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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ18

 家に戻ると竹蔵はやっぱり不在で、ハシさんは台所で茶碗を洗っていた。
 洗い終えたハシさんは、少々眠りますと告げて階段を上がって行く。少々眠るということは、仮眠をとるという意味だと察したわたしも、同じく一眠りするために階段に足をかけた。そのときだ。
「——椿」
 突然の雨市の声に、ぎょっとしてビクついてしまった。ここに戻るまでの間、ずっと黙りこくっていたくせに、いきなりなんなのだ。
 まさか、ハシさんを追いかけようとしているわたしの行動が、見破られたとか?
 ありうる。だって、家に戻るやいなや、わたしはハシさんを逃すまいと探しはじめたあげく、台所で発見して安堵の息をついてしまったのだ。そんなわたしの様子を雨市が見ていたのだとしたら、かなりマズい気がしてきた。
 うっかり忘れそうになるけれど、雨市は詐欺師だ。ということは、人間観察に長けているはず。
 ヤバいぞこれは……。ハシさんを追いかけるというミッションがバレたら、面倒くさいことになりかねない!
「な、なにさ」
 表情を硬くして振り返る。雨市は玄関に立ったまま、眉根を寄せてわたしを見ていた。
「いや、なんでもねえよ」
 恐ろしい、と思った。なんでもねえと言いながらも、獲物を見すえるかのような雨市の視線は、めちゃくちゃ鋭い。そんな眼差しで見られたのは、ここへ来てはじめてだ。
 もしかしてガチでわたしの思惑、全部バレている的な……?
 ゴクンとつばをのんで見返していると、靴を脱いだ雨市は廊下を歩き、居間のドアを開けて中に入る。そうしてそのまま、なにも言わずにドアを閉めた。
 どうしよう、雨市の言動がいまいち読めない。これはバレてないってことでいいんだろうか。わからない。
 階段に足をかけたまま、居間のドアを視界に入れつつしばらく待った。でも、雨市が出てくる気配はない。大丈夫だ。バレてないっぽい。
 急いで階段を上がり、部屋に入ってTシャツにジャージに着替え、速攻でベッドに潜った。
「気をつけて行動しないと!」
 ハシさん尾行&役所潜入ミッションを、雨市にバレないように動かなければ!

 

♨ ♨ ♨

 

 準備はととのった。
 深夜目覚めたわたしは、ろうそくを灯した部屋で手ぬぐいを頭に巻き、左隣のハシさんの部屋の物音を聞き逃さないよう、ピタリと壁に耳をあててじっとしていた。
 正直、こんな恰好でこんなことをしている自分が、女子として激しく間違っている気がしないでもないけど、そんなことを考えている場合じゃない。
 しばらくそうして微動だにせずにいると、かすかな物音がしてはっとする。
 すぐに壁から離れて、そっと部屋のドアノブを押した。細く開けたドアから廊下を見ると、暗い階段を下りようとしている黒ずくめのハシさんがいた。
 ——よし。尾行ミッション開始だ!
 そう心の中で叫んだのと同時に、階段の手すりに手をかけたハシさんが、ゆっくりと肩越しに振り返る。あっ、と思ったときには遅かった。
「……椿さんっ」
 呆気なく見つかってしまった。ちょっとの人の気配&視線にも違和感を覚えるとは、さすが泥棒。悔しいけれど、天晴れですよ、ハシさん!
「なにをしていらっしゃるのですかっ。ああ、いえいえ、聞きたくはございませんよ、わかっております」
 ドアの前に立ったハシさんは、はあと深いため息をつく。
「す、すんませんっ。でもどうしても手伝いたいんだよ、ハシさん。わたし、ホントに運動神経いいんだってば。ハシさんの邪魔はしないし、すっごく使えるヤツだと思うんでっす」
 熱い思いを訴えながらドアを開けようとしても、ハシさんが逆に閉じようとしてくる。
「お眠りください、いますぐにっ」
「お眠りってられないんですよ。お願いだから連れてってくださいっ。じわじわ待ってるだけなんてできないんっすよっ」
 ひそひそと押し問答をしていたら、階下でかすかな物音がたつ。わたしとハシさんは同時に口をつぐみ、硬直する。
 階下にいるのは雨市だ。しかも、廊下を歩く足音が大きくなってきた。焦ったハシさんはぐいっとドアを引き、わたしの部屋に入って静かに閉める。わたしとハシさんはドアに頬をあてて、雨市のたてる物音に耳をすました。
 階段が軋む音がする。うっそ……階段を、上ってる!?
 もしかして、やっぱバレてた? 恋とは違うドキドキ感に吐きそうになりながらも、声を出さないよう口をすぼめて雨市の気配に集中する。と、階段の途中ではたと、音が止んだ。
 ……ん?
 不気味な静けさに包まれる。この緊張感に耐えられない。必死になって息を止めていると、ハシさんが言った。
「おや。戻られましたなあ」
「え? 雨市氏?」
「はい。なんでしょうなあ。階段の途中で止って、ものすごいため息をついて、戻られたようでございます」
 たぶん、わたしの些細な行動の怪しさに気づいて、なにをするつもりなのかたしかめようとしたのに違いない。とはいえ深夜だし、いまたしかめるよりも明日ハシさんに訊けばすむことだと、思い直して戻ったのだろう。
 ……やっぱ、バレてるのかも。お、恐ろしい!
「ハ、ハシさん! 雨市氏に明日なんか訊かれても、わたしのことは内緒にしててもらえると助かりますっ」
「もちろんでございます! まったく、あなたというお方は……」
 ドアから離れて正座したハシさんは、まいったとでも言わんばかりに額に手を添えた。
「よろしいですか、椿さん。役所は本当に、恐ろしいところなのでございます。ですからわたくしも、たいそうな時間をかけて、様々な情報を入手している次第なのです。まあ、わたくしにとってはお楽しみでもあるのですが」
「お楽しみ?」
「さようでございます。なにしろあのような強固な館は、そうそうお目にかかれないですからなあ。挑戦のしがいがあるというもので」
 床にしゃがむわたしの目の前で、ハシさんは居住まいを正した。
「椿さんのお気持ちは、よく存じておりますよ。ですが、かわいらしい娘さんがやんちゃな気を起こして、おこなうようなことではございません」
「大丈夫ですよ、ハシさん。わたしはかわいらしい娘さんとかじゃないし、心はがっつりロッキーだから」
「ろ?」
 ロッキーについて説明しはじめたら、朝日が昇ってしまいそうだ。とにかく!
「なんか手伝いたいんだよ、ハシさん。無茶はしないし言いつけは絶対に守るから、お願いします頼みます!」
 両手を合わせて拝む。沈黙したハシさんは、困惑の表情でうつむいてしまった。
 無茶を言っているのはわかっている。わたしがくっついて行けば、ハシさんの危険はさらに増すだろう。それに、二人で役所に潜入しているのが見つかったら、どうなるのかもわからない。もしかしたら、地獄に一直線コースかもしれない。
 だけど、いままでハシさんは見つかっていない。ということは、見つかっていないハシさんのスキルを、わたしも身につけたらいいってことなんじゃないだろうか。
 そうだよ。まさしく、そのとおりだ!
「……わかりました。高橋殿」
 わたしも床に正座する。両手をつき、ハシさんに向かって深く頭を下げた。
「弟子に、してください!」
「なんですと!」
 泥棒に弟子入りだなんて、父さんが訊いたら嘆くだろうけれども、べつに鍵開けだとか、金庫開けだとかのスキルを身につけたいわけじゃない。
 わたしは娑婆に帰る方法を、一刻も早く入手したいだけなのだ。
 そのために必要なスキルならば、なんだって身につけてみせる!
 やめてくださいと、ハシさんは慌てふためく。それでも頑固に土下座を続けていると、やがてハシさんの深いため息が頭上にそそがれた。
「まいりましたな。トホホでございます。ダメですと言ったところで、椿さんは今夜のように、わたくしを追いかけようとなさるでしょうし」
 さすがです師匠。そのとおりです。
「かと言って、もしもわたくしが椿さんから逃れようといたしましたら、わたくしは深夜のまち中に、椿さんを放り出すことになってしまいます。そんな危険な目にあわせるわけにはまいりません。いたしかたありますまい。わかりました、ようござんす」
 え!
「い、いいんすか?」
 顔を上げると、ハシさんは大きくうなずいた。
「弟子というわけではございませんが、潜入においての約束ごとがございますから、いったんわたくしに時間をください。とにかく、今夜はわたくしひとりが行ってまいります。明日の昼、見取り図を描きますから、椿さんにはまず、潜入の訓練をおこなっていただきます。それを終えたのち、いざ実践とまいりましょう。よろしいですかな?」
「わ、わかりました! 了解でっす!」
 ハシさんが腰を上げた。
「これはわたくしと椿さんの秘密でございます。わたくしたちは今夜から、秘密の仲間というわけですな」
「はい、師匠。精進するので、よろしくお願いいたしまっす」
 わたしの言葉に、ハシさんは眉を八の字にさせて小さく笑んだ。
「では、行ってまいります。本日はわたくしに、ついて来てはなりませんよ」
「わかりました、師匠。行ってらっしゃいです。どうぞお気をつけて」
 こっくりとうなずいたハシさんが、部屋を出た。その背中を見送ってから、わたしは頭の手ぬぐいを取る。もう一度眠ろうとしたものの、ハシさん公認で手伝えるという興奮と武者震いで、どうにも目が冴えてしまった。眠れないついでに、腹筋を百回やったところで思いつく。
 そうだ。どうせだからこのまま近所を、ちょっと走ってみるのはどうだろう。
「トレーニングは大事だもんね」
 部屋を出て、階段を下りる。足袋のまま玄関に立って引き戸を開けようとしたとき、逆に開けられてびっくりした。
 立っていたのは、着物姿の雨市だった。くわえていた煙草を指に挟んで、わたしを見ると顔をしかめる。
「なにしてんだ。夜中だぞ」
「い、いや、ちょっとその辺、走ろうかと思って。雨市氏こそ、どうしたの?」
「眠れねえんだよ」
 うつむいた雨市は、髪をくしゃりと握る。どうやら散歩をしていたらしい。うわ、今夜ハシさんについて行っていたら、雨市に出くわしていたかもしれない。危なかった。
 眠れない理由は、きっとあの女子だろう。洋食屋で出会ったがために、頭がいっぱいになってしまったのだ。そっか、本当にラブなんだな。
 気にならないと言えば嘘になる。でも、フラれてケリのついたいまとなっては、わたしの出る幕なんてない。まあ、そもそもはじめからなかったんだけどさ。
 じゃ! と左手を上げて雨市の横を過ぎ、外へ出ようした矢先、いきなり右腕がつかまれた。
「うあっ」
「ひとりでうろうろすんな。夜中はヤバい」
 そうなのか? 外を見回してみたけれど、不気味な満月があるだけで静かだし、人影もまったくない。
「誰もいないじゃん」
「そう見えるだけだ。普段隠れてる罪人どもが、姿を見せる時間だ。いいから入れ」
 つかまれた腕が引っ張られて、玄関に戻される。
「だけど、雨市氏だって散歩してたんでしょ?」
「俺はいいんだよ。男だし慣れてるからな。忘れてるわけじゃねえだろうな? ここは地獄の入り口だぞ」 
「……まあ、そうだけどさ」
 ハシさんと一緒ならまだしも、ひとりは危険らしい。しかたがない、部屋で腹筋の続きでもするか。足袋を脱いで廊下に上がると、背後の雨市も下駄を脱ぐ。
「椿」
「はい?」
 振り返ると、雨市はまっすぐにわたしを見ていた。
「明日、帝劇に連れてってやる」
「え? て?」
「帝劇。劇を観るとこだ」
 それはちょっと、面白そうだ。でも、ハシさん師匠との訓練があるから、出かけるのは避けないと。
「う、うーん……行ってみたいけど、それってすぐに終わるやつ?」
 雨市の顔が、みるみる険しくなっていく。
「なんで時間を気にすんだよ。おまえになんの用事があるんだ?」
 そう訊かれて、息をのむ。やっぱり雨市は、なにかに勘づいている気がする。マズいヤバい。断ったら、さらに怪しまれる事態になりかねない!
「や、なんもないです。了解です、行きましょう!」
「早めに行って、買い物にも連れてってやる」
 えっ!? それはダメだ。師匠の訓練が、一秒たりとも受けられなくなってしまう!
「ひ、昼間は……ご勘弁を! やることいっぱいあるし。掃除とか、洗濯とか、掃除とか」
 しどろもどろで返答すると、雨市は目を眇めてわたしを睨む。と、腕を組みながら、なぜかにやっとした。
「なあ。俺が眠れねえのは、おまえのせいだぞ」
「え……はい?」
「どうにもムカついて、眠れねえんだよ」
「わ、わたしになんでムカついてんの?」
 わけがわからない。やっぱ、ハシさんへの弟子入りがバレてる!? 身体を強張らせていると、雨市は腕を組んだまま、わたしを視界に入れて続けた。
「俺にも自尊心ってもんがあるんだよ。勝手に好きだのなんだの言いやがって、それで〝もういい〟ってなんなんだ。もやもやするったらねえぜ」
「えっ? もやもや……?」
 なにを言っているのか、わけがわからない。でも、怒っているのは痛いほど伝わる。戸惑って首を傾げると、雨市はわたしに顔を近づけた。
「俺がおまえに、フラれたみてえになってんだ。それにムカついてもやもやしてるってハナシだ。こうなったらおまえが娑婆の娘だろうが、欠点だらけだろうがどうでもいい。どうせおまえ以外の女とはしばらく会えねえんだ。ちょうどいいから遊んでやる」
 そう言うやいなや、雨市は居間に向かって行く。ドアノブに手をかけると、わたしを流し見た。
「おまえを本気で落してやる。覚悟しとけ」
 バッタンとドアを閉めた。残されたわたしは、さらに首を傾げるはめになる。
 遊ぶって、なにをして? 落とすって……いったいどこに? いや、待て。
「まさか、地獄に道連れ……的な!?」
 違う気がするけど、雨市を怒らせたのはたしかみたいだ。しかもそれは、わたしがコクったせいだと言っていた。だけどおかしい。だいたいなんでわたしが雨市を、フったみたいなことになってるんだろ。逆じゃん?
「ええ……? さっぱりわからない」
 頭を抱えて身もだえてしまった。いったいどうして、そうなった!?

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