参ノ章
洋食、帝劇、夜の虎
其ノ27
本物の筆を持っているのは、絶対に西崎だ。証拠はないけど、そう思う。
わたしが〝生きている人間〟だから、娑婆へ戻るのを邪魔するために、西崎は筆を使ったのだと竹蔵は言った。竹蔵の推理にすぎないけど、わたしもそんな気がしてきた。
面倒くさいったらない。だけど、もっと面倒なことを、わたしは招いていたらしい。
めちゃくちゃ無自覚で。
「……あの、さ。わたしは戻るよ。なんとしてでも」
わたしのあごに指を添えて、つんと上向きにさせている竹蔵を、まっすぐに見返した。
竹蔵はにやりとする。うう……なまめかしく輝く眼差しが、美しいやら恐ろしいやら!
前にも感じたことだけど、竹蔵には隙がない。のらりくらりとしているように見えても、わたしが手出しをしようものなら、すぐにのされてしまうだろう。
なにしろ、殺し屋だったのだ。わたしがどうあがいても、敵う相手じゃない。だとすれば、説得するよりほかはない。できるかどうかは、まったく自信がないけども!
「……そうかい。まあ、いいさ。だったら」
言葉をきった竹蔵は、わたしのあごから手を離す。と、その手のひらを返すと、わたしに向かってなぜか差し出してきた。
「あんたの寿命を、半分おくれよ」
「——え。は?」
……なん、ですと?
「じゅ、寿命て……なにそれ」
「あんたの寿命を分けてくれりゃ、アタシは魔物になれるんだよ。そうすりゃ、あんたが娑婆へ戻ろうが、アタシはどこまでもくっついて行ける。どうだい?」
どうだい? いや、どうもこうも……ないですから!
「はあ? えええ!?」
ぎょっとするわたしに向かって、竹蔵はにんまりと笑んだ。
「さっきも言ったけど、アタシは閻魔の筆なんざ、そもそもどうだっていいんだよ。あんたを娑婆に戻すために、雨市とハシさんが手に入れようとしてるけど、それだってどうでもいいんだ。けど、あんたがアタシに寿命をくれるんなら、二人に協力してやってもいい。娑婆に戻ったあんたが寿命をまっとうするまで、アタシはくっついていられるからね。そうして一緒に、地獄へ堕ちんのさ」
笑みを消した竹蔵は、わたしを上目遣いにすると、眼差しを鋭くさせた。
「あんたも災難だねえ。アタシに本気で惚れられて」
なぜ、だ!?
なんで、どうしてこうなったんだろ。考えてもわかるわけもない。なにしろ、無自覚だったんだから。
でも、竹蔵の肩を揉んであげたことも、銀座で買い物したときに、贈るものを選んだことも、全部よかれと思ってやったことだ。そのことの全部が、竹蔵を惑わせることになったっていうんなら、もう自分じゃどうしようもない。
……ダメだ、これ。説得できる気がしない。だったらもう、しかたがない。
正座したまま、わたしは床に両手をついた。
土下座したところで、「はいわかりました」と、竹蔵があっさり納得するとは思えない。でも、いまはこの方法しか、思い浮かばないんだもの!
「竹蔵さん。こんなどーしよーもない娘っ子に惚れてくれて、ありがとうございますです。でも、魔物になるとか言わないでください。雨市氏とハシさんを手伝うとかそういうことは、竹蔵さんが決めていいことだと思うから、わたしは口を挟まないよ。とにかく」
わたしは床に額をくっつけ、深く土下座した。
「わたしは娑婆に帰るし、竹蔵さんを魔物にもしないからね。ってことで、いろいろ全部、すみませんでした!」
しん、と居間が静まった。張りつめた空気が、肌にひりひりと突き刺さってくる。と、突然、乾いた竹蔵の笑い声が、響き渡った。
「ハハッ!……武士みたいな娘だねえ。アタシに向かって骨のあること、するじゃないか。ますます気に入ったよ」
え……ええ? なんで? なんで裏目に出るのさ!
「悪いけど椿。アタシは他人の気持ちなんざ、そもそもどうだっていい人間なんだよ。じゃなきゃ、人なんか斬れないからね。アタシは自分のしたいようにする。とはいえ、あんたから寿命をもらうには、あんたの意思が必要だ。だから、アタシに惚れてくれなきゃ困るんだよ。まあいいさ、顔を上げな」
床をつく自分の手が、震えているのがわかる。ゆっくりと顔を上げると、立ち上がった竹蔵と目が合う。その表情は、ちっとも笑っていなかった。
「……俺は、狙った人間は必ず斬ってきたんだ。そのことを、せいぜい覚えておくんだな」
声音も口調も変えて、竹蔵は言った。性別不明な竹蔵の、たぶんこれが本性なのだ。
狙った獲物は逃さない。絶対に諦めない。そう言っているように思える。いや、間違いなくそう言ったんだ。わたしに向かって。
なんで、いつから? どのへんからそうなった?
正座したまま固まって、身動きができないでいたら、いきなり居間のドアが開いた。
「急いで戻ればやっぱりな。なにをしゃべってたのか、想像のつく絵面じゃねえか」
切羽詰まった静寂を、雨市の声がかき消した。あまりの安心感に、思わず泣きそうになってしまった。
立ち上がろうとしたら、足がしびれてよろめく。すると雨市がとっさに、よろめくわたしを支えてくれた。
着物姿で帽子をかぶっている雨市の顔を、まともに見られない。うつむいていると、雨市はわたしから離れて言った。
「明るいうちに銭湯、連れてってやる。手ぬぐい持って玄関で待ってろ」
「う、うん。わかった」
居間を出ようとしたときだ。テーブルの上の半紙に近づいた雨市は、「なんだこりゃ」とつぶやき、それを手にする。わたしと竹蔵を交互に見てから、思いきり苦笑した。だけど、その目はあきらかに笑ってない。
「……こいつはおまえの字じゃねえな、竹蔵。ってことは、椿の字か。にしても妙だなあ。なんでてめえの名前を、椿が書いてやがんだ? まるで、読み書きでも教えてもらってたみてぇじゃねえか」
……ん? そのとおりだと答えようとした矢先、雨市は半紙をテーブルに放った。
「なあ、竹蔵。おまえの部屋に積まれてる、小難しい本は誰が読んでんだ?」
えっ?
にやりとした竹蔵は、両袖に手を入れながら言い放った。
「俺が読んでるのさ、雨市」
竹蔵の声音と口調に、雨市はビクリと肩を上下させた。帽子を掴み、睨むようにしてわたしを振り返ると、廊下をしめすようにあごをしゃくった。
出て行けと言われた気がして、廊下に出てドアを閉める。その寸前、
「そうかよ、泉屋」
雨市の冷ややかな声音が聞こえて、わたしの背筋は凍ってしまった。
♨ ♨ ♨
竹蔵は読み書きできるらしい。騙された。
なんであんなしょうもない嘘をついたのかは、この際どうでもいい。
竹蔵に言われたことへの、対処方法が思いつかなくて、混乱しまくり泣きそうだ。
それに、わたしがここにいるせいで、雨市と竹蔵の仲もこじれまくってる。もともと仲良しじゃないみたいだけど、それでもうまくやっていたはずだ。
わたしがここに来るまでは。それなのに……。
「……めっちゃ……ヘコんできた」
「おや?」
階段の手すりを握って叫んだら、雨市と一緒に戻ったらしいハシさんが、自室から顔を出してこちらを見下ろした。
「あああ〜、ハシさん〜!」
ハシさんの安定感、半端ないよ! 癒される。マジで癒される!
「どういたしました?」
階段の途中で、気力が抜けた。涙があふれて止まらない。
竹蔵に、あんなことを言わせてしまった。この家の中をひっかきまわしてる。それが事実だ。
「どうしました、椿さん! おやおや、泣いてしまわれて!」
階段を下りたハシさんが、そばに立った。
「ズビバゼン、マジで! なんがもう、みんなに迷惑がげでで、自分に腹立づっで言うがっ」
ハシさんが、ハンカチを差し出してくれた。申しわけなく思いながら、そのハンカチで鼻をかむ。
「せ、洗濯してお返ししますっ」
「ほほほほ、ようござんすよ。どうかお気になさらずに。して、椿さん。どういたしました?」
「……いや、なんて言うかもう、自分に腹が立つって言うか……」
ぐずぐずしながら、なんとか答える。
無自覚で、竹蔵を翻弄していたっぽい。もしかしたら雨市にも、同じことをしてたのかもしれない。それって、きっと、自分のことしか頭になかったってことだ。
相手の気持ちを考えてるようで、実はちゃんと考えてなかった、みたいな。
わたしは竹蔵のこと、どう思ってるんだろう。
雨市のことを、どう思っているんだろう。
ごまかさないで、自分できちんと自覚しないと、態度だってあらためられない。
「……ハシさん。ていうか、師匠。あの、質問が」
「ほう。わたくしでよければ」
自分の気持ちがよくわからない。いや、答えはもう出ている気もする。ただ、向き合うのが怖いんだ。
「……誰かをその、好きかもってなったとするよね。だけど、相手はこっちを好きじゃないって場合は、すっきりするっていうか、まあいいかって、なるものなのかな」
おや、とハシさんは、背筋を正した。にっこりとすると、ちょっとだけ頬をぽっとさせて、ふふふと声をもらす。
「……そうですなあ。まあ、わたくしにも若い頃がありましたから、遠い記憶をひもときますと、すっきりもいたしませんし、まあいいかとも、なりませんでしたなあ」
「え」
照れくさいのか、ネクタイを指でいじりつつ、視線を落してハシさんは続ける。
「わたくしにも、慕う女性がおりました。身分が違いすぎまして、どうすることもできませんでしたが、本当に想っておりました。まあいいか、と何度も諦めようといたしましたが、妙なもので、そうしようとすればするほど、執着してしまうものでして。それが恋の恐ろしさでございましょう。ですから、まあいいかと諦められるような気持ちは、少々違うとわたくしは考えます。もちろん、人それぞれですから断言はできませんが、椿さんのおっしゃることは、そうですなあ……」
ふう、と息をついて、ハシさんはわたしを見た。
「誰かを想うご自分が好き、と言うことなのですな。若い頃にはよくあることです」
「誰かを好きな自分が、好き?」
繰り返してしまった。すると、ハシさんはしっかりとうなずく。
「さようでございます。誰かを本当に想うということは、なかなかにじゃじゃ馬な気持ちでございますよ。理性ではどうにもならない、それが恋でございます」
「じゃあ……ちゃんと恋的なものだってわかるには、どうすればいいんだろ」
「頭で考えすぎないことですな。そうして、確かめることでございます」
ハシさんは、胸に手をあてた。
「ここで」
その直後、居間のドアの開く音がした。見下ろすと、雨市がこちらを見上げていた。
「なにしてんだ。銭湯行くぞ」
「うっ……うん!」
ハシさんにお礼を告げて、部屋に入り手ぬぐいをつかむ。
雨市にコクったとき、これでいいやって、すっきりした。でも、あれはちゃんとした恋じゃなかったんだな。
だったら、いまのわたしは?
「本気で自覚しないと、竹蔵にだって失礼だよ」
自分に向き合う決意をして、部屋を出た。雨市はすでに玄関にいる。
階段を下りて、玄関で下駄を履いてから、ふと居間を振り返る。同時にドアが開き、竹蔵が姿を見せた。
組んだ腕を袖に入れた竹蔵は、射るような眼差しで、こちらをじっと見つめていた。
♨ ♨ ♨
「おまえは娑婆の人間だ。竹蔵に言われたことは、気にすんな。忘れろ」
銭湯までの明るい道のりを歩きながら、雨市は言った。
「竹蔵はちゃんと、読み書きできるぜ。騙されやがって」
「そうだったんだ。でもさ、役所の人が来たとき、名前は書けないとかって言ってたから」
「いつもだ。そうやって俺に書かせんだ。気の向かねえことは、なんにもしたくねえのさ。悪いヤツじゃねえけどな」
歩きながら、ちらりとわたしを横目にする。
「俺と一緒に牢にぶっ込まれてた野郎だ。ハシさんとは違ってクセはあるし、いいヤツでもねえってこった。安心してこっちが頼れば、足下すくってくる男だ。けど……しっかし、とうとう本性見せやがった」
つ、と足を止めて、雨市はわたしを視界に入れた。
「なあ、椿。必ず娑婆に帰してやる。あいつになにか言われても、絶対に乗っかるんじゃねえぞ」
わたしがハシさんとしゃべっていたとき、雨市は竹蔵となにを話していたんだろう。収拾のつかないほどもめていたとしたら、最悪だ。
しかもその中心にいるのは、わたしなんだから……って、またヘコんできた。
「……なんかほんと、すみません」
しょんぼりとうなだれると、雨市がクッと笑った。
「おまえになんの自覚もねえのは、わかってるさ」
袖から煙草を出し、くわえる。
「おまえの時代の娑婆には、あんなクセのある野郎も、そうそういねえだろうしな」
マッチをすって火をつけると、雨市は気持ちよさそうに煙を吐いた。
そんなふうに、気持ちよさそうに煙草を吸う男子も、わたしの身近にはいないよ。
そう、なにげなく思ったときだ。
「おまえがちゃんと娑婆に戻るまで、俺が守ってやる」
すごいことを言われて、思わず耳を疑ってしまった。
「……は?」
……そんな、守る、とか。
「え?」
守るとか、なにさ。そんなこと、はじめて言われたよ。だって、同じ高校の男子は、わたしを見るとおびえるのに。
わたしは誰かに守られるような、かわいらしい女子じゃないのに。
「い……いや、わたしは」
「おまえが強えのはわかってる。けどなあ、おまえの手に負えねえ野郎が、ココにはわんさかいるんだ。竹蔵もそうだし、いろんな意味でな」
また歩き出す。ひょうひょうとした顔で、煙草を吸いながら歩く雨市の隣にいると、なんだかほんとに、かわいい女子の気分になってきた。
男子を蹴ったりとかしない、普通にかわいい女子、みたいな。
ハシさんの言うとおり、雨市にコクる前のわたしは、雨市を好きだと思っている自分に、ただ浮かれてただけなんだろう。
だから、フラれてすっきり、終了できた。いまさらじっくり向き合って確かめて、雨市のいいところをいっぱい知ってしまったとしても、その先なんかない。
だって——雨市は、生きてない。
だけど、訊きたい。
今度はしっかりと、どんな答えでもいいから、ちゃんと確かめて向き合いたい。
「う……雨市、氏。あのさ」
声が震えてるぞ、わたし!
「あ?」
わたしが立ち止まると、くわえ煙草の雨市も立ち止まった。わたしはとっさにうつむく。二度目の今度は、雨市の顔が見られない。
「べ、べつにさ。わたしのこと、なんとも想ってない……んだよね?」
あのときと違う。全然違う。どうしてこんなに、心臓がバクバクするんだろ。
うつむいたまま、ぎゅっと目をつぶった。沈黙が長い。どうしたんだろうと、目を開けたとき、
「……だったら、どうすんだ」
「え」
ぐっと、息が詰まった。嘘だ。こんなの、予想外すぎる。
「想ってたら、どうすんだ」
びっくりして顔を上げると、雨市は無表情だった。
「おまえの寿命を俺に分ける、なんて、言い出すつもりじゃねえだろうな?」
竹蔵がわたしに言ったことを、雨市は知っていたらしい。と、雨市はすぐに表情を崩して、悪い冗談だと言いたげに口角を上げる。
煙草を捨てるとうつむき、吸い殻を下駄で押しつぶした。
「……なんとも、想っちゃいねえよ」
わたしの顔を見ることなく、そう答えた。
「さっさと風呂入って、帰るぞ」
背中を向けて、歩きはじめる。
「うん……そうだね」
雨市のうしろを、わたしは歩いた。雨市の背中を見ていると、胸がひりひりした。胸の奥の奥のほうが、苦しくなってしかたない。息もできないくらいだ。
……わかってしまった。ああ、どうしよう。わたし、ほんとにバカだな。
やっぱ、気づきたくなかったなあ……。
♨ ♨ ♨
無事、銭湯に着く。ぼうっとしたままお風呂に浸かり、きれいさっぱりになったのに、わたしの心は泥だらけだ。
二度も雨市に、フラレてしまった。困ったことに、前みたいにすっきりしないうえ、まったくスルーできないでいる。マズい、最悪だ、どうしよう……。
気づきたくなかったし、気づくべきじゃなかった。
できることなら、昨日の自分に戻したい。っていうかもういっそ、ごっそり全部巻き戻して、自分の部屋に筆があったところからやり直したいよ。無理だけど!
外に出ると、珍しく雨市がいない。着付けに慣れたせいか、フラれた衝撃のせいか、鴉の行水でわたしのほうが早かったみたいだ。
「……待とう」
そうひとりごちて、銭湯の前で腰を下ろそうとした矢先。
「あなたが椿さん、でしょうか?」
——へ?
いきなり背後で声がして、振り返る。グレーのスーツを着こなした、見知らぬ若い男子が立っていた。と、突然背後から、ハンカチで口と鼻を塞がれた。
暴れる余裕もないままに、つんとした異臭が鼻の奥を刺激する。
同時にわたしは、意識を失ったのだった。