top of page
cider_logo.png

参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ24

 どうする? と雨市が訊く。
 雨市に腕をつかまれたまま、わたしは視線をそらして考える。
 抱かれる→抱き合う→って図式だと、わたしの脳内にはスポーツマンシップにのっとった、勝利に歓喜するサッカー選手だとか、野球選手たちの絵しか浮かばない。
「それ、ハグ系?」
「……剥ぐ?」
 困惑気味な声音で、雨市は繰り返す。
「うん。あ、ハグってのは、抱き合うってことだからね」
「まんまじゃねえか」
 至近距離の雨市は、端正な顔を探るようにしかめると、視線を落とす。
「……まあ、剥ぐけどな。俺が」
 ハグけどな? なにか日本語がおかしい気もしたけど、そういう方向で当たっているらしい。
 おまえが決めろと雨市はささやく。決めるもなにも、むしろはじめからそれをやるべきだったんじゃないのかと文句を言いたい。キッスまがいなことをするよりも、よっぽど簡単じゃん!
 だけどもしかすると、この時代はハグよりもちゅーのほうが簡単なのが常識なのかもしれない。いや、どうなんだ? 時代的な文化感が謎だからなんとも言えないけど、おそらくそうなんだろうな。
 雨市がわたしの腕を離した。枕元をまさぐって煙草を手にし、くわえるとマッチをすって火をつけた。
「俺はいいぜ、べつに。おまえ次第だ」
 ハグならまったく問題ない。どんと来いだ!
「よし、わかった。いますぐやってしまおう!」
 わたしはその場に正座して、両腕を広げて見せた。雨市は煙草を吸いながら、なぜか目を丸くしてぎょっとする。
「……やってしまおうって、やったことあんのか?」
 練習試合に挑む、ボクシングジムの先輩たちの姿が過った。勝った先輩と喜び合う抱擁は、めちゃくちゃ感動的だったよなあ。
「あるよ。あのさ、時代的な違いはわかんないけど、わたしの時代だとめっちゃカジュアル……ってか、ちゅーよか簡単なことだからね、これ」
 さあ、来い! いまだ両腕を広げているわたしを、雨市はけげんそうにじっと見つめてくる。
「……簡単って、すげえ時代だな。ホントかよ」
 雨市は身体をひねってわたしに背を向け、床にある灰皿に手を伸ばし、くすぶる吸い殻を消した。
「いままで気にしたこともなかったけど、おまえ、娑婆に付き合ってる男いんのか?」
 雨市まだ、わたしに背中を向けている。
「は? いや、そういうのはいないけどさ」
「イシンとかいう西崎そっくりの男は、そういうんじゃねえのか」
 そんなわけはない。
「おええ……マジでそれはない」
 広げている腕が疲れてきた。さっさと終わらせたいのに、なにをぐちぐち言ってるんだろ。
「……そんな男もいねえのに、やったことあるってなんだよ。つっても、どうも妙だな。俺に口づけされて殴っただろ」
「あれはいきなりだったし、初対面だったからだよ。それに繰り返すけど、こっちのほうが簡単だからね。わたしの時代的にはさ」
 雨市はぴたりと、動きを止めた。
「簡単ねえ……」
 向きなおった雨市は、うつむきながらのっそりと、おもむろに着物の襟元に右手を入れた。と、なぜかそれを、ぐっと下に広げて乱す。
「……言うじゃねえか」
 正座して小首を傾げるわたしを、雨市はにこりともせず上目遣いに見すえる。その眼差しはいやに険しくて、わたしは一瞬身構えた。
 なんか——違うんじゃないか、これ。と、察する間もなく、雨市が掛け布団を蹴る。
 両腕をつかまれて引っ張られ、まるで柔道の寝技みたいに、斜めに倒されてしまった——って?
 気づけば敷き布団の上だ。四つん這いの雨市が、おおいかぶさった。
「いいんだな」
 雨市の前髪が、わたしの額に触れる。てか、え? ちょっと待って。この体勢はあきらかにハグじゃない。
 顔を近づけた雨市の唇が、いまにもわたしの唇に触れそうになったところで、やっと悟った。全部まるごと、方向が違う!
「うおおおあっと! ハ、ハグってのは、英語で抱き合うってことなんだよ!」
「さっきも聞いたぞ。いいんじゃねえのか。意味は合ってるだろ」
 いや、違うから。全力で違うし!
「どうすんだよ。あと指一本分で、口づけだ」 
 心臓がハンパなく波打ってる。誤解から生まれたこの体勢に衝撃を受けすぎて、わたしは完璧に固まった。どうすんだよと雨市は繰り返す。どうするもなにも、どうもこうもない。
「こ、こここれ、こういう方向じゃない! た、ただたんに、抱き合う感じだって思ったわけで!」
 雨市の形のいい唇が、目前で弓なりになった。
「……抱き合うのに、ただたんになんかねえだろ」
 いや、あるから!
「か、感激したときとか、男子も女子もそうするんだよ。わたしの時代の日本では。そ、そうやって喜ぶんだよ、それがハグ! て、てててっきりそれかと、思ったんだよ!」
 まぶたをぎゅうと閉じる。しばらくそうしていたら、ため息がわたしの頬にかかった。
「……やっぱりか。妙だと思ったぜ」 
 半笑いの声音だった。顔が離れた気配がして、ゆっくりとまぶたを開ける。雨市は四つん這いのまま、わたしの肩あたりに顔を埋めると、舌打ちした。
「……くそ。期待しちまった」
 苦しげにそうつぶやき、もぞりと頭を動かした。雨市の髪が首のあたりで動いて、くすぐったい。
「いま離れてやるから、ちょっと待て」
 よ、よかった。誤解は無事に解けたらしい。はあ、と安堵の息を吐いて、しばらく待つ。だけど雨市はまったく離れず、顔を埋めたまま動かない。
「ど、うしたの?」
「くだらねえこと考えて、理性を呼び戻してんだよ」
「え。くだらねえこと……?」
「……通りすがりのじじいのカツラが、風に飛ばされるところとかな。盛りのついたサルじゃねんだ。嫌がる娘に無理強いするわけにもいかねえだろ……」
 ぐっと起き上がった雨市は、膝に手をついて腰を上げる。そうしてから、いまだ横たわるわたしを、苦笑交じりに見下ろした。
「ほらよ」
 差し伸べられた左手を握ると、引っ張られた。呆然となりながら、わたしは上半身を起こす。雨市はなにごともなかったかのように、布団の上に転がる茶碗を拾った。
「部屋に戻って、寝ろ」
 枕元にある煙草と灰皿を片手でつかむと、わたしに背を向けてテーブルに向かって行く。
「……なんか、起こしてごめん」
「いいさ。どっちにしろ眠れなかったからな。にしても、おまえはまあ……」
 茶碗と灰皿をテーブルに置き、椅子を引いて座った雨市は、どことなく肩を落とした様子で、うつむいたまま煙草をくわえた。
「すっかりその気になっちまった」
 マッチをすって火をつける。前髪をかき上げながら、にやっと笑って煙を吐く。
「西崎を気にすんのはわかるぜ。けど、この家ん中にいれば、あいつは近づいて来ねえよ」
「そ……そうだけど。でも、その。ハシさんに聞いちゃったからさ。なんて言うか、筆のこととか閻魔大王に直談判とかって……」
「おまえはすっかり、ハシさんと仲良しだな。それがどうした?」
 わたしは顔を上げて、椅子に座る雨市を見た。
「セツさんの極楽行きの賞金を、わたしが娑婆に戻るためとかにしないで欲しいっていうか……」
 雨市は無言で、わたしを見返す。それから目を伏せ、テーブルに右肘をつけると、煙草を指に挟んだ。すうっと流れる紫煙が居間に漂う。
「……で?」
「で、だからさ。本物の筆を手に入れるために、みんなが動いている間、自分だけ家でじっとしてるとかありえないじゃん。なんかできることとかあるんだったら、わたしだって手伝いたいし。そうするなら、西崎以外の人にも、娑婆の娘だってバレないほうがいいし、この世界の住人になりきっておいたほうが、いろいろいいよなって思って」
 テーブルに肘をついた雨市は、わたしに横顔を向けた恰好で、煙草を口に寄せながら静かに言った。
「……どうせ死んでんだ。俺もセツも、ここにいる全員がな。けど、おまえは生きてる。娑婆に戻って最後まで生きろ。俺が決めたことだし、竹蔵もハシさんも反対してない。まあ、その前に、本物の筆を手に入れるのが先決だけどな」
 ネットで売っても数万円か、下手をしたら数千円もしくは数百円の筆のせいで、筆を追いかけて雨市を追いかけて、ここに来てしまったのは自分だ。
 そのせいで、雨市がいままでしてきたことが、まるごと消えてなくなってしまうなんて納得できない。
 閻魔の手下になるのはいやだし、女官になるのも願い下げだ。だけど、セツさんが極楽へ行けないのは、もっといやだ。
「……ごめん」
 目頭が熱くなる。なにやってんだろ、わたし。こんな自分が情けなくて、我慢したのに堪えきれず、とうとう涙があふれてきた。
「なんだよ。泣いてんのか」
 恥ずかしくなって、速攻で手の甲で乱暴にぬぐう。うつむいて、ぐずぐずと涙をぬぐい続けていたら、雨市が椅子から立つ気配がした。ひたひたと素足が近づいて来て、そばにしゃがんだのがわかった。
「ツラ、見せろ」
「なんかホント、いっぱいごめん。迷惑ばっかかけてるし」
 ずずずと鼻水をすすって顔を上げると、雨市は着物の袖で、わたしの頬をぬぐってくれた。
「迷惑じゃねえって、言っただろうが」
「だけど、実際そうなっちゃってるじゃん。雨市氏の部屋占領してるし、わたしのせいで……てか西崎のせいだけど、清楚女子と会えない感じにもなってるし」
「清楚女子? 誰のことだよ」
 雨市の着物の袖からは、ほんのりとお香の匂いがした。それはわたしの家の匂い、母さんの写真が飾られた仏壇の匂い、父さんの袈裟の匂いだ。
「洋食屋さんにいた、おっさんと結婚してるあの女子だよ。雨市氏が好きな」
 袖を離した雨市と、目が合った。すると、雨市はぽかんと口を開ける。
「あ? なんでそうなるんだよ。べつにあいつに惚れちゃいねえぞ」
「えっ? いや、だって、微妙な空気流れてたし、惚れてる女子がいるって竹蔵さんに聞いてたし、そんで、だから、あの女子だろうなあってピンときたっていうか」
 竹蔵か、と雨市は舌打ちして続けた。
「あいつは他人をひっかきまわすのが好きなんだよ。あいつの言うことをいちいち信じてたら、バカを見るぞ」
「そうなの?」
 雨市はまた、苦笑する。でもさ。
「……なんにしても、わたしがここにいればいるほど、雨市氏はいままで会ってた女子に会えないわけだし、だから、早く娑婆に戻んないとって思ってたのに、あのでっかい虎のせいで、や」
 役所に潜入できなくなったと言いそうになって、とっさに口をすぼめる。雨市にはすでにバレてるかもだけど、まだ疑惑だ。自ら告げるわけにはいかない。
「と、ともかくさ。役所に入れなくなったってことも、ハシさんに聞いたし。そうなると、娑婆に戻る方法も調べられないってことじゃん? だったら、本物の筆見つけて閻魔大王に会って、それからなんとかするしかないってのもわかってるから、協力したいんだよ。その張本人なんだから」
 やっと涙が止まってきた。鼻をすすって涙をぬぐい、雨市を見る。すると、傘のネクタイピンを見たときみたいに、目が落ちそうなほど大きく見開いて、じっとわたしを見つめていた。なんだろ。
「な、なに?」
「おまえが早く戻りてえのは、俺の邪魔をしてるって思ってるからなのか?」
 まあ、そのとおりだ。小さくうなずくと、雨市はぼそりと言う。
「……わかってんのか?」
「え。わかってるって、なにが?」
「自分がかわいいことしゃべくってるって、わかってんのかって訊いてんだ」
 かわいいことを、しゃべくる?
 意味がわからず首を傾げようとした寸前、雨市の手が頬に触れた。その手はちょっと冷たくて、ひやっとした感触にビクつく。と、雨市の顔が、ゆっくりと近づいてきた。
「な、なにさ」
「しゃべんな」
 雨市の鼻先が、すぐ間近。時間を刻む時計の音が、静まり返った居間を包んでいく。
 なにしてんの。まるでキスしようとしてるみたいな——と、思いそうになった瞬間。
「ちょいとごめんよ」
 いきなりドアが開く。入って来たのは、竹蔵だった。すぐに雨市は、わたしの頬から手を離す。部屋に入った竹蔵は、奥の机まで歩いて、なぜか引き出しを開けはじめた。
「なんだよ」
「ちょいと忘れ物をしたもんでね。おや、ここでもない。ないねえ」
 腰を上げた雨市は、冷静になろうとしているかのように、ふうっと息をついて両手で顔を撫でた。
「嘘こくな。忘れ物なんかねえんだろ」
 竹蔵はこちらを見もせず、机の引き出しをばたばたと開け閉めし続ける。
「ちらっと帰ってみたら、誰かさんと誰かさんがしゃべくってる声が聞こえたもんでね。あんたばっかりズルいんだよ。アタシだって」
 竹蔵はわたしを見ると、すねたように唇を尖らせた。
「椿と遊びたいのにさ」
「遊んでる場合じゃねえだろ」
 竹蔵はむっとして、雨市を見た。
「あんたは遊んでるじゃないか。しかもこんな夜中に連れ込んで、椿に手を出したわけじゃないだろうね?」
「連れ込んだわけじゃねえよ。こいつが勝手に押しかけて来たんだ」 
 雨市がわたしを指す。竹蔵の視線がわたしにそそがれた。険悪な空気がいっきに流れる。また喧嘩になったら面倒だ。
「あ、あのですね……すぐにおいとまするんで、二人とも仲良くしましょうってことで!」
 立ち上がってそう言うと、二人は声を揃えた。
「べつにもともと、仲良しじゃねえよ」
「べつにもともと、仲良しじゃないさ」
「えっ。そうなんだ」
 娑婆時代、牢で意気投合したから一緒に暮らしているんでは……?
 竹蔵は雨市に対峙し、腕を組んだ。
「明日は一歩も、こっから動かないからね、アタシは」
「筆はどうするんだよ」
「あんたが探りな」
 なんでいきなり、喧嘩腰!?
「ち、ちょっと! 仲良しじゃなくてもしかたないけど、なんかもめるのは勘弁……!」
 猛獣をなだめる飼育係みたいに、両手を突き出して間に入る。すると雨市は、わたしを見すえて言い放った。
「おまえでもめてんだよ。頼むから、いい加減いろいろ気づけ」
 えっ——マジで!?

<<もどる 目次 続きを読む>>

bottom of page