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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ25

 まったく眠れなかった……。
 翌朝。のっそりとベッドから起き上がったものの、頭を抱えて身もだえた。
 昨夜、自分のせいで雨市と竹蔵がもめた。自覚はなかったけど、雨市が言っていたからそうなんだと思う。結局、険悪な雰囲気のままなし崩し的に解散となり、事態はなにも解決していない。
 娑婆の娘を珍しがって、取り合うなんてどうかしてると思わないでもない。でも、わたしに対してラブい感情がないにせよ、一致団結しなくてはいけない状況にあって、この感じはよろしくない。なんとかしないと……と思い返していて、すごい場面が頭の中に蘇ってしまった。
「うっ……!」
 冷静になって、いまさらわかる。抱くってつまり、R指定のそういう意味だ。なのにその方向はまるきり頭になくて、ハグ系だと思い込んでしまった。相手が雨市だったから大人の対応でことなきを得たけれども、これがべつの相手なら、リング上の戦いのごとき血みどろの結末を迎えていたかもなのだ。だけど、あれ?
「わたし、なんで雨市を殴んなかったんだろ」
 指一本のすき間であわやキス、みたいな場面で、どうして目を閉じたんだろ。それって、そうされてもいいやって思ったから、とか? 瞬間、ボッと顔に熱が走った。
「ない! ないわ、ないない、それはない!」
 いまさら心臓が、バクバクしてきた。うそだ、どうしよう。フラれてすっきりしたはずじゃん。なのになんだか、胸の奥に押し込んでたものが、じわじわ表に出ようとしてるこの感じは、なんなのだ。恐ろしい……気づきたくない!
「う……おおお……ダメだ、忘れよう。それがいい」
 今度こそ手に負えなくなって、取り返しがつかなくなる予感がする。それよりも、いまはとにかく、二人がもめないように振る舞うのが先決だ。って言ってもな……。
「どっちにも平等に、接する感じがいいのかな」
 いままでだってそのつもりだったのに、どうしたらいいのかわからない。ため息をつきながら、竹蔵が借りてくれた着物を手に取る。カフェーには行けなくなったけど、せっかくだからそれに着替えることにした。雨市のハンカチを洗って返すために、簞笥の上のそれをつかんで部屋を出る。
 しっかりしないと。これ以上もめさせるわけにはいかないもんね。
 ふんっと鼻息を荒くさせて居間に行くと、誰もいなかった。時計の針は九時を過ぎている。グダグダと悩んでいるうちに、こんな時間になってしまった。
 ひとり分の朝食が、テーブルにある。ああ、手伝えなかったことをハシさんに謝らないと。
 ひとまず「ごめんなさい、いただきます」と心の中で謝罪しつつ、ぺろりと平らげてしまった。こんなときでも思いきり食べられる自分に、ほとほと呆れた。
 台所で茶碗を洗う。雨市のハンカチを洗って干し、それから廊下をほうきで掃いて、バケツに水を汲み、ぞうきんを絞る。廊下をダダダと拭き、あちこちをピカピカにしていたら、少し気分がすっきりしてきた。
 雨市のことも竹蔵のことも、ハシさんのことも嫌いじゃない。むしろ好きだ。でもそれは、友達みたいな感じに近いと思う。いや、そうなのか?
 約一名だけは、違うんじゃないのか……。
「……とかは、考えないよ! 同じ、同じだからね!」
 誰もいないのにそう叫び、ぎゅうううとぞうきんを絞ったときだ。
 コツン、と玄関の引き戸が叩かれた。はっとして視線を向けると、磨りガラスの向こうに、ふわっとした人影がある。
 引き戸には鍵がかかっているから、三人のうちの誰かなら、鍵を開けて入ってくるはずだ。でも、そうじゃないってことは……。
 まさか、西崎じゃないよね?
「よし。無視だ」
 居留守を決め込んだのに、コツコツとまた叩いてくる。どことなく力ない音で、セツさんかもしれないと思いあたった。だけど、開けるべきかどうするべきか。しかめ面で思い悩みはじめた矢先、外から声がした。
「あ、のう~。すみません~。ご不在、でしょうか~?」
 聞き覚えのない透きとおった高音の声音で、いやにまのびした語調だ。あきらかにセツさんでも西崎でもない。
「あ、のう~。ご不在でしたら、このまま待たせていただきます~」
 いまにも倒れそうな、気弱な声だ。そのうちに「うっ……うっ」と、泣いているのか嗚咽をもらしはじめる。ええ? いったいどこの誰で、なんで泣いてんの?
 困った。声は子どもみたいだったし心配になって、ゆっくりと鍵をはずし、おそるおそる戸を開けた。同時に、その場にしゃがみ込んでいる人物と、目が合ってしまった。
「あっ……ああっ! ご在宅でしたか、よかったです~!」
 目を輝かせて立ち上がったのは、わたしよりも背の低い中学生くらいの女子……いや、男子? だった。
 真っ黒な着物に灰色の袴姿で、両手には大きな風呂敷包みを持っている。黒髪をおだんご状に結い上げており、ふっくらとした頬を紅潮させていた。
 かわいい。やっぱ女子かも?
「あの……どちらさまでしょーか?」
「役所から来ました~」
 えっ! ハシさんと潜入しようとしていた、役所の役人!? なんかいやな予感がする。
「も、申し訳ないですけれどもですね、わたしはただの居候でございまして、ここの住人は誰もいないので、このへんでっ!」
 とっさに戸を閉めようとしたものの、ガシッと役人は戸にしがみつき、叫んだ。
「せめて中でっ! 中で待たせて、休ませてください~!!」
 中学生くらいにしか見えないのに、力はいやに強かった。がっつり戸を開けて入って来た役人は、とたんに玄関でゆらりとよろめく。すると、風呂敷包みをドサリと落し、廊下に続く段差に両手をつき、そのままずるずると両膝をついてうなだれた。
「……うううっ。この仕事……もう辞めたい!」
 両手に顔を埋めるやいなや、背中を丸くさせてしくしくと泣き出す。その黒い着物の背中には、金糸で『冥』の文字が刺繍されていた。
「もうやだ。昨夜から朝まで徹夜で、上司は怖いし、僕のことを怒ってばかりなんです〜!!」
 僕って言った。やっぱ男子だ! しかも、こんなに小さいのに役所で働いているとか、びっくり。あ然としながら戸を閉めると、小柄な役人は声を震わせながら続けた。
「僕だって、一生懸命にやってるんですよ。なのに、次から次に文句を言って、みんなのいる前で僕を叱るんです。しまいには、三十二地区に異動させるぞって……!」
「は、はあ」
「そりゃああそこは温泉宿がいっぱいあるし、食べ物だっておいしいけど、落ちこぼれだらけの三十二地区になんかに行きたくないです。行ったら鬼の恰好をして、筋肉馬鹿な極卒たちをまとめなくちゃいけないし、ただでさえ常夏なのに鬼の衣装なんか着ようものなら、僕は二日で干物になってしまいます~!!」
 さっぱりわからないけど、すごいストレスだってことだけは伝わった。
「そ、そうなんだ」
「そうなんです~! 本当は天界に行きたかったんです! 試験に落ちたことがいまでも悔やまれます~!!」
 顔を上げると目を大きくさせ、わたしに向かって指を二本立てた。
「あと二点、あと二点だったんです! 合格点まで!!」
「そ、そっか……」
 着物の袖で涙をぬぐった役人は、ぺったりと床に座り込んだ。
「……最近、ちょっとのことで泣きたい気持ちになるんです。地獄うつです」
 そう言って哀しげに微笑むと、おもむろに風呂敷の結び目を解きはじめる。中には大量の巻物がおさまっていた。
「突然すみませんでした。いろいろと思うところがあって、気持ちが高揚していたようです。やっと落ち着きました」
「そ……それは、よかった」
「はい。失礼いたしました」
 ぺこりと頭を下げる。
「い、いいえ。どういたしまして……で、ございます」
 つられてわたしも頭を下げる。役人は広げた巻物をひとつひとつ手に取りながら、今度はぼそぼそとつぶやく。
「これじゃない。これでもなくて、これは違った。どうしよう、どれだろう……あ、これだ!」
 手際が悪そうだと、失礼なことを思ってしまった直後、役人が巻物の紐を解く。ずるるると巻物を広げると、正座したまま読み上げた。
「ええっとう……こちらは、冥界日本区域第一区、東京支部、区域番号五の時代番号一、紛失物捜索登録者、享年二十二、里下雨市、及び享年二十三、泉屋竹之信のご住まい、ですね?」
 いきなりそう言われて、わたしは固まった。
「え」
 ……タケノシン、て誰? まさか、もしかして、竹蔵の本名?
「は、はあ……たぶんそうです、けども?」
 役人はうなずいて、続けた。
「あ、申し遅れました。僕は冥界日本区域第一区、東京支部、区域番号五の時代番号一役所、住民課、紛失物捜索部登録係の覇甲はいこうと申します」
 長い。肩書きが長すぎて覚えられない。でも、ハイコウって名前だけは覚えた。ちょうどそのとき、外から鍵のかかる音がした。一瞬の間をおいて、またカチリと音が鳴る。
「鍵をかけたのに、おかしいねえ」
 そう言って入って来たのは、竹蔵だった。わたしとハイコウを交互に見下ろし、ぎょっとする。
「おや。役所の人間が、なんの用だい」
 竹蔵を見上げたハイコウは、おどおどしながら返答した。
「ふ、筆の回収にまいりました〜」

 

♨ ♨ ♨


 竹蔵は、団子を買いに出かけていたらしい。 
 今朝、雨市とあみだくじをして、本日どちらが本物の筆の捜索に行くかを決めたのだそうだ。竹蔵が勝ち、雨市はハシさんと出かけたのだと教えられた。
「あんたと食べようと思って、買って来たんだよ。ほれ」
 玄関に立った竹蔵は、戸を閉めると葉にくるまれた団子をわたしに差し出す。ハイコウの相手は自分がすると告げ、わたしを奥に追いやった。
 台所にこもったわたしは、薄く開けた戸から玄関を盗み見る。
 玄関の段差に腰掛けた竹蔵は、床に正座しているハイコウに言った。
「ニセの筆は回収しないんだろ? あんたらが忙しいから、本物だけってハナシだったじゃないか」
「そ、そうなんですけども、閻魔大王さまの筆を何者かが使用したとの情報が、昨夜もたらされまして。ですので、ともかく、いままで集められたニセの筆ともども、すべて回収することとあいなった次第です」
 はあ、と竹蔵は息を吐く。
「……やれやれ、手際が悪いったらないねえ。だったらはじめから、そうしてりゃよかったじゃないか、ったく。ちょっと待ってな」
 腰を上げた竹蔵は、廊下に上がり自分の部屋に入った。ニセモノの筆は、わたしも一本持っている。台所を出て階段を上り、部屋に入って筆をつかんだ。こいつをネットで売るために、こんなおかしな目にあってしまったというのに、なにかそれすら水の泡か……とか思ったところで、しかたがない。
「ま、しょうがないか」
 人生は、予想のつかないことの連続なのだ。
 階段を下りると、竹蔵が大量の筆をハイコウに渡していた。
 わたしも筆を差し出す。ハイコウはそれらをじっくりと眺めて数えながら、一本一本風呂敷の中におさめていった。
「はい、三十五本。たしかに受け取りました。それではこちらに」
 もぞもぞと風呂敷をまさぐり、折りたたまれた書面と墨の入った小瓶を、段差に並べはじめる。
「署名をお願いいたします〜」
 廊下にしゃがんだ竹蔵は、顔をしかめた。
「悪いけど、アタシは読み書きできないんでね。自分の名前も満足に書けないんだよ。そういうのは、ここの家主の男がやってくれてたもんだからさ」
 家主の男とは、雨市のことだ。読み書きができないと言った竹蔵に、驚いてしまった。そんなわたしの反応に対して、ハイコウはびっくりすることもなく、こっくりとうなずく。
 小瓶と筆を風呂敷におさめると、今度は朱肉を取り出した。
「そのような方もいらっしゃいますので、であれば指紋印をお願いします」
「なんだかねえ。だから最初から、全部そうすりゃいいんだよ。役所ってのは、まったく」
 文句を言いながら、竹蔵は親指に朱肉をつけ、わたしには読めない漢字だらけの書面に押し付けた。その書面を折りたたんだハイコウは、風呂敷を結んで腰を上げる。そうした瞬間、またうなだれた。
「ああ~、戻りたくない~!」
 肩を落としたまま、失礼しましたと深く頭を下げ、ハイコウは去って行った。残されたわたしと竹蔵は、閉められた戸を見つめる。
「頼りない男だねえ」
「小さくてかわいいから、最初女の子かと思ったよ」
「役所の宦官は、みんなかわいらしいさ。男であって男じゃないからね」
「えっ、どういうこと?」
 訊けば、竹蔵はにやっとして、わたしを見た。
「去勢されてんだよ。みんな」
 それって、ペットとかにもする方向の……と納得し、口をすぼめる。これ以上は追求しないほうがいい気がする。
「で? 団子は食べたかい?」
「いや、まだだよ。お茶淹れて一緒に食べたほうがいいと思って」
 ふと目にした竹蔵の親指が、朱肉色に染まっていた。
「……竹蔵さん、文字読めないの?」
「仮名はなんとか読めるけど、漢字はさっぱりだ。学校に行ったこともないから、自分の名前すら書けないね。金勘定はできるけどさ」
「竹蔵さんの本名、聞いちゃったよ。いずみやたけのしん?」
「泉屋ってのは、宿の屋号だよ。親も知らないのに、竹之信なんて立派すぎる名前をつけられちまって、照れくさいだろ。だから、竹蔵って名乗ってんのさ」
「そっか」
 事情があるらしい。
 台所に行ってお茶を淹れ、団子を皿のせて盆に置く。今日着ている着物もだけど、竹蔵にはお世話になりっぱなしだ。
 雨市やハシさんにもだけど、自分にできる範囲で、なにかお返ししたほうがいいような気がする。ちゃんとみんなに、平等に。
 盆を持って居間に行くと、竹蔵は親指をハンカチでぬぐっていた。わたしはテーブルに盆を置く。
 急須のお茶を茶碗にそそいで、竹蔵に差し出していたとき、思いついた。
「竹蔵さん、あのさ。もしよかったら、わたしが漢字教えようか」
 ぽかんとした顔で、竹蔵はわたしを見た。
「って言っても、全部ってわけにはいかないけど。せめて自分の名前くらい、書けるようになったらいいかもと思って」
 竹蔵は嬉しそうに笑った。
「教えてくれんのかい?」
「うん。わたしはあんま頭よくないけど、竹蔵さんの名前なら大丈夫だと思う」
 雨市やハシさんを手伝いたいのはやまやまだけど、結局この世界の住人にはなりきれないのだ。それなら家にいても、自分にできることをしたいもんね。
 もちろん、みんなの迷惑にならないようなことで。
 こんなふうに考えることができるなんて、自分でもびっくりだ。なんか成長してるな、わたし。
「へえ。じゃあ、あんたがアタシに手取り足取り、教えてくれんだね?」
 竹蔵が妖艶に笑む。ってか、手取り足取り? 手は取るかもだけど、足は取らないぞ? なにかおかしいけど、言葉のあやってやつかな。たぶんそれだ。
「ま、まあ……そうだね?」
「そいつはいいねえ」
 茶碗を口に寄せた竹蔵は、意味深な眼差しでわたしを見つめた。
「やっとあんたと、二人っきりだ」

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