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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ21

 午後、出かけるために家を出る。
 雨市がどんだけお金を持っているのかは謎だけど、裕福な部類に入るのは間違いない。
 昨日と同じく路面電車が走っている通りに出たため、てっきりそれに乗るんだとばかり思っていた。だけど雨市は、歩道に寄せられて停車しているレトロ調な車に近づくと、あっさり乗り込んでしまったのだ。
 車の周囲には人だかりができていて、雨市のあとにくっついて乗ると「おおおお」と声が上がった。
「たったの一マイルで四十銭だぞ。一升の米が買える」
「どこぞの金持ちだろ」
 などと、あちこちでささやかれた。それなのに、スーツに帽子という恰好の雨市は、気にするどころかしらっとして、黒い制服姿の運転手に告げた。
「銀座まで頼む」
 走り出した車の中で、わたしは考えた。四十銭で一升の米が買えるくらいってことは、二十一世紀に換算したらいくらぐらいなんだろ。一升って、たしか十合だったっけと、ハシさんと台所に立っていて学んだことを総動員させる。そんで十合って、たぶん一・五キロくらいだったはず。
 うーん、ややこしくなってきたけど、気になる。両手の指を使って数えよう。
 わたしの時代のお米は五キロで三千円くらいだから、一・五キロだと千円くらい? でもって、一マイルっておそらく一メーターってことだろうから、それが千円!?
 でも、そんな単純な物価基準じゃない感じもする。たぶん、この時代の人にとってはもっと高い感覚なんじゃないのかな。たとえば、倍の二千円とか。それに、銀座まで一メーターで着く距離じゃない。
 うわっ……めっちゃ高いじゃん。無駄金にもほどがあるよ!
「なんだよ」
 右隣の雨市は、腕を組んでわたしを見た。
「いや、これってすごいお高いんじゃないかと思って。昨日みたいに電車でいいのに」
 運転手を気にしながら伝えると、雨市はにやっとした。
「隠して貯めてた真っ黒な金がたんまり残ってるんだ。ここで使わなくてどうするよ、それに——」
 雨市も運転手を気にしてか、わたしの耳に唇を寄せてささやいた。
「——どうせ、死んでんだ」
 生きているときの詐欺で稼いだお金なのか。追求するのもいまさらだけど。
「……まあ、そうだけどさ。でも、なんで貯めてたの? いっそのことパアッと使えばよかったのに」
 訊けば、雨市は窓枠に手をかけて、わたしをちらりと一瞥してから、外の景色に視線を向けた。
「米国に行くつもりで貯めてただけだ。最後にする仕事でへたうっちまって、牢にぶっこまれた。なにもかもいまさらだ。おまえにとっちゃそんな俺の人生も、遠い昔の出来事だろ。ここには季節もあるし、時間もある。けど、それは幻みてえなもんだ。実際は全部止まっちまってる。前に進まない世界で年もとらず、俺たちはただこうして暮らしてんだ」
 閻魔の筆が閻魔に渡らず、裁判が長引けば長引くほど、永遠にこの世界に足止めをくらってしまう。それはそれで悪くなさそうに思えるのは、わたしが生きているからなんだろうか。
「ずっとこのまんまでいいやとか、思ったことないの?」
 雨市は苦笑した。
「ねえな。これぞまさに生き地獄ってやつだ。永遠に生き続けるなんざ、願い下げだぜ」
 突然、真剣な顔つきになった雨市は、わたしを見て続けた。
「椿。偉そうなことは言いたくねえけどな、生きてるうちになんでもいいから、好きなことして思いきり生きろ。明日が誰にでも平等に、訪れるわけじゃねえんだ。なにが起こるかわからねえ。そういうときに、後悔するような生き方だけはするな。俺みてえにな」
 そう言われて、びっくりする。
「え。……雨市氏、なんか後悔してんの?」
 雨市は自虐的な笑みを浮かべると、視線を落として口を閉ざした。

 

♨ ♨ ♨

 

 交差点でタクシーを降り、日の丸の旗が入り口にはためく建物に向かう。たくさんの人が、なぜか入り口に押し寄せていた。
「あっ、昨日見たとこだ」
「百貨店だ」
 ここって、デパートだったんだ。
 四階建ての高さのそれは、石の柱を基調にした超洋風の建物で、アーチ状の縦長の窓がつらなり、美術館みたいな存在感を放っている。
 わたしの住んでたまちには、当然ながらデパートはない。巨大スーパーはあるけれど、バスに乗って隣の御影町まで行かなくちゃいけない距離だ。
 田舎の高校生にとって、デパートなんて天国みたいな場所なのに、ここで売られている商品は二十一世紀じゃ手に入れられないものばかり。天国以上の価値がある気がする。
 色とりどりの着物に洋服。雑貨に化粧品の山。そのパッケージが、めちゃくちゃレトロでかわいい。
 なんていうか、わたしにとってはここ、マジで博物館だよ。しかも、手に取って眺められる博物館!
「面白いね!」
「はぐれんなよ」
 きょろきょろするわたしの右手を、雨市が取る。その手をさりげなく、自分の左腕に添えさせた。いきなりの紳士行為に驚いたものの、こんなふうにして歩いてるカップルが、かなりいる。そっか。こうやって歩くのが、この時代のスタンダードなんだな。
「雨市氏、なんか買いたいものがあって来たんだよね? なに買うの?」
「俺はなんにも欲しかねえよ」
「えっ!?」
 じゃあ、なんで来たのさ? だったらハシさん師匠との訓練に、この時間が費やせたのに……なんて言えない。やっぱりですか。やっぱりわたしの怪しげな行動を邪魔するための、これは策だったのに違いない。
 西崎の登場で忘れがちになってたけど、油断ならん、雨市!
「じ……じゃあ、まあ。眺めて帰ろう」
 わざわざ高いタクシー代を払ってまで、ここに来た意味が不明だ。軽くうなだれながらそう言うと、かわいらしいブローチだとか櫛だとか、小物入れなんかを売っている場所で、雨市はいきなり立ち止まった。
「なんで眺めて帰るんだよ。おまえの買い物に来たんだぞ。欲しい物くらい、なんかあんだろ」
「え、わたし? いやいやいやいや、べつにないし、わたしお金ないし。なんも買えないしさ」
 雨市はぽかんとした顔で、わたしを見る。
「……おまえには、一緒にいる俺が金を払うっていう考えがねえのか? なんのために一緒に来てんだ。湯水のように金をばらまくために、俺がここにいるんだぞ」
 なん……ですと!
 どうやら雨市は、わたしに買い物をして欲しいらしい。しかも、自分がお金を払うと言う。昨日もオムライスをご馳走になって、あげくタダで居候させてもらっているわけで、そんなことをされる覚えはまるでない。
 これもなにかの、企みか!?
「いっ、いやいや、それはムリムリ! だって、なんも返せないし」
 慌てるわたしを、雨市はじっと見つめてくる。なにか考えている様子で押し黙ってから、突然売り場に目を配った。と、軽く手を上げて店員を呼び、商品を指で示しはじめた。
「すみません。これと、あれ。それから、ああ、その巾着も。どれも包んでください」
 え、待って。それって全部女子用……ってか、もしかしてわたし用?
 洋服姿の店員の女性は、深々と頭を下げると、しめされた商品を手に取っていく。いや、ちょっと待った!
「ストップ! お姉さん、ちょと待ってください!」
 店員女子はけげんな顔をし、雨市は〝なにが気に入らねえんだ〟みたいな表情で眉をひそめた。まったく、困るったらない。頼むから、突っ走らないで!
「雨市氏、ちょと落ち着こう。ありがたいけど、わたしはなんもいらないよ。いっぱいお金あるかもだけどさ、ちゃんと有効に使わないと、福の神様に逃げられるって教えたいよ。貧乏人としては」
「なにに使うか決めるのは俺だ。けど、ホントに不思議な娘だな。なにが気に入らねえんだ? 百貨店に入ったら、たいがいの女はなにかしら欲しがるもんだ。それがなんで、おまえに通じねえんだろうな。わけがわからねえよ」
 困惑顔で言われてしまった。なんでか雨市はどうしても、わたしに買い物をさせたいらしい。気持ちはありがたいけど、なにひとつ返せるものがないんだから、ほいほい買い物をするわけにはいかない。でも、ここでこうしてグダグダしていても、らちがあかなそうだしな……。
 そうだ、いいことを思いついた。よし、有効に使わせてもらうよ!
「いいよ、わかった。じゃあ、ありがたく選ばせてもらうよ」
 まずは同じ売り場で、濃紺と紫色の、牡丹を象った柄の小さな財布と、水色と朱色の金魚が泳ぐ、かわいらしい柄の小銭入れを買ってもらった。
 別々に包んでもらってから、雨市の腕を引っ張って店内を歩く。やがて、紳士用の売り場を見つける。中に入ろうとした矢先、雨市に腕を引っ張られた。
「おい、ここでなにを買うんだよ」
「いいから、いいから。わたしの買い物だからね。ちょと黙って、ここで待ってて」
 入り口あたりに雨市を立たせてから、商品を品定めする。
 自分のセンスに自信はないけど、光沢のあるグレーのネクタイに目を奪われた。いいね、これは買っていただこう。
 それから、高価そうな銀色のネクタイピンだ。その細工がかなり気に入ってしまった。よし、これも決まりだ。
 ふふふ。にやにやしながら、店員男子にそれを包んでもらっている間、雨市は困惑顔で代金を支払った。
「買ったよ。ありがとう」
「……おう」
 包みを受け取って、売り場をあとにする。百貨店から出ようとしたとき、雨市が言った。
「で? いまのは誰に買ったんだ」
「全部自分に買ったんだよ。そんで、劇を観に行くんだよね?」
 雨市は腑に落ちない表情で、小さくうなずいた。
 外に出ると、空はうっすらとした闇に包まれていた。例の不気味な巨大満月が、淡い輪郭で浮かんでいる。この光景にもすっかり慣れてしまった。
 百貨店から離れた歩道で立ち止まり、わたしは紙袋をまさぐる。そろそろ種明かしといこう。
「ってことでね、竹蔵さんには財布を買ったよ。小銭入れはセツさんにだからね。あと、ハシさんにネクタイで、それでこれは、はい」
 手のひらにのる小さな箱の包みを、雨市に差し出す。そのとたん、雨市は目を丸くした。
「なんだって?」
「ちゃんとわたしの買い物だよ。で、これは雨市氏にあげる。て言っても、払ったのは雨市氏だから、自分で買い物したと思えばいいじゃん」
 雨市は押し黙ってしまった。眉間に皺を寄せた顔で、包みをほどきはじめる。箱を開けたのと同時に皺は消え、大きな瞳をさらに見開いた。
「わたしはこういうの、よくわかんないんだけどさ。ちょっとかわいいなと思って」
 雨市がネクタイピンをつまんだ。その細工は、傘を象ったものだ。ピンの端に小さな傘がついていて、一目惚れしてしまった。ダサいといえばダサいのかもしれないけど、雨市にはこれしかないと思ってしまったのだから、しかたがない。
「傘、だな」
 見開かれた目を、眩しげに細めて雨市がつぶやく。
「うん。ちょとギャグってみました。あ、ギャグってのは……」
 ギャグも通じないんだろうか。なんて説明すればいいんだろ。まあ、いいか。
「ともかくさ、名前にひっかけてみた感じ。雨で傘みたいな?」
 いやー、我ながらなかなかのセンスだ。ドヤ顔で胸を張ったものの、雨市はどんどんと表情を険しくさせていく。もしかして、気に入ってないっぽい? このセンスにウケないとか、信じられない。それともわたしのセンスが、やっぱりイマイチってことなんだろうか。なんか不安になってきた。
 ドヤ顔を引っ込めると、雨市はピンを手のひらにのせたまま、わたしを静かに見つめて言う。
「……みんなに買って、おまえはなんにも買ってねえだろ」
「そうだけど、でもこれもわたしの買い物だよ。だからいいじゃん。てかさ、それ、もしかしてあんま気に入ってない感じ? 雨市氏オシャレさんだから、やっぱわたしのチョイスじゃダメだったか……」
 だったらいただいておいて、娑婆に戻ったら父さんにあげよう。でも、この世界が幻みたいなものだとしたら、こういう物はどうなるんだろ。娑婆に戻ったら、消えるんだろうか。それとも、あっちとこっちを行き来できてる筆のニセモノみたいに、ちゃんと持って帰れるのかな。ハシさん師匠に訊いてみないと、わかんないなこれ。
「じゃあさ、それ」
 ちょうだい、と手を差し伸べて言おうとした寸前、「まいったな」と言う雨市の声に遮られた。
「え?」
「なんでもねえよ」
 雨市はピンを丁寧に箱に入れると、スーツのポケットに入れてしまった。
「あれ? 気に入らないんじゃないの?」
「……んなこと言ってねえぞ。もらっとく。それ、よこせ」
「軽いから大丈夫だよ」
「いいから」
 紙袋を受け取った雨市は、わたしの歩幅にあわせながら横を歩き出す。昨日は半歩前を歩いていたのに、今日はぴったり隣にいる。ヘンな感じだ。
「……すっかり俺が、おまえに落とされちまった気がすんな」
 それは、聞こえるか聞こえないかくらいのひとりごとだった。だからわたしは、聞き返す。
「なに? いま、なんて言ったの」
「なんでもねえよ」
 そう言ってむっつりと黙り込んだ雨市は、しばらくして突然、今度はクスクスと笑い出した。雨市の言動がまるで読めない。なにごと!?
「なにさ。なにが面白いの」
「なんでもねえよ」
 楽しそうに肩を揺らして笑いながら、ふとわたしの腰に腕をまわす。昨日とは全然違う態度に戸惑うけど、これももしかして策かもしれないと気を引き締めた。
 そうだ。ハシさん師匠に弟子入りした、わたしの思惑を邪魔する策。こうして気をゆるませて、うっかりぽろりと告げてしまうことを、雨市は見越しているのかもしれない。
 ありうる。やっぱあなどれない。あなどれないぞ、雨市!

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