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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ19

 翌朝、ベッドで目覚めて起き上がる。本日のわたしも、忙しいのだ。
 今日は午後から雨市に連れられて、買い物に行かなければならない。そのあとは観劇だ。劇を鑑賞するだなんて人生ではじめてだから、正直かなり楽しみだ。でも、役所潜入へ向けての訓練をする時間が満足にとれないので、心境としては複雑でもある。
 うーん。ハシさん師匠に弟子入りし、役所潜入を手伝うというわたしの思惑は、いったいどこまで雨市にバレているんだろう。
 直接なにか言われてはいないからこそ、奴がなにを目論んでいるのか気がかりだ。
「とにかく、なにか言われても、しらばっくれる方向でいこう」
 ひとりごちつつ、着付けを完了させて部屋を出る。
 わたしの行動を怪しむ雨市が、わたしの行動の邪魔をするべく、策を練りはじめている気がする。ラブ的感情が終了したいま、雨市はわたしにとって、要注意人物ナンバーワンにランクインしてしまった。
 それにしても、昨日の捨て台詞がいやに気になる。〝落とす〟って、ホントに地獄に道連れってことなんだろうか。だとしたら、なんでそうなる? 娑婆に戻れるまで面倒見てやるとか言っていたはずなのに……と首を傾げながら階段を下りていて、はっとした。
 それってもしかして、ラブな意味の〝落とす〟なんでは……?
「……いや、それはない」
 ないな、ないわー。だって、昨日雨市は、自らわたしをフッたんだからそれはない。じゃあ、なんなのだ?
「わからない……雨市の思考って、めっちゃ謎」
 わからないことはわからないんだから、いくら考えたって無駄だ。いずれそのうちわかるだろう。それまでは、脳みそをあまり使わないようにしなければ。なにしろわたしには、この脳みそに詰め込まなくてはいけない必須項目が、ほかにあるんだから。
 そう。ハシさん師匠の技と、役所の見取り図だ!
 階段を下りきって台所に向かおうとしたとき、玄関の引き戸が開いた。朝日を背負った竹蔵が、あくび混じりで玄関に立つ。
「おや、椿。ちょうどいい、おいで」
 風呂敷包みを持っている竹蔵は、廊下に上がるとひらひらと手招きする。わたしが近づくと、包みを渡された。
「竹蔵さん、おはようです。てか、これなんですか?」
「着物だよ。ずっとおんなじ着物ってのも、辛いだろ?」
「え! わたしはおんなじでも全然気になんないけど、リリィさんが貸してくれたの?」
 そう訊ねると、竹蔵はにやっととしただけで答えない。もしかすると違う女子から、借りてくれたのかもしれない。
「なんかわざわざすんません。でも、ありがとう。汚さないようにするからね!」
 包みの結び目を軽く解く。あらわれたのは、白と黒の格子柄の着物だった。おおっ、これぞ大正浪漫ってやつか! 感激していると、竹蔵が笑った。
「約束しただろ? 今日、カフェーに連れてってやるよ」
「えっ」
 びっくりして竹蔵を見上げた直後、居間のドアが開いた。
「おう、竹蔵」
 眠たそうにあくびをした雨市は、着物の袖に両手を突っ込んだ恰好で廊下に立つと、袖から煙草を出してくわえた。
「聞こえたぞ。けど、今日はダメだ。俺が連れまわすからな。明日にしろ」
「おや」
 なにごとかと目を丸くした竹蔵は、わたしと雨市を交互に見る。マッチをすって煙草に火をつけた雨市は、煙をくゆらせながら続けた。
「竹蔵、この前俺が言ったことは撤回するからな。そいつは普通の娘じゃねえ。普通の娘のつもりでこっちがいろいろ思いやっても、そいつは自分勝手に答えを出しちまう。うすうすわかってはいたけどよ、想像以上に中身は男みてえな娘だってのが、昨日よーくわかった。だから、もしもおまえがそいつに惚れたんなら、おまえはおまえで好きにしろ。俺は俺で好きにする。あとはそいつが自分で決めるさ。で、だ。とにかく、今日はダメだ」
 わたしをまっすぐ見つめた雨市は、煙草をくわえてげっそりした顔つきになると、居間に入ってドアを閉めた。竹蔵はわたしを流し見るやいなや、片眉を上げていぶかしむ。
「……あんた、雨市になにかしたのかい?」
「え?」
「あんたは男みたいな性分の娘だとさ。そう思われるようなこと、したのかい?」
 コクったことが、それってことなのか……ってか、そっか! たぶんこの時代の女子は、男子にコクったりしないんだ。つまり、ギャップだよ。時代的なギャップのせいだ。それで昨日、雨市は腹を立てたのかも。きっとそうだ!
「ああ!」
 なんだよ、それならそう言ってくれたらよかったのに! でも、理由はわかった。なんかめっちゃすっきりした。と、わたしの持っている包みを、竹蔵はぽんとたたいた。
「まあいいさ。にしても、どうしたってんだろうねえ。わざわざあんなこと、言うような奴じゃないのに」
 背を向けた竹蔵は、自分の部屋のドアノブに手をかけた。
「宣戦布告されちまった、みたいな気がすんだけどねえ」
「宣戦布告……?」
 肩越しに振り返った竹蔵は、にんまりと唇を弓なりにさせた。
「面白くなってきたね」
 そう言って、ドアを閉めた。なにが起きているのかいまいち把握できないけど、二人の話題の中心に自分がいるような予感がしなくもない。でもそれって、つまりさ、娑婆の娘を面白がってるだけなんじゃないのかな。
 ようするにただたんに、珍しがられているだけなのだ。間違いなくそれが、二人の根本にある真実だと思う。
 まあね。わたしもここが珍しいし、おあいこだ。
 そしてわたしは二人のやりとりに、気を削いでいる場合じゃないのだ。わたしにはやらねばならない使命がある。だから、一秒も無駄にできない。
 ハシさん師匠との訓練をすぐにでもはじめなくては、師匠に一歩も追いつけない!
 風呂敷包みを部屋に置いてから、台所で朝食の用意をしているハシさんを手伝う。
 漬け物を切って皿に盛る。それから、土間の釜で米を炊くハシさんに近寄り「師匠」と静かに呼びかけた。ハシさんは神妙な面持ちで、うなずいた。
「はい、わかっております。さまざまに用意せねばならない物がございますが、それは本日これから、わたくしが手に入れておきましょう。それから、椿さんにはぜひとも、身に付けていただきたいことがございます」
 師匠の訓練が、はじまっている!
「はいっ!」
 ピッと背筋を伸ばして立つと、ハシさんが言った。
「沈黙、でございます」
「しゃべっちゃいけないってことだね?」
「さようでございます。なにやら本日、雨市さんとお出かけなさるということですから、その間にわたくしは、見取り図をしたためおきましょう。戻られましたら夜にでも、その見取り図とともに詳しくお伝えいたしますが、役所にはあちこちに、絵画やら彫像やらがあるのでございます。宦官たちが不在の深夜に、侵入者がちょっとでも声や物音を発すれば、それらが目覚める仕様となっております。壁に耳あり、障子に目あり、でございます」
「えっ!?」
 なにその、魔法ワールド! 超ウケる……とか、ワクワクしちゃダメだ。やっぱりここは、普通の世界じゃないんだな。
「それから書物は、暗号のような特殊な文字でつづられておりますからな。それを読み解くための魔術も必要でございます。五文字程度の梵字でございますが、一文字間違えばべつの魔術になってしまいますゆえ、失敗は許されません。ですから、それも覚えていただかなければ」
 わたしはゴクンとつばをのんだ。すごいことになってきた。
「わっかりました。了解です、師匠!」
 うむ、とハシさんは真剣な顔でうなずく。さすが師匠だ。時間をかけて、それらをひとりで調べあげたということだ。マジですごい。心から尊敬する。
 こそこそとした相談を終えてから、ハシさんと居間のテーブルに朝食を並べる。
 その朝、わたしがここに来てはじめて、四人で朝ご飯を食べた。しゃべることなく黙々と、誰もが箸を動かし咀嚼する。と、漬け物を箸でつまんだ竹蔵が、ふいにその静けさを破った。
「本物の筆を、盗んだ奴がいるってハナシだ。久々に安楽屋へ行ったら、吉野が教えてくれたんだよ。大柳の助平なじじいが、吉野の気を惹こうと思って、なにもかもしゃべくったんだろ。吉野はここがどういう場所なのか悟ってる、数少ない遊女だからね」
 テーブルを挟んで目の前にいる雨市は、みそ汁を口に運びながら、わたしの右隣に座る竹蔵を上目遣いにした。雨市の隣に座るハシさんが、竹蔵に問いかける。
「では、本物の筆を手に入れていたのは、大柳ということでございますかな? その大柳から、あろうことか筆を盗んだ者がいると?」
 そうだよと竹蔵が答えると、雨市は軽く舌打ちをした。
「やっぱり、大柳だったか」
「役所に届ける前に、屋敷に入られて盗まれたらしい。盗ったやつが誰なのかはわからないよ。けど、ここがどこかわかってる奴ってことはたしかだね。ついでに、死んでるってこともわかってる。本物の筆が閻魔の手に戻れば裁判がはじまるってんで、嫌になっちまって盗んだんだろ」
 竹蔵が言い終えると、雨市は思案するかのように視線を落とした。
「……盗んだのが誰か、調べなくちゃなんねえな」
 ず、とみそ汁を飲み干し、箸を置く。
 内容から察するに、閻魔の筆の本物は、すでにこの世界にあるらしい。しかもそれはニシザキのいる、大柳とかいう家の助平じじい(?)が持っていたものの、役所に届ける前に盗まれたってことのようだ。
 それにしても、大柳ってなんなんだろ。お金持ち?
「あの……ですね。わたしが訊くのもなんなんですけども、その大柳っていうのはセレブ……じゃなくて、お金持ちかなにか?」
 雨市は煙草に火をつける。すうっと煙を吐くと、答えた。
「財閥だ」
 へえ……って、それなに?

 

♨ ♨ ♨

 ハシさんは、弟子であるわたしとの潜入に向けて必要な物を入手すべく、出かけてしまった。竹蔵もまた出かけてしまい、残された雨市は居間にこもっている。
 わたしは茶碗を洗い終えてから、掃除をはじめた。階段をぞうきんで拭きながら、財閥なる存在について考えてみた。財閥って、たしか……。
「……まあ、お金持ちってことだよ」
 だよね。なんかそれだけはわかる。ていうか、もっと真面目に勉強しとけばよかった。マジで知識が足りなすぎる。うなだれつつぞうきんをバケツで絞っていると、居間のドアが開く。シャツを持った雨市があらわれて、縫い物はできるかと訊いてきた。
「うん、できるよ」
「あとでいいから、こいつの袖のボタンを付けてくれ。はずれちまった。道具は階段下の物置にある」
 お安いご用だ。シャツとはずれたボタンを手渡しながら、ふと雨市はわたしの帯を見下ろした。
「まーた、てきとうに結びやがって。ただの玉結びになっちまってるじゃねえか。そうじゃねえ、ちょっと見せろ」
 どうやら帯ではなくて、帯締めが気になっているみたいだ。慣れた手つきで帯締めに指を入れた雨市は、しゅるしゅるとそれをはずしてしまった。
「うわわ、なにさ!」
「脱がせるわけじゃねえよ。いいから黙ってろ。こうやって結ぶんだ」
 帯締めを軽く引っ張り、器用に結んでいく。そうしながら、雨市は帯締めから視線をそらさず、いきなり言った。
「昨日俺が言ったこと、どうせなんにもわかっちゃいねえんだろ? なに言ってんだこいつ、みてえなツラしてたからな」
 前髪から瞳をのぞかせて、わたしを上目遣いにすると小さく苦笑した。
 わたしは思わず、うっと息を止めてしまう。間近で雨市を見ると、たしかに女子がほっとかない顔だよなあとほとほと感心する。顔は素晴らしいぞ、雨市。フラれても、顔だけは認める!
「……う、うーん……まあ」
「おまえはホントに、どうしようもねえな。考えるだけこっちが疲れるぜ。どうせ俺の問題だ。いまさらおまえに、なんも期待しちゃいねえしな。よし、これでいい」
 ぐ、と紐の房を脇に押し込んで、指を離す。
「鉄壁みてえな場所に出くわすと、なんとしても崩したくなるって言ってた、ハシさんの気持ちがちょっとわかるぜ。たしかにな。おまえは鉄壁だ」
「え」
 雨市は腕を組んで、わたしをじっと見つめた。
「誰かに惚れて泣くおまえのツラが、見てみたくてたまらねえよ」
 しみじみとした口調で言われる。なにか突っ込んだほうがいいような気がして、口を薄く開こうとした寸前、玄関の引き戸がガラガラと開いた。
 雨市と同時に顔を向ける。焦げ茶色のスーツを着て、杖をつき、帽子をかぶった紳士が玄関に立つ。
 雨市はこれ以上ないほど大きく目を見開いた。その横顔が、恐ろしいほど険しくゆがむ。
「ごめんくださいませ。こちらは里下さまの家でございますな?」
 ハシさんぐらいの年齢だけど小太りで、身長は高くない。
 帽子を取った紳士は、雨市を見すえた。口には笑みを浮かべているのに、小さな瞳はあきらかに笑っていない。
「そうですよ。わかりきったことを確認するのが、本当にお好きですね。いまさらなんのご用ですか。僕にはなんの用事もないのですが」
 射るような眼差しを向けながら、雨市は口元を弓なりにさせた。と、いきなりわたしの腰に腕をまわし、ぐっと自分に引き寄せる。わたしの耳に口を寄せると、雨市は早口でささやいた。
「黙ってろよ」
 小太り紳士のうしろには、着物姿に坊主頭の、小学生くらいの男子がいる。引き戸に手をかけ、開け放ったまま外に立っている。
 門の外には、オープンカーみたいな黒塗りの車が停まっていて、黒いスーツに黒い帽子を深くかぶった男子が、ゆっくりと降りて来た。瞬間、雨市の腕に力がこもる。
 いったいなにが起きてるのか、シャツを抱えたまま様子をうかがっていると、車から降りた男子が歩いて来る。小太り紳士が言った。
「まあ、そうおっしゃらずに。昔馴染みのわがまま、というわけでしてね。これもご縁というもの。しばし確認させていただきたいことがございまして」
 小太り紳士が一歩しりぞく。入れ替わるようにして、車を降りた男子が玄関に立った。
 帽子を取る。瞬間、わたしは固まった。
 ——えっ、えええ! うっそ!
 その顔には、見覚えがあった。あまりのことに目を疑う。だって、だって!
 ——なんで!? なんであいつが、我が宿敵の村井衣心が、ここにいるのさ!!
口をあんぐりと開けすぎて、いまにもあごがはずれそうになったとき、黒いスーツの自称イケメンは告げた。
「西崎一夫と、申します」
 ————え。

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