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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ26

 居間のテーブルを前にして、竹蔵と並んで座る。筆に墨をつけて、半紙に竹蔵の名前を書いて見せると、
「へえ、きれいな字だ。ハシさん以上に達筆だねえ」
「字だけは自信あるんだ」
 写経のおかげだ。
「次は竹蔵さんの番だよ。これをお手本にして、書いてみて」
 泉屋竹之信と書かれた半紙を掲げて見せると、竹蔵は筆を持ちもせず、わたしを見つめたままゆったりと煙管を吹かしている。え、なに? 覚える気はないのか? そう突っ込もうとした矢先だ。
「……あんたが娑婆に戻っちまったら、さみしくなるねえ」
「え?」
「そりゃさ。アタシらは地獄に行くだけだし、どのみちあんたとは住む世界が違う。けど、あんたにはもう少し、ここにいて欲しいなあって、どうしても思っちまうもんだから」
 竹蔵の涼しげな瞳が、やけに艶っぽくてなまめかしい。色っぽいって、こういう女子のことを言うんだろうなと、思わずまじまじと見入ってしまった。いや、竹蔵は男子だけども。
「あんた、いくつだい?」
「十六歳、だけど?」
 そう答えると、竹蔵はなぜがにやっと笑う。
「嫁にいける年じゃないか。もう大人だ」
 嫁にいける年かもしれないけど、大人かどうかは微妙だ。なんとなく居心地の悪さを感じて、固形墨をこすり続けていると、煙管の煙が目の前をすうっと横切った。それはすぐに、はかなく消える。
 なんなのだ、この妙な空気は。そんで、竹蔵は字を覚える気があるのか、ないのか?
 訊ねようとして口を開けかけたとき、竹蔵はどこかすねた様子で言った。
「……あんたが娑婆に戻って、いつかどっかの馬の骨に嫁ぐって考えると、どうにもいけすかない気分になるね」
「は? いや、嫁に行くつもりはないんだけど。そんな馬の骨……ってか、相手もいないし」
「先のことなんざ、誰にもわかりゃしないんだ。あんたがくだらない男に惚れて、そいつの女になるなんて、アタシは納得いかないね。やれやれ、まいったもんだ。まさか死んでから、生きてる娘に惚れるとは思わなかったよ」
 ん? なんかいま、聞き捨てならない単語を耳にした気がする。いや、気がするってか、はっきり聞こえた。
 惚れるって、その相手の娘はわたしってこと、なのか? え、えええ!?
「えっ」
 〝え〟しか言えない。想定外すぎる竹蔵の言動にあ然としていると、竹蔵はずいっと、わたしに顔を寄せてきた。っていうか!
「字、字だよ、竹蔵さん! ほら、書きましょう。いますぐ書きはじめましょう!」
「せっかくあんたと二人きりだってのに、字なんて覚えていられるかい」
 なにそれ!
 思いきりのけぞると、固形墨から手が放れる。椅子から立ち上がろうとしたとき、竹蔵はテーブルに煙管を置いて、わたしの袖をつかんだ。
 もしかしてわたし、竹蔵に言い寄られてるっぽい? ってか、ぽいとかじゃなくて、これはもう疑う余地もない。完全そっちだ。
「た、竹蔵さんのことは、親切で優しい人だと思っているけれども、好きとかそういうことじゃないって言うか……」
「そんなつまんない断り方、するもんじゃないよ。もっと楽しんでから〝はい、さようなら〟って、態度でしめしな」
「うっ」
 そんな小粋な真似が、わたしにできるとお思いで?
 座ったまま椅子をずらして、竹蔵から遠ざかるも、袖がずいずいと引っ張られる。いっそ力任せに立ち上がってやれと、勢いをつけて袖を引く。でも、竹蔵の力にはかなわなかった。
 綱引き状態におちいって前のめりになり、竹蔵に突撃しそうになるも、間一髪で半回転し回避した。でも、その勢いでバランスを崩し、床の上にどしんと尻餅をついてしまった。
 起き上がるために、床に両手をついたものの、精神的な衝撃が強すぎる。四つん這いのまま、わたしは呆然としてうなだれた。
 なんで? なんで、こうなった?
「あらら。あんた、大丈夫かい」
 そばにしゃがんだ竹蔵が、右手を差し出してくれる。でも、その手を取ることはできない。もしも取ってしまったら、いろんな意味で最後な気がするから。
「だ、大丈夫っす。てか、あの……確認したいんだけど、わたし、竹蔵さんになんにもしてないよね? なんていうかその、惚れられるっぽい感じのこと」
 ずいぶん間を開けてから、のんびりとした語調で竹蔵は答えた。
「そうだねえ。惚れられるようなことを、あんたはなーんにも、しちゃいない、つもりなんだろうねえ。けどそれは、相手がどう受け取るかって部分なんじゃないかい? ようするにあんたは無意識で、いろいろやらかしちまってたってことだよ。アタシと」
 ……と?
「雨市にさ」
「————え」
 顔を上げると、竹蔵はちらりとも笑っていなかった。静かなのに、やけに鋭い視線が痛い。
「最初は珍しくて面白がってただけだよ。アタシも雨市もね。けど、あんたは美人なくせに、それをちっとも鼻にかけない。しゃべり方も行動もヘンだけど、譲れないところはちゃんと持ってる。きっとあんたは、芯の強い娘なんだろう。そういう娘が、アタシは好きなんだよ」
 しんじ本気だ、と思った。竹蔵は本気で、わたしに向かってる。冗談なんかじゃすまない事態だ。なんて答えたらいいのかわからないやら、なんだか怖いやらで、頭が混乱してくる。
「……で、でも。雨市氏は違うと思う。わたし、フラれたし、雨市氏の好みとかじゃないから」
 声が震える。竹蔵はきらりと目を光らせた。
「フラれた? なんだい、それ。いつの間にそんなことになってたんだい」
 強い語調で訊かれ、わたしはごくりとつばを飲み、正座する。そうしてから、ことのいきさつを簡単に伝えた。すると突然、竹蔵は乾いた笑い声を上げた。
「はははははは! ああ、おかしい。そいつはいいねえ、あんたは本当に面白い娘だ。そりゃ頭にきて意地にもなるさ!」
「え……え?」
「ああ、楽しい。詐欺師を詐欺にひっかけたみたいに、なっちまってるじゃないか。笑えるねえ、たいしたもんだ! なるほどね、それであの男は、宣戦布告みたいなことをアタシに言ったわけだ」
 腕を組んで袖に手を入れた竹蔵は、愉快そうに肩を揺らす。
「あんたは無意識だろうけど、〝好きでした〟だなんて、過去形で言われてみな。たいがいの男は、じゃあいまは違うのかって、気になりはじめるもんなんだよ。それまでなーんとも、思っちゃいなくてもさ。そのうえ、自尊心が高ければ意地になる。意地になってるうちに、ホントに惚れちまうのさ」
 そうなのか? わからない。でも竹蔵が言うんだから、きっとそうなんだろう。
「雨市は女と遊ぶとき、素の自分を絶対見せない男なんだよ。そのほうが相手の女と距離ができるからね。けど、あんたは別だ。最初っから素を見られてる。いまさら恰好つけるわけにもいかない。そりゃ、困ってるだろうねえ。こりゃ見物だ。けど、そうかい……」
 すっくと立った竹蔵は、わたしを見下ろした。
「で? いまはどうなんだい」
「どうって?」
「雨市のことだよ」
 どう、なんだろう。昨日の雨市との一件が、とっさに頭の中を過っていく。わからない。いや、きっとわたしは、わかりたくないんだ。答えられずにうつむく。
「まあ、いいさ。あんたの気持ちなんか、どうだっていい」
「え」
 窓から日射しが射し込んで、竹蔵の影がわたしに落ちた。ただでさえ背の高い竹蔵が、床に正座したわたしの前に立ちはだかると、異様な迫力に包まれる。
「正直なハナシ、アタシは閻魔の筆なんざ、どうでもいいんだよ。しょせんは暇つぶしだ。見つかろうが無くなろうがどうでもいい。永遠にこの世界に留まるはめになったって、それがなんだい。筆が見つかって裁判がはじまって、地獄に行くはめになろうが関係ないね。もうすでに、地獄はたっぷり見てきたんだ。アタシには、怖いものも守るものもなんにもない。雨市とは違う」
 雨市が守ってるものって、セツさんのことだ。
「それに、本物の筆を誰が持ってるのかなんて、考えなくったって予想はつく。あんただって、うすうす勘づいてるんじゃないのかい?」
 たぶん、西崎だ。そう思う。小さくうなずくと、竹蔵が続けた。
「西崎が筆を持っているとしたら、どうしていきなり銀座の真ん中で、筆を使ったんだろうねえ?」
「それは……?」
 竹蔵はわたしを見下ろしながら、意味ありげに目を細めた。
「さっきの覇甲しかり、役所の宦官はアホばっかりだ。ハシさんが夜な夜な役所に潜り込んで、あれこれ調べてるのだって、宦官どもは知らなくても、西崎の手下は知ってるさ。それでもなにも仕掛けてこなかったのは、あんたがいなかったからだ」
 そう言われて、心底驚く。
「わたしが、いなかったから?」
「あんた、西崎に目をつけられてんだろ。そのうえ娑婆の人間だって、勘のいいあの男には、おそらくすっかりバレちまってる。娑婆の人間がこの世界に足止めされる方法は、一つしかない。帰れる方法を、ハシさんに探らせないことだよ」
 わたしははっとした。
 筆を使えば、宦官たちは役所に缶詰状態になる。結果、ハシさんは役所に潜入できなくなったのだ。もちろん、ハシさんを師匠とあおぐ、わたしも。
 でも、そうなのか?
 本当に、西崎の仕業なんだろうか。わたしを娑婆に帰さないために、筆を使ったんだろうか。そうだとしたら——。
「——あんたがこの世界を、ひっかきまわしてる」
 竹蔵に代弁された。
「あんたを拾ったのが、雨市でよかったと思うんだね。そうでなきゃいまごろは、あんたの魂喰われちまってるさ。悪人罪人の、死人どもに」
 ゾッとした。さあっと血の気が引いて、正座をしたまま動けなくなる。竹蔵の言うとおりだ。あのトンネルの中で、雨市も似たようなことをわたしに言ったんだから。
 ——狼の中に、羊が一匹。
「喰われた肉体は、そいつに乗っ取られちまう。そのまま閻魔に会いに行けば、手下になれる。あの世とこの世を行き来する、生きた人間になれんのさ。そんなおいしそうな娘を、西崎が放っておくわけがない。あんたを娑婆に戻さないために、筆を使ったんだろう。まあ、それにさ……」
 竹蔵がまたしゃがむ。と、動けないわたしのあごに、その指がつんと触れた。
「……雨市には悪いけど、アタシもそれでいいと、思ってんだよねえ」
 ——え。

 

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