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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ22

 帝劇は、優美な貴族の館みたいだった。
 そんな建物なんて見たことがないから、あごがはずれそうになるほど口をぽかんと開けてしまった。
「……すご。ってか、これ……」
 カガミちゃんのお母さんが好きな、『オペラ座の怪人』を思い出した。前に遊びに行ったとき、めちゃくちゃオススメされて観たものの、内容はまったく覚えてない。でも、やたらゴージャスだったのは記憶にある。なんかそれっぽい建物だ。
 帝劇からもれる灯りが、停車している馬車を照らす。その光景は、まるで映画の撮影みたいだった。
 驚いているわたしが面白いのか、雨市は苦笑しながら「来い」と先をうながす。それでも動けずにいると、わたしの手を取って引っ張った。
「なんか……すんごいね。こんなとこ、リアルにはじめて見た」
「その顔が見られて満足だ」
 雨市は嬉しそうに、目を細めた。わたしはうながされるまま、のろのろと歩みを進める。
 ホテルみたいなロビーに入ると、左右に鑑賞券の売り場がある。真正面には、二階の両開き扉まで続く大きな階段があり、その扉の前にはスーツ姿の男性が立って、鑑賞券を確認していた。
 上演されている演目の、モノクロ写真や絵のポスターが、額縁に入って壁に飾られているのが面白い。こっちに来てからびっくりしたことはいっぱいあるけど、横に並んだ日本語が、逆から読むかたちになってるのが不思議でしかたない。
「券買ってくるから、ここで待ってろ。うろうろすんなよ」
「うす!」
 うなずいて見せると、雨市は売り場に向かって行く。
 劇場の中は、お金持ちっぽい人たちで賑わっていた。着飾った姿で、みんなデパートの紙袋を持っていたり、煙草を吸ったり、飲み物を飲んだりしている。
 高い天井にはシャンデリア。絨毯は真っ赤で、目がちかちかしてきた。あんぐりと口を開けて、ぼうっとシャンデリアを見上げていると、やがて雨市が戻って来た。
「行くぞ」
「うす! あ、そんでさ、今日はなんていう劇やるの?」
「劇っつーか、歌劇だ」
 雨市は二階のポスターを指す。『椿姫』だった。

 

♨ ♨ ♨

 

 大階段を上がって券を見せる。両開き扉の向こうは、長く続く通路だった。華やかすぎる場所に圧倒されたせいか、無性にトイレに行きたくなってくる。横を歩く雨市を呼び止めて、トイレの場所を訊ねる。雨市をそこで待たせ、わたしは急いだ。
 足早に通路を過ぎて、角を曲がりトイレに入る。そうして無事に用を足し終えて、ほっと息をつきながら出たときだ。
 男性用のドアが開く。姿を見せたのは、なんと。
「……ほう。これはこれは」
 信じられないし信じたくないことに、自称イケメンそっくりの、西崎だった!
「うげっ!」
 ぎょっとして、速攻で背を向ける。同時に、着物の袖をぐいっと引っ張られた。
「そういえば、あなたのお名前を訊いておりませんでしたね。里下さんの、若くかわいらしい奥方様?」
 さらに袖を引っ張り、西崎は顔を近づけてきた。うお……おおおおお! このにやけ顔の近さってば、まるであの日のループじゃん! なにこの因果、ってかカルマ? 他人の空似ってやつかもだけど、娑婆にいる衣心の呪いとしか思えない。
 やだやだやだやだ。昼間にも会っていまもだなんて、お腹いっぱいすぎて吐きそうだ!
「……オ、オホホホ……な、名前なんぞ、どーでもようござんすでございましょう!?」
袖をつかむ西崎の手を、「ていっ」と縦にチョップしてやった。とっさに西崎は、手を引っ込める。そのすきをついて逃げようとした矢先、わたしの前に立ちはだかった西崎は、右腕を伸ばして狭い通路の壁に手をつき、こちらの動きを封じてしまった。
 くそう、西崎。たしかにしつっこい。このしつこさも、そっくりだ。間違いない。絶対にこいつは、衣心の先祖だ!
 またもや西崎は、わたしに顔を寄せてきた。うしろにのけぞるわたしの髪に、鼻を近づけた西崎は、にやけた表情を一変させた。
 けげんそうに眉をひそめ、たれ目を細める。そうしてわたしを、きつく見すえた。
「……かすかな、娑婆の香り」
 ゾクリと背筋に悪寒が走った。わたしが生きている人間だと、バレたらヤバいって雨市は言っていたはずだ。西崎はしつこいうえに、勘も働く気がする。これ以上こいつに追いかけられるのは、なんとしてでも避けたい。
 かわいらしい奥方とかなんとか言っていたから、そうじゃない本性を見せつければ、きっと幻滅して手出しはしてこないだろう。ええい……もういい。邪魔くさい!
 息を吸い込んだわたしは、西崎をにらんでいっきにまくしたてた。
「いますぐそこをどきやがれ。五、数えるうちにどかなかったら、あんたのそのにやけ顔を、二度と見られない顔にして……やんぜ!」 
 若干、雨市の口調が乗り移ってしまったけど、よしとしておこう。呆気にとられたのか西崎は、ぽかんとした顔で壁から手を離す。瞬間、西崎の身体をどつき、わたしは逃亡に成功した。
 角を曲がって通路に戻ると、雨市は壁に背を寄せて煙草を吸っていた。
「女の手洗いってのは、ホントに長えな」
 苦笑する雨市の腕を取って、わたしは通路を駆け出した。
「に、逃げよう!」
「なんだよ、どうした?」
「西崎がいた!」
「なんだって!?」
 声を荒らげた雨市は、わたしの手を逆に引っ張り、両開き扉の前で立ち止まる。射貫くような鋭い視線を、わたしに向けた。
「どこにだ?」
「お便所。そんで、娑婆の匂いがするっぽいみたいに言われた」
 雨市の表情がこわばった。
「もしかして、わたしが娑婆の生きてる人間だって、西崎にバレた?」
 シッ、と雨市は、自分の口にひとさし指を立てた。ちらりと背後を見やってから、わたしの手を握り通路を出た。同時に、わたしも一瞬だけ振り返る。
 通路の奥で立ちつくす西崎が、微動だにせずこちらを見ている姿が、あった。

 

♨ ♨ ♨


 歌劇を鑑賞することもなく、帝劇を出るはめになってしまった。観たかったのに、残念すぎる。それに。
「券、無駄になっちゃったね。ごめん」
「気にすんな」
 わたしの手を離さずに、雨市は通りを歩く。やがて、ため息まじりにぽつりと言った。
「……出歩くべきじゃなかったな」
「えっ? だけどさ、楽しかったよ。買い物も楽しかったし、歌劇は観られなかったけど、すんごい建物の中に入れたし」
 デパートの紙袋を持った雨市は、ふと足を止めた。その紙袋を、わたしは指す。
「ほら、それ。いろいろ買ったし、さっさと帰ろう。竹蔵さんはいないかもだけど、ハシさんは待ってると思うよ」
 そう、わたしの帰りを待っているはず。役所潜入のための見取り図と、わたしの変装道具一式と共にね!
「そうか。おまえは楽しかったんだな」
 わたしは大きくうなずいた。珍しいものだらけだった。
「うん。わたしは田舎者だからさ、デパ……じゃなくて百貨店ってだけでテンション上がるもんね。それになんかさ、外国みたいでいいもの見たって感じだよ。連れて来てくれて、ありがとう。ガチで楽しかった」
 くそう……西崎さえいなければ、もっと楽しめたのに!
 それにしても、と思いなおす。いま目にしている景色も、買った品物もすべて、ここにいる人たちの執着でできているってことなんだろうか。
 わたし以外の人は、みんな死んでいる。死んでいて、この地獄の入り口で、閻魔大王の裁判を待たされている。そう頭ではわかっていても、そんなふうにはどうしても思えない。
 だって、わたしの手を握る雨市の手からは、ちゃんと体温が感じられるから。だから、生きている人のように思えて、しかたがなくなる。と、一瞬だけ、雨市の手の力が強くなった。
 はっとして雨市を見た刹那、手が離れる。スーツのポケットから煙草を出す。くわえて、マッチで火をつけると、煙を吐きながら嘆息した。
「……もう出歩くのはやめだ。西崎は勘がいい。面倒くせえことにならねえうちに、さっさとおまえを娑婆に戻してやらねえとな」
 煙草を吸いながら、雨市は思案深げに歩きはじめた。雨市の持っている紙袋をなにげなく見ていて、ふとセツさんのことが頭を過った。
「あのさ。セツさんって近所に住んでるの? 一緒に住んでないんだね」
「あいつは自分の家族と住んでる」
「えっ? じゃあ、セツさんって結婚してたんだね。知らなかった」
 違う、と雨市は苦笑した。
「再婚したおふくろの相手、セツの親父と暮らしてる。家は玩具屋だ」
 じゃあ、雨市のお母さんもそこで、一緒に住んでいるんだろうか。そう訊ねようとしたわたしよりも早く、雨市は静かに続けた。
「おふくろはずいぶん昔に死んじまった。いまごろは裁判を終えて、たぶん極楽だろう。苦労した女だったからな」
「……そうなの?」
「三味線がうまくてな。俺を連れて、横浜の宿屋をあちこち流れて暮らしてた。俺は一発で混血だってわかるツラをしてたから、おふくろはよくからかわれてた。そのたびに〝恥ずかしいことなんてひとつもない〟って、おふくろは蹴散らすんだ」
 言葉をきった雨市は、吸い殻を地面に放り、靴底で押しつぶす。
「……俺を不憫に思ってたんだろう。それでも、相手の男のことを愚痴るなんてことはしなかった。相手は宿に泊まってた異国の男で、ひと晩の相手におふくろを選んだんだろ。それで、デキちまったのが俺だ」
 それで、雨の日の市場で生まれたのか。
「そのあとで、セツの父親に会ったってわけだ。玩具屋を商う優しい男だったけど、どうにも俺が気に入らねえってツラしてて、十五で家を飛び出した。あとはこのありさまだ」
 そう言って、にやっとする。でも、目の奥は少しだけさみしそうに見えた。
 雨市の過去について知ったのは、このときがはじめてだった。居候させてもらっていたのに、いままでちゃんと聞いたことがなかった。
 みんな、人生があったんだ。死んでいても、人生があったのだ。
「あのさ。わたしの母さんも、わたしが小さいときに死んじゃったんだ。だから、いまごろは、わたしの時代っぽい感じのここみたいなところに、いるのかも」
 雨市は目を見張って、息をのむ。
「いつも眠る前に、おっかない話してくれたんだ。お化けとか幽霊とか妖怪とか、そういうのが出てくるやつ。うちはお寺だから、恐怖倍増でさ。わたしが怖がると、にやにやして、嬉しそうにすんの。思えばヘンな母さんだったかも」
 会いてえか、と雨市が訊いた。ハシさんに答えたのと同じように、わたしは首を横に振った。
「うーん……会いたいけど、でもべつにいいや。娑婆に戻りたくなくなる気がするから」
 雨市は軽くうなずいた。
「そうだな」
 そう言って、照れくさそうに笑った。
「……くっだらねえこと、しゃべくっちまったぜ。忘れろ」
 通りに顔を向けた雨市が、タクシーを見つける。わたしの手をふたたび握り、足早に通りを渡る。
 漆黒の闇夜には、くっきりとした輪郭の巨大な満月が浮かんでいる。地獄の入り口の銀座を、たくさんの人たちが行き交っていた。その人波を避けながら、歩道に寄せられたタクシーにあと数歩で着くという距離になって——それは起きた。
 とろんとしたような生温い風が、ふと静止する。直後、上空をなにかが横切った気がして見上げる。大きな影が満月を隠し、闇に包まれた瞬間、あちこちで叫び声が上がった。
 ——え。
 大きな影が、前方の交差点にズシリと降り立つ。
 それは、大きな大きな虎だった。
 とぼしい灯りに照らされた虎は、デパートほどの大きさがある。墨絵から飛び出したかのようなモノクロで、四つ足で地面を踏みしめると尻尾を揺らし、牙をむいてごうっと吠えた。その声は、地面が揺れるほどだ。
 怒号と叫び声がこだまする。馬車の馬がいななく。雨市はわたしの手を強く握り、のどの奥から声を絞り出した。
「……筆、使いやがった」
 そう言うやいなや、わたしの手をつかんだまま駆け出した。
「えっ!? ふ、筆!?」
「知ってか知らずか、誰かが筆を使いやがった。本物の閻魔の筆だ。虎が飛んで来た方向に、そいつがいる!」
 じゃあ、あの虎はその筆から出たってこと!? とたんに、いつかのハシさんの言葉を思い出した。


 ──心醜き者の手にあれば、巨大な獣が筆の先より姿をあらわす、美しき者であれば、華やかなりし桜が散る、でございます。

 本物の筆は、墨をつけてなにかを描こうとすれば、半紙からはみ出して勝手に動きはじめる。それは宙を舞って、筆を手にした者の内面をあらわすのだ。
 雨市に手を引かれて走りながら、肩越しに振り返る。交差点にいた虎は吠え続け、獰猛な口からなんと、ごうっと漆黒の炎を吐き出した!
「うわあああ、うわあああああ!」
 その光景に気をとられ、履き慣れない下駄のせいでつんのめり、ぐいっと左足をひねって斜めに倒れてしまった。立ち止まった雨市は、とっさにしゃがんでわたしを抱き起こす。でも、わたしなんかにかまってる場合じゃない。
「雨市氏、行って、行って! 本物の筆持ってる人が、あっちに」
 前方を指す。
「いるかもなんでしょ? いいから、探して!」
 雨市はそちらを見ようともせず、抱き起こされたわたしの左足に、両手を添えた。
「ひねったな。立って、見せろ」
「い、いや、わたしは大丈夫だから。行っていいから!」
「うるせえ。黙って立って、足見せろ」
 人波がどんどん、帝劇の方向に流れていく。
 交差点にいる虎は、炎を吐き出してから身を低くし、闇夜に向かって飛び上がった。直後、霧のように輪郭をぼやけさせ、音もなく消え去った。
「き……消えた?」
 なんとか腰を上げて、立ち上がる。着物の裾を持ち上げると、そばにしゃがんだ雨市はわたしの足首をつかみ、軽くひねった。ちょっとだけ痛みが走ったものの、どうってことはない。
「全然大丈夫だから、早く探さないと逃げちゃうじゃん!」
「大丈夫、大丈夫って、そいつはおまえの口癖か?」
 慌てもせずに立ち上がった雨市は、胸ポケットのハンカチを指で抜いた。
「待ってろ」
 周囲を見まわしてから、通りに面した和菓子屋の看板が下がるドアへ近づき、なぜか入ってしまった。しばらくすると戻って来て、またわたしの足元にしゃがみ、足袋のボタンをひとつはずすと、足首にハンカチを巻いてくれた。
 ハンカチは濡れていて、ひんやりと冷たい。そのときになってはじめて、ハンカチを濡らすために、わざわざ和菓子屋に行ったのだと気づいた。
「……なんか、ごめん」
「違うだろ。そうじゃねえな」
 笑みを含んだ声音の雨市は、立っているわたしを見上げて苦笑する。
「ありがとう、だろ。なんで謝る?」
「いや、だってさ。わたしがへっぽこなことしなかったら、追いかけられたのに。ていうか、大丈夫っていったのに」
 いまのはきっと、すごいチャンスだったのだ。どこの誰がなんの目的で筆を使ったのかはわからないけど、その〝誰か〟をつきとめるのに、うってつけの機会だったはずだ。それなのに雨市は、追いかけなかった。
 怪我をしたわたしをここに残して、そうしなかった。
「こういうのは縁だ。すっ転んだおまえを放って、追いかけてどうするよ」
 そう言って立ち上がると、わたしに手を差し伸べる。
「まあ、いいさ。縁があれば、次もある。ほら、帰るぞ」
 のろのろとその手をつかんだら、なんだか妙な気持ちになった。
 フラれたばっかりですっきりしたはずなのに、どうにももやもやしてくる。このもやもやの意味がわからないから、またもやもやする。
 ただ、ほんの一瞬だけ、あの清楚女子のことを、ちょっとうらやましいとか思ってしまった。こんなのホント、どうかしてるよ。
 ──わたしは娑婆の生きてる女子だ。雨市とは世界が違う。
 こんなこと、コクったときにはちらりとも頭になかったはずなのに。いまさらどうして、こんなことを考えてるんだろ。
「……ありがとう」
 わたしが言うと、雨市は顔をくしゃりとさせて笑った。
「それでいい」
 なぜだか泣きたくなった。わたしと雨市にも、縁みたいなものがあるんだろうか。ハシさんや竹蔵やセツさんとも。わたしがここに来たことも。
 考えてみたところで、わからない。でも、わたしを置いて行かなかった雨市の笑顔が、あまりにも優しかったから、それが無性に嬉しくて、泣きそうになった。

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