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参ノ章

洋食、帝劇、夜の虎

其ノ17

 ガタタンと、路面電車が通りを走り去る。
 雨市は煙草を指に挟んで口から離し、ぐぐぐと眉をひそめた。
「なん、だって?」
 電車の音にかき消されたんだろうか。でも、けっこう大きな声を出したから、絶対に聞こえてるはずなんだけど?
「いま、なんつった?」
 重ねて訊かれたものの、正直いまのでパワーは使い果たした。てんぱって思わず過去形になったけど、結果はわかっているんだからたいした違いはないだろう。
「ごめん。リピートは無理です。あ、リピートってのは、繰り返すって意味だからね」
 前に出た雨市は、超至近距離に立った。
「俺の耳がおかしくなっちまったのか。いま、おまえが俺を〝好きだった〟って言ったような、空耳が聞こえたぜ?」
 それ、空耳じゃないぜ? なんだ、ちゃんと聞こえてたんじゃん。
「うん、言った。だから空耳じゃないよ。なんていうかさ、人生そういうこともあるってハナシだよ。それでですね、返事をください」
 手のひらを雨市に向ける。険しい表情の雨市は、わたしを見すえたまま地面に吸い殻を落し、靴底でつぶした。
「なんでだよ。なんでそうなった? 俺に惚れたってことか、それは」
 信じられないと言わんばかりの声音だった。なるほどね。櫛くれたり褒めてみたり、全部無自覚でやらかしてたらしい。でも、雨市に悪気があったわけじゃない。たんなる親切な行為にときめいてしまった、わたしの事故でもあるんだし。
「いろいろしかたない方向の事故だから。でもまあ、それは終わったことだしいいってことで。でさ、返事が欲しいんだよね。山内さんの番は終わったので、はい、次は里下さんの番です」
 ぐいっと手のひらをさらに突き出したら、雨市の胸に指先があたってしまった。それでも雨市は無言で、じいっとわたしを見つめてくる。
「本当、なのか?」
 わたしはうなずいた。嘘をついてどうする。
「そう、か。いや、なんつーかなあ。俺はそんな」
 視線をそらした雨市は、言いよどんだ。どうやって断ろうかと、考えているような顔つきに見える。よし、いい感じだ。すべてわたしの想定内だから、なにも迷うことはない。それでいいんだよ、雨市! 
「続けて!」
 元気いっぱいにうながすと、雨市は困惑した。
「なんかおかしくねえか? どうもしっくりこねえなあ。そもそも〝だった〟ってなんだよ。そいつは、いつからいつまでのハナシになってんだ? おまえと会ったのは、ついこの前だぞ?」
 まいったとでも言いたげに、うつむいた雨市は額に手をあてる。
「つっても、惚れた腫れたに時間は関係ねえもんな。待て、整理させろ」
 いやいや、整理なんかしなくても、大丈夫だから!
「いいの、いいから! いまの雨市氏の正直な気持ちを言ってくれたら、それでいい感じだから。整理したりとか考えたりとかじゃなくて、直感? てか、そういうのあるじゃん。そういうので、素直に答えてくれればいいんだよ」
 強くそう訴えると、首を傾げた雨市はまぶたを閉じ、眉間の皺を尋常じゃないほど深くした。
「なんだろうなあ。さっきからおまえの言ってることが、どうにもおかしい感じがすんだよ。俺に惚れてるのに、断って欲しいみてえな感じがするっつーか……」
 まさにそのとおりだ。こっちは断られること前提なんだし、そんなに深く悩ませたいわけじゃない。さっさとざっくり答えてくれていいのに、なにをそう悩ましげな顔つきになっちゃってんの?
「雨市氏。心配しなくていいから、いまの正直な気持ちをぜひお聞かせください。べつにわたしのこと好きとかじゃないでしょ? 色気もないしさ」
 雨市はおもむろに腕を組む。そうしてぐぐぐと、さらに首を傾げた。
「あ? ああ……まあ、そうだけどよ」
 核心に、迫ってきた!
「でしょ! だから迷うことないじゃん。それ、それ。それをもっとこう、はっきり言ってくんないかなあ。ざっくりしてていいからさ」
 ストレートな本音を告げてしまったら、わたしが傷つくだろうと思って、雨市は言葉を濁しているのだ。でも、そんな気遣いはわたしには無用だ。さあ、返事をください!
「泣いたりとかしないから、ざくっといこう。思いきり、ざくっと!」
 思いあまって前のめりになりながら、雨市に返答をうながす。うつむく雨市は、のっそりとまぶたを開けると、わたしを上目遣いにした。
「そりゃあ、おまえは美人だと思うぜ? けど、なんとも思っちゃいねえよ。娑婆の娘だし、男を殴るし、色気はねえしな。気持ちはありがたくもらっとく、けど……おまえはそれで、俺とどうなりたかったんだ?」
 俺は地獄行きの死人だぞと、雨市はささやいた。もちろん、わかってる。だけど〝俺も好きだ〟な方向は考えてなかったから、どうなるかなんてぶっちゃけ想像もしていなかった。
「へ? う、うーん……そういうのは成り行きかなって? とにかくさ、ノーってことでしょ。あ、ノーってのは、ありえねえってことです」
 雨市は眉をひそめたまま、しかめ面でまたまぶたを閉じた。
「ああ。まあ、そうだな。そのとおりだ。ねえな……ねえよ」
 よし。第一のミッションは完了した。若干キレの悪い返答だったけど、それは女子慣れしている雨市の思いやりということで、よしとしておこう。
 正直、すっきりした。ダメもとでも突撃すべきなんだと、またひとつ学んだ気がする。
「やー、なにはともあれ、いい経験したなあと思うんだ。ありがとう」
 ぺこりと頭を下げる。さて、そうと決まれば次のミッションにかからなくては。役所潜入を目論む、ハシさんを追いかけなくてはいけない!
「ささ、帰ろう、帰ろう!」
 雨市の横を過ぎて、電車の停車場まで歩こうとした矢先、雨市に袖を引っ張られた。
「おい、待て」
 振り返ると、雨市の眉間はまだ険しい。
「えっ、まだなにか?」
「なにか? じゃねえよ。なんだろうな……俺がなんとも言えねえ感じになってんだ。あのな、念を押させてもらうが、おまえは俺に惚れたんだな?」
「うん。そうだけどさ、どうにもならねえ方向でおしまいでしょ?」
 むうと口を尖らせて、雨市はつぶやく。
「そうだけど、よ」
 じゃあいいじゃん。なにも問題はないのだ。
「それでおしまいなら、それでいいってことだよ。だから、帰ろう」
「いや、帰ろうって。おまえはそれでいいのか?」
「うん。いいよ」
 雨市は納得がいかないのか、さらに顔をしかめた。
「いい、んだな?」
「いいんだよ。おしまい、おしまい」
 歩きはじめようとした寸前、ふたたび袖が引っ張られる。ええ? まだなにかあるってこと? まあいい、もっとざっくり言いたいことがあるのかもしれない。しょうがないな、聞いてやるか。
「なにさ。まだなにかあんの?」
 目の前に立った雨市は、どことなくイラついた様子で煙草をくわえ、マッチをすった。
「なんだろうな。まるで俺がおまえを好いて、逆にそっぽ向かれちまったみたいな、妙な感じになってんだ。なんつーかなあ」
 煙草に火をつけて、うつむきがちに吸いはじめる。
「なんともしっくりこねえんだよ、俺が」
 ぶつぶつ言いつつ、整った顔を片手で撫でる。と、横を向いた雨市は、片眉を上げて目を細め、わたしを横目にした。
「なんで俺に惚れたんだよ」
「えっ? いや、ぶっちゃけ最初はなんとも思ってなかったよ。でも雨市氏、女子のツボを知り尽くしてる感じあるじゃん。これとかさ」
 ショールをつまんで、続ける。
「櫛くれたりとか。わたしは男子を好きになったことがないから、そのあたりでこう、新しい感じがしたんだと思う。あとは、そうだなあ。大人だしオシャレさんだし、なんかカッコいいっていうか、そう見えたみたいな」
 正直に告げたのに、雨市は煙草を指に挟むと、ぽかんと口を開けた。かと思うと表情を歪めて、がっかりしたかのようにうなだれた。
「見えたって、全部過去のことかよ。褒められてるのに、なんで嬉しくねえんだろうな。にしてもおまえはまあ、頬を染めるでもなく照れもしねえで、惚れたはずの男に堂々と……。呆れるってのはこのことだ。おまえみてえな娘、会ったことねえよ」
 はあ、とため息をつくと、首を左右に振った。
「ああ、まあわかった。もういい。ねえな、ねえよ。わかったからもう、なんにもしゃべんな。色気も情緒もへったくれもねえ娘だぜ、おまえは」
 わたしの袖を離すやいなや、雨市はずんずんと歩きはじめた。雨市があまりにも早く歩くから、わたしは小走りで追いかける。
「あ、でも、もうこういうのないからさ。安心していいからね。自分にケリつけたから、しつこくするとかそういうのもないから!」
 雨市はちらりとわたしを睨み、呆れたようにまた首を振った。
「なにさ」
「なんでもねえよ」
 雨市はむっつりと黙り込んだまま、停車場から電車に乗り込む。電車に揺られている間もずっと、わたしの横で押し黙っていた。
 たぶん、例の大人風清楚女子のことを思い出してるんだろうと気を利かせて、わたしも黙っていることにした。
 なんだかんだとややこしいことを言いつつも、雨市はやっぱりあの女子のことが好きなのだ。だからこそ、洋食屋であんなにも、女子に視線を送っていたんだろうし。
 外はすっかり暗い。反対側の車窓に映っているのは、車内のほのかな灯りに照らされた自分と、隣に座っている雨市の姿だ。
 ぼんやりしながらなにげなく、自分の姿に焦点をあわせようとした矢先、鏡のような車窓越しに雨市と目が合い、心臓が飛び跳ねそうになった。
 腕を組んで座っている雨市は、じっとわたしを車窓越しに見ていたのだ。
 帽子のつばからのぞく上目遣いの眼差しは、いやに鋭い。その表情は〝ウザいぜ〟と言わんばかりに歪んでいる。きっと、恋愛劇場の邪魔をしているわたしを、早く娑婆に帰したくてたまらないんだろう。
 だよね。わかる。わかるよ、雨市!
 今夜わたしはハシさんを尾行して、なんとしてでも手伝わせてもらう展開にもちこむ。そうして二人組になれたあかつきには、娑婆に帰れる方法を速攻で入手するから、あと少しだけ待って!
 車窓越しに、思わずガッツポーズを決めてしまった。それを見た雨市は不機嫌そうに目を眇め、わけがわからないと言いたげな様子で帽子のつばを下げ、まぶたを閉じてそっぽを向いてしまったのだった。

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