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弐ノ章

詐欺師、泥棒、殺し屋の過去

其ノ8

 翌朝。起きて居間へ行くと、誰もいなかった。
 現実世界さながらに、窓から爽やかに差し込む日射しがかえって不気味だ。
 ぐったりしたままテーブルを見ると、布巾のかけられた朝食が置かれている。その横には、
 ——椿殿 おはようございます。お召し上がりください。高橋より
 という達筆な半紙のメモが、添えられてあった。
「ハシさんの名字は〝高橋〟なんだ」
 布巾をよけると、漬け物、焼き魚、裏返った茶碗とおひつが並んでいる。うわっ、食べる食べる食べる! 全部食べるよ!
「もっと早く起きて、ハシさんの手伝いすればよかったな。明日からそうしよう!」
 おひつのご飯をがっつり盛り、箸を持って手を合わせる。
「いただきまっす!」
 漬け物を頬張ってから、香ばしく焼かれた秋刀魚に、大根おろしをあわせて口に運ぶ。ああ……おいしい! 身もだえるほどのおいしさだよ!
 それにしても、おかしい。この慣れた感じの朝食具合は、日常的にご飯を作って食べているってことだ。それに、布団だってちゃんとしてたし。
 死んでいるのに、ご飯食べてるし眠ってる。煙草を吸って、トイレにも行ってる……。
「考えるのやめよう。いまは食べて食べて食べまくる!」
 二杯目のご飯を茶碗にこんもりと盛りながら、居間を見まわした。雨市の使った布団はたたまれて、部屋のすみに寄せられてあった。
 ……それにしても、くそう、雨市。
「色気とか……なんだよ、まったく」
 昨夜言われたことがのどの奥に、それこそ魚の小骨のようにつっかえている。
 気にするほどのことじゃないのに、やたら気になる。これはアレだ。こっちがよかれと思って〝面倒とか迷惑とかかけない宣言〟をしたというのに、それを〝かわいげがねえ〟のひとことでつっぱねられたあげく、〝色気がねえ〟とまで言われてしまって、そのせいでもや〜っとさせられているからだろう。
 べつに〝そうか、さすがだな〟なんて、褒めてもらいたかったわけじゃないけど、もっとこう、言い方ってものがあるんじゃないのか?
「やーめた。くっだらないし、どーでもいい」
 三杯目を盛ったら、おひつが空になってしまった。
 ふと窓際のそばにあるソファを見ると、風呂敷包みがある。あれはなんだろうと思いつつご飯を平らげていたとき、玄関から物音がした。やがて、居間のドアが開く。
 くったりした着物姿の雨市のうしろに、小豆色の着物をまとった小柄でかわいい女子が立っている。その女子はうつむき加減で、恥ずかしそうにこちらをのぞき見ていた。
 誰だろ。
「おう、起きたか」
「おう、起きたぜ」
 雨市につられて、うっかり似たような口調で返答してしまった。雨市は空になったおひつを見ると、ぎょっとする。
「……全部食っちまったのか?」
「お腹空いてたんだよ。あと、この朝ご飯ありがとう。明日から早く起きて、ハシさんを手伝うからね」
 むすっとしながら答えたら、雨市は苦笑気味に、うしろの女子を招き入れた。
「セツ、入れ」
 セツ、と呼ばれた女子は若かった。わたしと同じくらいの年齢に見える。髪をきれいに結い上げていて、しずしずと歩くそのさまは、まるで日本人形みたいに愛らしい。頬がちょっと赤くて、素朴な顔立ちだけれど、にっこりすると両の頬にえくぼが浮く。
 ……か、かわいい。
「おまえ、着物着れねえだろ。セツに教えてもらえ。セツ、こいつがさっき話した椿だ。仲良くしてやれ。着物はそこだ」
 そう言った雨市は、ソファの上の風呂敷包みを指した。
「俺の寝床、知ってるな? 先に行ってそこで待ってろ。ちょっとこいつに話しがある」
 風呂敷包みを持ったセツさんは、にっこりしてうなずき、居間を出て行った。そのようすを、茶碗片手に見つめていると、雨市は自分の口元を指して笑った。
「米粒ついてるぜ」
 とっさに口元を指でまさぐり、米粒を捕獲して口に放る。すると雨市は、なぜか表情を険しくさせた。
「な、なにさ」
「悪いが頼みがある。セツにここのことを、しゃべらないでもらいてえんだ」
「は?……ここのこと、って?」
「ここが〝地獄の入り口〟だってことだ。セツは知らねえ。教えたくもねえ」
 ……はあ?
「えっ?……意味わかんないんだけど」
「あとでハシさんと銭湯に行って来い。そんときに詳しく聞け。おまえのことは置き引きにあった、外国かぶれで無一文の旅の者だと、セツに教えてある。頼む」
 なんかわたし、すごい設定になってない? そう突っ込もうとした矢先、雨市が深く頭を下げる。わけがわからないけど、わたしに頭を下げるなんてよっぽどのことみたいだ。
「……わ、わかったよ。わけわかんないけど、しゃべんないから」 
 雨市はほっとしたように息をつく。最後の漬け物を頬張ったとき、雨市は哀しげに視線を落とした。
「セツは、自分が死んでるって、知らねえんだ」

 

♨ ♨ ♨

 

 二階に上がってドアを開けたら、膝に風呂敷包みを置いたセツさんは、ちんまりとベッドに腰かけていた。わたしを見ると控えめににっこりし、立ち上がって包みを広げる。
「うーさんにいろいろ聞きました」
 うーさんって、雨市のことかな。しかし、声も……かわいい。なんだかころころと鳴る鈴みたいだ。
 ん? もしかしてセツさんは雨市の……彼女、なのでは?
 悪人にも罪人にもまるきり見えない女子だから、なんでこんなとこにいるのかはハシさんに訊くとしても、雨市は自分が死んでるって知らないセツさんを、なんとしても守りたいみたいな感じで、わたしに頭まで下げたのだ。
 しかも〝俺の寝床を知ってるな→知ってます〟という、無言の視線キャッチボールをこの目でしかと見た。
 間違いない。彼・女・だ!
「椿さんは、お着物を召したことがないとうーさんに言われて、びっくりしてしまいました。近頃はそういった方もいらっしゃるのですね。それに、外国にお詳しいのですか? わたくしはそういったことにうとくて、同じ女性ですのに尊敬いたします。長崎からおひとりで、ご親戚の方を訪ねて来られただなんて本当にすごいわ。そのご親戚の方が引っ越されていただなんて、さぞかしお困りでしょう。道中、おそろしいことはございませんでしたか?」
 ある意味、道中おそろしいことばかりだった。鬼を見たと思ったら鬼ではなく、草に足を引っ張られ、気づけばトンネルでそのあとはココだもんね……なんて言えない。
「そ、そーっすね。まあ、いろいろあったっちゃあ、あったって言うか」
 風呂敷の中には、着物一式と下駄が入っていた。着物は、焦げ茶色に灰色の紅葉が散りばめられた柄だ。
「まあ、かわいらしい。でも、地味ねえ。なんだか残念」
 ふう、とセツさんは、着物を広げてため息をつく。
「え? わたしはなんでもいいんだけどな」
 小さく笑ったセツさんと目が合う。ああ、やっぱりかわいい!
 小柄で頼りなげな感じが、またなんとも可憐というか。わたしは女子だけど、もしも男子だったら、うっかり抱きついているかもしれない。
 ……あっ、そっか! コレがいわゆる、色気ってやつなのかも!
 そんなセツさんとわたしは真逆だ。だいたいボクシングジムに行ってた時点で、頼りなげな雰囲気からはほど遠いのだ……って、わたしなんで、こんなこと考えてるんだろ。
「椿さんはうーさんみたいにとってもきれいですから、洋装だったらさぞかしモダンで、お似合いなのにと思ってしまいます。わたくしは憧れているのですけれど、一度友人に借りて試着してみたのですが、身体が小さいせいかどうにもしっくりこないのです」
 たしかにセツさんの身長は、とても低い。それに華奢で小さくて、セツさんを守りたいという雨市の気持ちがわかる。わかったとたんに、キリッとした妙な痛みが、胸のあたりに走った気がした。ん、なんだ?
 一瞬走ったこの痛みは、もしかして前に父さんが言ってた、肋間神経痛とかいうやつかもしれない。絶対ストレスのせいだよ、これ。
「さあ、そのお召しになっているものを、お脱ぎになって。わたくしがお教えいたします」
 セツさんはわたしの下着に、興味津々の様子だ。
 外国で流行っていると冷や汗をかきつつ嘘をつき、下着すら脱ぐはめになる。さらに、下着はつけないのだとセツさんに言われて、文明ショックの洗礼を受けながらも、なんとか着物の着方を覚えた。
 帯に手間取ったし時間もかかったけれど、なんとか自分で着られるようにはなった。 
 しかし、お腹が苦しい。動きづらいし、着たばかりだというのにいますぐ脱ぎたい。それにパンツが……って忘れよう。長いモノには巻かれろだ。
 髪はセツさんが、三つ編みにしてくれた。ドア横の壁にかかった鏡をのぞいてみたものの、これがはたして似合っているのかどーなのか、自分では判断がつきかねる。
 ま、いっか。この際見てくれはどうでもいいや。そもそも、そんなに気にしたこともないんだから。
 さあ、これで働くぞ。掃除、洗濯、炊事、なんでもきやがれ! 心の中で叫んだとき、セツさんが言った。
「椿さん。こちらに滞在している間、どうかうーさんに気をつけてくださいな。うーさんったら、あちこちに仲良しの女性がいるような方なので、わたくしもほとほと呆れているところなんです」
 眉を八の字にさせたセツさんは、のんびりと苦笑した。てか、え? 彼女なのに、そこ、本人に突っ込んだりしないの? 
「え……ええ?」
「しょうがないものですよね。男の人の性分というのは」
 いいの、それ? くすくすと笑っている……場合ではないのでは? 
 まあ、彼女が許してるんなら、わたしには関係ないしいいけどさ。そう思ったらまた、チクリと胸のあたりが痛む。
 うっ……と、ヤバい。これは本気で、肋間神経痛の症状っぽい気がする。
 湿布とかあるかな? ハシさんに訊いてみよう。おそらく百パー、なさそうだけど。

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