいし、顔が近すぎるし、薄い口がわたしの口につきそうだ! キモい! 衣心トラウマが再発してしまう――!!
「うっ……ぬうう」
うめき声をもらした直後、ドアがノックされた。指一本分の隙間を残して、西崎の顔がぴたりと止まった。
また、ドアが叩かれる。舌打ちをして顔を離した西崎は、わたしの首にかけた手の力を緩め、立ち上がった。
咳き込みながら、床をのたうちまわるわたしを尻目に、西崎がドアを開けた。立っていたのは、泥に汚れたシャツとズボン姿で、手ぬぐいをほっかむりした、ずいぶん腰の曲がったおじいちゃんだった。
「なんだ、佐々木。この離れには入るなと言ってあるはずだぞ」
「はあ。なんですけんども、旦那さまがお帰りになられまして、応接間の役所の方を見て、西崎さんを呼ばれておりまして。なんだか邸内の使用人も、宮田さんも富川さんも、ごっそりみなさんが見あたらないと言っておりまして、だもんで、草刈りをしておった庭師のわしに、ことづてをなすったわけでして。西崎さんの住まわれているこの離れに、わしが立ち寄った、というわけでしてごぜえます」
「……面倒ばかりだ」
ひとりごちた西崎は、わたしを一瞥すると廊下に出てドアを閉めた。ふたたび鍵がかけられ、二人分の靴音が遠ざかっていく。
「はあああああ……」
とりあえず助かった。なんかいろいろ危なかったけど、一刻も早く忘れたい。
庭師のおじいちゃんのおかげで、いろいろ判明した。どうやらハイコウになりすました男子によって、この敷地内にいる人間全員が振りまわされているらしい。
その男子が雨市なのかはまだ謎だけど、この隙にわたしはなんとしてでも、縄を解いて逃げないと。
立ち上がったわたしは、思いきり木箱を蹴った。崩れた木箱の蓋を、つま先で持ち上げようとした矢先、ドアがカチャカチャと鳴りはじめる。まるで針かなにかで、鍵穴をいじっているみたいな音だ。と、音が止まる。そして静かに、ドアが開いた。
「手こずったぜ。ハシさんなら目を瞑ってても開けるだろうにな」
帽子を深くかぶった、シャツにベストの雨市が、部屋へ足を踏み入れてわたしを見る。
「うっ……雨市氏……!」
感激で、いまにも泣きそうだ。にやっとした雨市は、ズボンのポケットに手を入れた。取り出したのは、折りたたみ式の短いナイフだ。
「アホなやつらが、楽しい宝探しをしてる隙に、帰るぞ」
わたしの背後にまわった雨市は、ナイフでざっくりと縄を切った。
「宝、探し?」
我慢できず、目に涙があふれてきた。やっと自由になった手で、とっさに涙を拭う。ドアに近づいた雨市は、廊下に視線を這わせながら言った。
「あちこちにニセの筆をばらまいてあんだよ。全部で二十九本。西崎たちが手に入れた筆だ。本物の役人を待たせてあるんだ、焦ってんだろうなあ。つっても、ちょうど空も暗くなってきたから、全部見つけるまでたんまり時間がかかるだろうよ」
雨市にくっついてわたしも部屋を出た。やっぱり、ハイコウになりすましていたのは、雨市だったのだ。
「だ、だけど、役所の人の着物とか、どうしたの? 顔とか、バレるじゃん」
窓のない離れの廊下は、薄闇にのまれていた。辺りを気にしながら、雨市は急勾配な階段を下りて行く。
「俺を誰だと思ってんだ? 役所の着物なんざ、何枚でも持ってんだよ。ちらっと肌を白くして、髪の毛をぴったり撫で付けて丸い眼鏡でもかけときゃ、あとは演技でどうにでもなる」
「それで、着替えたの?」
「着物の下にこいつを着てたのさ。洋装だらけの人間に、混じっといたほうがいいからな。あの着物は、裏手にある焼却炉ん中に突っ込んだ」
一階に下りると、廊下の先に玄関らしき扉が見えた。廊下を挟んだ左右には、ドアがずらりと並んでいて、その間にはご立派な調度品が飾られてあった。
玄関扉に手をかけた雨市は、とっさに動きを止める。すぐに扉からしりぞき、わたしの手を取るやいなや、廊下の奥に向かって駆け出した。
「え、え?」
「誰か来やがった」
背後を気にしながら、雨市は廊下の右手、一番奥のドアを開ける。壁一面が本棚になっている部屋だ。
ドアを閉めた雨市は、ぐいっとわたしの手を引っ張った。
「うおっ」
引っ張られた勢いで、雨市の胸にぶつかる。離れようとした寸前、雨市の両腕がわたしの背中にまわった。え、なにこれ。
「静かにしろ」
抱きしめられてる。わたし、雨市に抱きしめられてる!
自覚してしまった哀しさか、ありえないほど心臓が早鐘を打ちはじめた。
二度もフラれて完全に片想いのくせに、自分だけてんぱってることが情けない。情けなくて悔しくて、だけどちょっと嬉しいみたいな、わけのわからない複雑な気分がごっちゃになって、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていく。
「銭湯出たらおまえがいなくて、焦ったぜ」
かすかに聞き取れるほどの声で、雨市がささやいた。
「……遅くなって、悪かったな」
「に、西崎だって、すぐにわかったの?」
「あいつしかいねえだろ。おい……椿」
なんでだろ。雨市に名前を呼ばれると、胸の奥がじわっと熱くなるのは。
「……西崎に、なんか妙なことされてねえだろうな?」
あったといえばあったけど、とりあえず無事だったのだから、よしとしておこう。
「……う、うーん、いや、べつに」
もぞもぞと答えたとき、廊下を走る足音が聞こえた。なにもしゃべるなと言わんばかりに、雨市の腕の力が増す。同時に、わたしは思った。
――なんでこの人は、生きてないんだろ。
このまんまで、わたしの時代で生きてる人だったら、すごくいいのにな。例えば、先生なんかでさ。ああ、でもダメだな。ライバル増えそうだし、雨市好みの清楚な女子も、わたしの高校にはたくさんいるし。
いったん足音が遠ざかる。直後、わたしがいないと誰かが叫んだ。すでにここから逃げたと思っているのか、外を探せと誰かが言う。そこで声は途切れた。
「い……行った、みたいだね」
ほっとしたものの、雨市の腕の力はなぜか変わらない。むしろ強くなった気がした。すると、雨市はわたしの髪に、頬を埋めてささやいた。
「ああ……いい匂いがする。満開の、桜の匂いだ」
その声を耳にした瞬間、切なくて泣きたくなった。
片想い以上に超えられない壁が、わたしたちにはあるって、突きつけられた気がしたから。
生きているわたしに、生きていない雨市。いつかわたしが戻る世界と、地獄行きを待っている雨市の世界が違いすぎて、胸が痛くてたまらない。
でも、それでも、わたしは決めたのだ。
「う、雨市氏……あのさ」
ぐちゃぐちゃ考えてメソメソしてる時間があるなら、わたしだって雨市をぎゅっと抱きしめておきたいよ。このどさくさに紛れてね! だってこれも、いましかできないことなんだから。
意を決しておそるおそる、雨市の腕の下に手を伸ばし、背中にまわす。すると、はっとしたのか雨市の腕が、わたしの背中から離れてしまった。だけどわたしはかまわず、雨市を一瞬だけぎゅっとしてやった。
「雨市氏のお墓、どこにあんの」
「……な、んだって?」
「わたし、娑婆に戻ったら、雨市氏のお墓にいっぱい花とか飾るよ。あと、お菓子とかお酒とか、それから煙草も」
「なに言ってんだ?」
わたしの肩に手を置くと、ぐいっと身体を引き離した。
「……おい。なにがどうなって、そういう考えになんだよ?」
「娑婆に戻ったあかつきには、せめてお世話になった雨市氏の、お墓参りぐらいはしたいなあ……と。それにわたし、寺の娘だからね。ちょっとだけならお経も唱えられるんだ」
わたしの肩に手を置いたまま、目を見張った雨市はなにも言わない。と、わたしを見つめながら苦笑した。
「……墓なんかねえよ。罪人だぞ」
「えっ」
うっそ。わたしの老後までの楽しみが、唯一の恋の相手との接触場所が、ない!?
「な、なるほどですか……了解です。じゃあ、わたしが責任持って建てるよ。我が家の寺に」
形だけで中身空っぽの墓になるけど、ないよりはマシだ。自信を持って断言したわたしに、雨市は「ははっ」と吹き出した。
「……バカだな、おまえはよ」
つんとわたしの額を指で突き、そっぽを向くと、顔を隠すように帽子を深くかぶりなおした。
「そろそろよさそうだ。行くぞ」
そう言って、わたしに手を伸ばした。すうっと指先の伸びた美しい手を、わたしはしっかりと握り返す。そうしながら、廊下に出る前に告げた。
助けてくれて、ありがとう――と。