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弐ノ章

詐欺師、泥棒、殺し屋の過去

其ノ15

「……なにしてんだ?」
 雨市が言った。土間の壁に背を寄せた竹蔵は、表情を変えずにさらりと答える。
「取り引きだよ」
「取り引き?」
「洋食屋に連れてくから、一緒に眠ってくれって言ったのさ。アタシがひとりで眠れないの、あんた知ってんだろ? べつになんにもしやしないよ。ただ、出かけるのが面倒になっちまったから」
 言い終えたとたん、竹蔵は雨市と同じタイミングでわたしを見た。
 竹蔵は美女だが男子だ。気がゆるみそうになるものの、それは忘れちゃいけない重要ポイントでもある。
 男子と一緒に眠ることがなにを意味するのか、一応わたしにもふわっと知識はあるのだ。もちろん、竹蔵はなんにもしないとは思う。だけど、女子として正しいこととも思えないので、やっぱオムライスはあきらめてお断りするのがまっとうな方向だ。
 視線を落としてそんなことを考えていると、雨市はむっつりとした顔つきで、袖に手を入れた。
「……おまえ、洋食屋に行きてえのか?」
 怒っているというよりも、探っているかのような声音だった。
「えっ? いや、そういうわけじゃないけど。そりゃさ、食べられたら嬉しいけど、さすがに男子とは一緒に寝られないし……ってことで、竹蔵さん。すんません!」
 両手を合わせて竹蔵に謝る。
「おや、そうかい。そりゃ残念だ」
 竹蔵の返答はあっさりしていた。すると雨市は苦笑いし、竹蔵に視線を移す。
「竹蔵。おまえがこいつを気に入ってるのは、よくわかった。寿司といい洋食屋といい、女をどっかに連れてくなんてよっぽどだ。なにかにかこつけて誘ってるにしろ、まさか本気じゃねえんだろ?」
 ……は?
 たしかに昨日から〝気に入った〟を連発されていたけれど、お世辞だと思っていたのだ。でも、もしかしてまさか……違うの? え、なにそれ。
 人生ではじめての展開に戸惑っていると、竹蔵がちらりとわたしを横目にした。と、すぐに雨市へ視線を戻して、口端を上げる。
「さあ、自分でもわからないね。けど、心根がまっすぐでいい娘だとは思うよ。腕っぷしも強いし、その辺にいる娘とはちょっと違う。面白がってるだけだけどさ、まあ……気に入ってるよ」
 ほっと胸を撫で下ろす。うおお……よかった。ラブな方向じゃなかった。面白がってるだけだと言われたし、きっと竹蔵としては、親戚の姪っ子をかわいがる感覚に似てるんだろう。
 それにしても、この無駄に緊迫している気配はなんなのだ。おかげでわたしも緊張してきた。ほっとしつつも息をつめていると、竹蔵が雨市に言った。
「じゃあ、あんたはどうなんだい? ふりでも女房だよ、雨市」
 うっ、とわたしは息をのむ。仁王立ちで雨市を直視してしまった。
 どうしよう。正直、知りたい。なんでかわたしも、知りたい気がする! 緊張で身体を強張らせながら、雨市を凝視して返答を待ってしまう。呆れ顔で嘆息した雨市は、やがて半笑いでさらっと答えた。
「どうもこうも、なんとも思っちゃいねえよ。こいつだってそうだろ。へたうっちまったから面倒見てるだけだ」
 ですよねー! いやあ、わかってた! だけどなんでだろ、いますぐ泣きたいようなこの感じは。
「そうだろうねえ。あんたは育ちのよさそうな、上品な娘が好きだからね」
 竹蔵が言った。ってことは、わたしは育ちがよさそうではなくて、上品でもないってことになる。まあ、そのとおりだ。上品な娘さんがまちの中で、男子に右ストレートをくらわせるはずはないもんね。
 なんかもう、泣きたいのをとおり越して笑いたくなってきたかも。雨市は着物の袖から煙草を出し、くわえて火をつけた。
「俺のことはどーでもいいだろ。なあ、竹蔵。こいつは娑婆の人間なんだ。本気じゃねえなら、本気になっちまう前に、頼むから妙な手出すなよ。もしもこいつが」
 雨市がわたしを、あごでしゃくる。
「おまえを好いたらどうすんだ? 傷つくのはこいつだ。だからややこしいことすんなっつってんだ。おまえは地獄、こいつは娑婆だ。それに」
 煙草の煙をくゆらせながら、雨市はまっすぐにわたしを見た。
「椿。おまえだって竹蔵のことを、なんとも思っちゃいねえんだろ?」
 そうであって欲しいと願うような、すがるような目つきだった。
「い、いや……まあ、そうだけど。でも嫌いじゃないよ。ご馳走してくれるし、優しいし」
 とたんに雨市は目を見張った。
「おい、やめてくれ。まさか、好きなのか?」
「いやいや! だからそういうのじゃないし! 違くてっ!」
「煮えきらねえな。どっちなんだよ」
「そんなに責めるもんじゃないよ、雨市。アタシが気に入ってるって言ったもんだから、椿は気を使って言葉を濁してんだ。なんとも思っちゃいないさ、そうだろ?」
 竹蔵が助け舟を出してくれた。なんか竹蔵、余裕があるっていうか大人だよなあ。うなだれ気味に、わたしはうなずく。
「……はい、すんません。なんとも思ってないです」
「なんだよ。だったらさっさとそう言え」
 安堵したように、雨市は息をついた。背を向けてからはたと立ち止まり、軽く振り返る。
「椿、洋食屋に行きてえなら、明日俺が連れて行ってやる。竹蔵、ひとりで眠れねえなら、ひと晩中起きてろ。二人で妙にくっつくんじゃねえ、いずれ辛くなるのは、互いだからな」
 その場から雨市が姿を消すと、竹蔵はふふふと笑う。
「……焦ってんねえ」
「え? 焦るって、なんで?」
「雨市には、ちょっと惚れてる女がひとりだけいるんだよ。それでもあちこち出歩いてたから、どこまで本気なのかはわからないけどね。死んでからこっちで知り合った華族の娘で、アタシらみたいなやつらにとっちゃ高嶺の花だ。けど、あいつはすんなり落したよ。今日一日、あちこち駆けずりまわって女たちと手を切ってきたのは、アタシも知ってる。だからあんたを早く戻して、ほかの女はどうであれ、その娘とだけでもよりを戻したくて焦ってんだろ」
 竹蔵はにんまりして、わたしを見た。
「はあ。なる……ほど。ですか……」 
 考えてみれば、ここにはここの生活があったわけで、そういう相手が雨市にいないほうが、そもそもヘンなのだ。特別っぽい女子がひとりくらいいても、おかしくない。
「けど、アタシはあんたを気に入ってるよ。これは本当だ。だけど本気かどうかは、自分でもわかっちゃいないんだ。いままで誰かに惚れたことなんかないからね」
 竹蔵の濡れたような瞳が、なまめかしく光る。
「だけど、もしも本気だとしたら、そうだねえ。……あんたを追って娑婆で生きるために、魔物になってやる」
「え」
「あっちの世界もこっちの世界も、自由に行き来できる、永遠に生き続ける魔物だよ」
 そう言うと、竹蔵はくるんと背を向けた。
「……まあ、あんたにその気がなけりゃ、魔物になる価値もないし、だいたいそこまであんたを好いてるのか、アタシにもわかってないからね。ともかく保留だ。あんたもいったん、今夜のことは忘れとくれ」
 ははは、と小さく笑いながら土間を歩き、竹蔵は台所に足をかけた。
「あんたに断られたから、取り引きもナシだ。でも、そのうちカフェーに連れてってやる。舶来モノの茶、好きかい?」
「う、うん」
 やっとの思いで、わたしはうなずく。竹蔵は満足そうな顔で、台所へ上がってしまった。
 残されたわたしは、よろめいて土間の壁に手をつき、うなだれてため息をつく。
「……ふう……おおお……」
 その場にしゃがんで、両足に顔を埋めてしまった。
 竹蔵の曖昧すぎる告白はいいとして(よくもないけど、ひとまずおいておく)、とにかく雨市の恋愛劇場と、わたしへのざっくりとした本音を知ってしまって、ものすごくメンタルがやられた気がする。
 いいよ、わかった。悪あがきはもうやめて認めよう。
 なんか悔しいけど、わたしは雨市が、好きなのだ。
 十六年の人生の中で、自分にラブな感情が芽生えることがあるなんて、想像すらしたこともなかった。そのうえ、相手は死んでいるのだ。誰だって妄想すらしたことないだろう。
「……どうして、こうなった……?」
 整理してみよう。これはたぶん、あの〝色気がねえ〟発言によってムカつかされ→気になり→セツさんの登場でさらに気になり→たまに褒められ、女子っぽいモノをもらって有頂天……という展開の結果だ。しかもこんな短期間でだなんて、ありえないから。
 そう。これは女子慣れしている雨市と、わたしの経験不足が引き起こした不慮の事故だ!
「……ここにいるのがカガミちゃんだとしても、同じ道をたどってるはずだよ」
 しっかし、わたしが誰かに恋するなんて、なんかもう……世も末だよ。
「よし、いいだろう。わかった」
 すっくと腰を上げる。深夜の裏庭で軽くジャブをはじめながら、自分の気持ちに整理をつけることにした。なのに整理はまったくつかない。もやもやとした感情を負かすべく、フックとアッパーとストレートを繰り返していたとき、ひとつのアイデアが浮かんだ。
 とたんにぱたりと、動きを止める。
「あっ、そっか! いっそコクっちゃえばいいんだ。フラれるのはわかってるけど、気持ち的にはいまよりか、ずっとすっきりするかもだし?」
 すでにフラれてはいるのだけれども、自分の気持ちを伝えたうえで、ざっくりとフラれたほうが、きっちりケリがつくような気がする!
「そうだよ。ロッキーだって負けそうな試合でも、リングに上がったじゃん。人生には重いパンチが何度もくるけど、そのたびに立ち上がるんだとかなんとか、言ってたじゃん!」
 マジでロッキー、リスペクトだよ。そうだ、そのとおりだ!
「よし、決めたもんね。明日コクってやる」
 そしてきれいに、散ってやれ!
 それから、ハシさんの役所潜入を手伝うことにしよう。わたしが戻れる方法を一緒に探せば、ハシさんがひとりで探るよりも早く、情報が手に入るかもしれないから。
「うん。それがいい。そうしよう!」
 雨市はわたしが邪魔なのだ。直接言われたわけじゃないけど、わたしのせい(っていうよりも、ニシザキのせいだけど)で、惚れた娘さんに会えなくなってしまったのだから、内心ではさぞかしハラハライライラしっぱなしだろう。
 大丈夫だ、雨市。わたしはちゃんと帰るよ。そうしたら好きな娘さんに、いっぱい会えばいいよ!
 なんとも切ないけど、認めたらなんかすっきりしてきた。心なしか肋間神経痛も緩和した気がする。いや、たぶん神経痛じゃなくて、恋の痛みみたいなものだったのかもしれない。
 わたし、めっちゃ学んでる。大人の階段を確実に上ってるよ!
 ……地獄の入り口で、だけれども。
「なにごとも、経験はしてみるもんだね」
 鼻息荒く腰に手をあてて月を見上げていたとき、台所の引き戸が開いた。
「おや。椿さん?」
 黒い布でほっかむりした、ハシさんだった。

 

​♨​ ♨ ​♨

 

 今夜もハシさんは、役所への潜入を試みていたのだった。その姿は、どこからどう見ても……泥棒だ。
 黒いほっかむりに黒いズボン、黒いシャツ姿で、黒い風呂敷を背負っていた。その格好でそそそと音も立てずに近寄って来たハシさんに、わたしはさっそく提案した。
「ハシさん、わたし、明日からハシさんを手伝おうと思うんだ」
 ほっかむりを取りながら、ハシさんは目を丸くした。
「ほう? けれどもすでにじゅうぶん、お手伝いしていただいておりますよ。掃除やお茶碗を洗ったり、いろいろとこまごまと?」
「そうなんだけど、それとは別方向でのお手伝いを——」
 わたしはハシさんに顔を近づけ、手のひらを縦にして口に寄せ、こっそりと耳打ちする。
「——役所、潜入をっ」
 ハシさんが青ざめる。
「なんですと! それはいけません、そんなことはさせられません。たいそう危険ですからな」
「でもさ、見張りとかいたら楽じゃない? なんか合図とか決めてさ、二人でうまくやれば、もっと早くいろいろ手に入ると思うんだ。わたしもさっさと帰れるし」
 それに夜は暇なんだよ……。
 早く眠って早く起きて、トレーニングを再開しようと思ってたけど、そんなことするくらいなら、ハシさんを手伝ったほうが絶対に有意義だ。
「……それはまあ、そうですが。しかし、そうですなあ。たしかに、椿さんも早く帰りたいでしょうなあ」
 眉を八の字にして、ハシさんはちょっとさみしげな顔になる。
「わたし、運動神経はすごくいいんだよ。きっと役に立つと思うんだ。だからさ、まず見取り図描こうよ、ハシさん。役所の中の見取り図」
 はあ……というハシさんの返答には、キレがない。
「しかし、雨市さんがなんと言うか。以前に雨市さんや竹蔵さんにも、手伝うと提案されたことがあるのですが、わたくしはきっぱりとお断り申したのでございます。シャレにならないほど、危険ですからなあ……」
「内緒、内緒! 内緒にしとけば気づかないって。もしバレても、ハシさんのせいにはしないから。わたしが勝手にくっついて行ったって言うからさ」
「いえいえ、わたくしのことはどうでもよいのです。しかし、いけませんよ。絶対にいけません……!」
 いけません、いけませんと言いながら、ハシさんはぶんぶんと首を横に振り、土間から台所に上がって去ってしまった。
 そうですか……。じゃあ、しかたがない。勝手にくっついて、行くからね!
 ふたたび腰に手をあてて、巨大すぎる不気味な満月を見上げた。
 人は、己で己の生きざまを決めると、強くなる。
 強い女子は男子にモテないって、前にカガミちゃんが言ってたけど、貧乏すぎてお金のことばっか考えすぎてて、モテたいとか考えたこともなかった。
 だけど、いま。わたしは無性にモテを意識してる。でも、好きだと思った相手から好かれるなんて、きっと奇跡に近いことなのだ。
 この夜わたしはそんなことを、摩訶不思議な地獄の入り口世界で、死人相手に学んだのだった。


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