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弐ノ章

詐欺師、泥棒、殺し屋の過去

其ノ14

 着物に着替えた雨市と一緒に、銭湯へ行くことになった。
 帽子をかぶり、首にストールを巻いた雨市は、袖に腕を入れて横を歩く。いちいち着替えなくてもいいんじゃないかと思うけど、たぶん雨市はオシャレさんなのだ。たしかハシさんも〝洒落者の若者〟だとか言っていたし。
「こっちだ」
 角を左に曲がると、こまごまとした建物の密集する路地になっていた。日も暮れてきて、ほんのりとした灯りが通りを照らしている。しばらく無言で歩いていると、雨市が苦笑した。
「静かだな。どうした? 今日はしゃべらねえのか」
 実はずっとわたしの心臓が、ものすごく波打っている。理由はわかってるんだけど、気づきたくなくて必死に知らんふりをしている。
 それにさ。たぶん、男子になんかもらったことなんてないから、かわいらしい櫛とか贈られてしまって、雨市を意識しているだけだ。そうに違いない、間違いない。
 自分にそうして暗示をかけていると、雨市が立ち止まった。〝湯〟と描かれた濃紺ののれんが下がる、瓦屋根の建物が目前だ。
「おまえはそっちだ。じゃあな」
「うあっと! ちょっと待った」
 男湯に向かう途中で、雨市は振り返った。
「なんだよ」
「わたし着物を着るのに、すんごい時間がかかるんだよ。だから、雨市氏をすんごい待たせると思うんだ」
「待つのはべつにいいけどな。なんとかならねえか。その〝氏〟っての」
「え? な、なんとかならねえかって、なにがさ?」
「ほかに呼び方があんだろ。おまえ、竹蔵は竹蔵〝さん〟って呼んでるし、ハシさんにだってハシ〝さん〟で、なのになんで俺だけ〝氏〟なんだよ。どこぞの作家先生か、胸くそ悪りい政治屋にでもなっちまった気分になる。呼び捨てでいいって言ってんだろ?」
「……なんでもいいって、昨日言ったくせに」
「言ったけどよ。どうにもしっくりこねえんだ。呼び捨てがいやなら、なんかもっといい呼び方しろよ。一応、ふりでも女房なんだぞ。湯に浸かりながら考えとけ」
 男湯に入って行った。
 ええ……? じゃあ、雨市、くん? それはない。〝さん〟付けにすれば気味悪りいというし、だったらほかになにがあるのさ。
 あっ! 時代劇を思い出せばいいのか。父さんの見てた時代劇の奥さまたちって……。
「……おまえ、さん?」
 うん、ないな。それはないわー。ああー、もうなんでもいいじゃん。超面倒くさい!
 大股で女湯に向かう。まったく、いちいち面倒くさいことを言う男子だよ。 
 雨市、氏!

 

♨ ♨ ♨

 

 よし、決めた。なるべく名前は呼ばない方向でいこう。てことは、雨市とあんまりしゃべんないってことになるわけで、そのほうがわたしの狂った脳みそと神経痛にも、いい効果がありそうだ。そうしよう。
 お風呂から上がって着物を着るのに、やっぱり時間がかかってしまった。急いで外へ出ると、雨市は空を見上げながら、煙草を吸っていた。足下には吸い殻がたんまり落ちている。
「ご、ごめん」
 雨市は煙草を落として踏みつぶし、笑った。
「うしろ向け」
「なんで?」
「いいから」
 言われたとおりにすると、笑われた。
「やっぱりな。帯が曲がってんぜ」
 ぐいぐいと、また背中で帯が動く。これ、すごい苦手だ。照れくさいし、まるで自分が大事にされてるみたいな、勘違いをしてしまいそうになるから。
「い、いいよ。曲がってても、べつに誰も気にしないし」
「俺は気になる。よし、これでいい」
 わたしは帯の上から、櫛の感触を手でたしかめた。盗まれるんじゃないかって、実はかなりハラハラしていたのだ。脱ぐときも着物の奥の奥のほうに隠して、お風呂に入っていた時間よりも、櫛を気にしてる時間のほうが長かった気がする。
「それで? 俺の呼び方は決まったのか?」
 帯をぽんとたたいて、雨市が言った。振り返ると、なぜかいきなり雨市は顔を強張らせる。わたしの首筋に鼻を寄せると、すん、と鼻を鳴らした。
「うわっ、なに!」
 のけぞったら、ぐいっと右腕を引っ張られた。
「……匂いだ、娑婆の。風呂に入ったせいで、きれいに流されちまったんだな」
 誰かに目をつけられてないかと訊かれた。妙なことはなにもなかったはずだ。
「な、ないよ。たぶん」
 雨市は視線を鋭くさせて、周囲を見回す。わたしの手首をつかんだまま、いきなり足早に歩き出した。銭湯の裏手の路地に入ったところで、雨市はわたしに顔を近づけた。
「悪いが、またアレをする。アレってのは穴蔵で、おまえが俺を殴ったアレだ」
「い、いや、待った! それ以外の方法ってのは!」
 いまアレをやられたら、わたしはたぶん心肺停止でここで死ぬ。その予感は確実にある!
「ねえんだ、悪りいな」
 なぜ……ちょっとにやっとする? 雨市がわたしの腰に左手をまわした。大きく息を吸い込みつつ、右手でわたしの頬を包む。慣れているのかなんなのか、それらのアクションがあまりにもさりげなかったので、うっかり流されそうになったものの、流されてはいけない!
「ち、ち、ちょおーっと、待った!」
 雨市のあごを両手でおさえつける。
「あ、あ、あのさ、アレだよ。つまり、あんたの息をわたしが吸い込めばいいんだもんね。だからさ、なんか袋かなんかにあんたが息を吐いて、それをわたしが吸い込めば、こんなことしなくてもいいってことだよね!?」
 雨市はくいっと片眉を上げた。そうしてわたしの腰から手を離すと、感心したように目を細めた。
「……頭いいじゃねえか。ちょっと待ってろ。こっから動くなよ」
 そう言って、どこぞへ駆け出して行く。危なかった。正直、どきどきしすぎて失神するかと思った。
「……はあ」
 わたし、なにやってんだろ。バカみたいだ。これじゃあまるで、雨市にときめいてるみたいじゃん……って。
「……笑えないぞ、これ」
 ばくばくしている心臓に手をあてる。その場にしゃがんで、うなだれた。冷静になるんだ、山内。これはときめきとかじゃない。断じて、そうではない。そうではないし、認めたくないし、認めてはいけない!
「だってさ、あいつここでは生きてるけど、生きてないんだよ……」
 しゃがんだまま、両手で自分の顔をおおってしまった。誰かもう、助けて……。
 そうしていると、雨市が戻って来た。銭湯のおやじさんから空の酒瓶をもらったと言って、それに息を吐いた。飲み口を手でおさえながら、酒瓶をわたしに差し出す。それをわたしが吸い込む方法で、ことなきを得た。
 瓶を持った雨市と並んで、家路を急ぐ。それで呼び名は決まったのかと雨市に訊かれたから、なるべく呼ばない方向でしゃべると答えたら、なんだよそれと、雨市は笑った。

 

♨ ♨ ♨


 家に戻ると、ハシさんが晩ご飯を用意してくれていた。
 手伝えなくて謝ると、よいのですよとハシさんは、にこやかに微笑んだ。
 雨市とハシさんと三人でご飯を食べ終え、茶わんを下げる手伝いをする。ハシさんと台所で洗い終えたとき、雨市が例の筆を一本、わたしに差し出した。
「こいつはニセだ。忘れねえうちにおまえにやるから、戻ったら金に換えるなりなんなり、好きにしろ」
 この筆のせいで、こんな目にあってるのだった。苦い顔で受け取ったものの、ふと疑問が浮かぶ。
「……ニセモノって、なんでわかるの?」
 答えてくれたのは、ハシさんだ。
「本物はですな。墨をつけて、なにかを描こうとすれば、こう」
 ハシさんは宙で弧を描くみたいに、右手を動かす。
「筆は半紙からはみ出し、勝手に動きはじめるのでございます。それは宙を舞い、その者の内面をあらわす」
「え! 筆が勝手に動くの?」
「さようでございます。宙を舞う筆から手を離すことは不可能。それは透明な線となり、心醜き者の手にあれば、巨大な獣が筆の先より姿をあらわす。心美しき者であれば、華やかなりし桜が散る、でございます」
 なにそのイリュージョン。見てみたいけど、筆から手が離れないなんて、たしかに恐ろしい。
 あっ、そっか。それで雨市は娑婆で、〝こいつを使ってねえだろうな〟ってわたしに訊いたんだ。もしも本物だったら、あの場でなにかが筆から飛び出しただろうから。
「なんかすごいね。そんなのがあらわれちゃうんだ」
「あらわれちゃうんだなあ」
 そう言ったのは雨市だ。
「すでに誰かの手に渡ってんのかも知れねえな。役所が言うには、俺と竹蔵で探した筆で百六本だそうだ。全部で百八本だとすれば、残り二本。持ってるやつが隠してるのかもしれねえなあ」
「なんで隠すの?」
 雨市は険しい表情で、ため息混じりに言った。
「本物が閻魔の手に渡らなけりゃ、永遠にここに留まっていられる。そういうこった」

 

♨ ♨ ♨

 

 眠る時だけ、Tシャツとジャージに着替えることにした。下着系着物だと、起きたときにマダム・リリィみたく、おっぱいが着物からはみ出してるかもしれないからだ。
 それにしても、ここ数日眠りが浅い。トレーニングもしていないし、たぶんいろんなストレスで、神経が高ぶっているせいだ。
「……ああ、また、起きた」
 今夜はちょっと蒸し暑い。深夜目覚めてしまったので、裏庭に出て涼みたくなる。
 部屋を出て階段を下り、台所の戸を引いた。土間のに続く扉が開いていたから、もしかしてハシさんがいるかもと、裏庭を見てみると。
 月に照らされた阿弥陀如来が、後光を背負って立っていた……って、いや、違う。
 あれは誰かの背中だ。背中に彫られた……あれは、入れ墨?
 ひたひたと裸足のまま近づくと、阿弥陀如来を背負っている人物が判明する。上半身裸で、白いうなじが丸見えの、髪を結い上げた竹蔵だった。
「なんだい?」
 振り返った竹蔵がぎょっとした。
「……なにしてんだい?」
 普段の習慣とは恐ろしい。わたしは竹蔵の入れ墨に向かって、両手を合わせていたのだった。
「うおっと。あ、なんていうか」
 慌てて両手を離す。仏の入れ墨を背負った人間が地獄行き待ちだなんて、なにか皮肉だ。
 竹蔵は煙管を吹かしていた。蒸し暑いねえと言いながら、着物を肩まで引き上げる。闇夜のてっぺんには、不気味で巨大な満月が浮かんでいた。
「……帰ってたんだ」
 竹蔵の隣に腰を下ろすと、竹蔵は小さく笑んだ。
「たまには帰るさ。また出かけるけどね」
「夜中なのに?」
「アタシはひとりじゃ眠れないんだよ。死んでるくせに、アタシを恨んでるやつらが亡霊になって、アタシを殺しに来る夢を視ちまうから。生きてたころからのバカな習慣だ」
 恨まれているらしい。
 雨市は詐欺師で、ハシさんは泥棒&スリ。竹蔵はどんな悪いことをして、牢に入れられてしまったんだろう。背中にタトゥーなんてオシャレ用語で呼べそうもない、ガチな入れ墨を彫ってるなんて、なんだかまるで暴力団……いや、ヤクザ? みたいだ。
「……す、すごいね。なんかこういうの、はじめて見たって言うか」
 竹蔵は乾いた声を上げた。
「すごかないさ。若気の至りってやつだよ」
「はあ」
「……死んだらこいつで」
 くいっと、竹蔵が自分の背中をあごでしめす。
「誰かがアタシだと気づくかもと思って入れたのさ。結局、牢で息絶えたけどね。いつどこで死ぬか、わかったもんじゃなかったから」
「……恨まれて、るんですか」
 竹蔵がわたしを流し見る。にやっと口角を上げると、べつに隠してるわけじゃないと前置きしてから話した。
「物心ついたときから、まわりには裸の姉さんだらけ。アタシを生んだのは、男に買われるどっかの女だったと聞かされた。その女が母親ってことになるけど、アタシは知らない。そういう女たちに育てられて、ずいぶんかわいがってもらったよ。けど、立派な遊郭の女たちじゃないから、苦労する女は山ほど見てきた。乱暴な男が出入りするからね、そのうち用心棒みたいなことをはじめて、ある男に気に入られた。ヤクザもんだけど、骨のあるやつで、金と引き換えに仕事をするようになっちまったのさ。まあ、殺しだよ」
 すごい告白をされてしまった。耳を疑りつつ、わたしは固まる。怖いかい、と竹蔵が訊いてくる。そりゃ怖い。怖くないわけがない。少しだけ竹蔵から離れると、苦笑された。
「いまさら誰かを殺すかい。みんな死んでんだ」
 そうだけど。
「そいつらはいまごろ、裁判終えて地獄にいるさ。善人じゃなかったからね。そしてアタシが来るのを、待ってるんだろ」
「……そ、そっか。それで、お金持ち……」
 怖いけど、竹蔵は優しい。だから、わけありなんだろうと思うことにする。べつにしたくてしたわけじゃなくて、たぶん時代とか生い立ちとか、そういうものが竹蔵にとって、あまりよくなかったんだろう。
「全部腐れた金だよ。さっさと使っちまえばよかったのに、まだ持ってる」
 そう言いながら、首をまわす。クキッと骨が鳴った。昨日もやっていたから、肩が凝ってるのかもしれない。
「……揉んであげようか、竹蔵さん。昨日お寿司ごちそうになったし、その変わりって言うのもなんだけど。わたし、先輩たちのマッサージとかしてたから、けっこううまいんだよ。父さんも、喜ぶし」
「へえ、そいつはいいね。頼むよ」
 竹蔵の背後で正座し、わしわしと肩を揉む。ああ、凝ってる。ガチガチだ。
「……うまいね、あんた」
「でしょ! よく言われる!」
 くすくすと笑いながら、竹蔵は煙管を吹かした。
「……妙なことしゃべっちまった。月眺めてると、いろいろ思い出すんだよ、忘れとくれ。こんなこと、誰かにしゃべったのははじめてだ」
「べつにいいよ。衝撃的だったけど、わけありなんだろうなって思うし……」
 竹蔵はなにも言わなかった。肩を揉まれるがまま、すうっと煙管の煙を吐いていた。しばらくしてから、わたしの手を煙管でつつき、もういいよと言う。
「……ああ、いい気分だ、ありがとうよ。さて、と」
 ゆっくりと、竹蔵は腰を上げた。きっとまた出かけるんだろう。だけど、竹蔵はわたしを見下ろしたまま動かない。
「……困ったねえ。出かけるのが面倒になっちまった。どうだい、あんた。べつになんにもしやしないから、今晩だけ一緒に眠ってくれないかい?」
「えっ……ええ!?」
「その変わりに明日、洋食屋に連れてってやるよ。知ってるかい? オムライス」
 まさかこの時代で、そんなものが食べられるとは思わなかった。とても魅力的な提案だ。
 男子だと知りつつも、竹蔵は美女にしか見えないから、わたしの気がゆるみそうになる。
「う、うーん……?」
 ……困ったなあ、どうしようと決めかねていたとき、土間に通じる台所から、にゅうっと顔が飛び出した。
 しかめ面の雨市だった。

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