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弐ノ章

詐欺師、泥棒、殺し屋の過去

其ノ7

 巨大なデブ猫が、わたしの胸にのしかかっていた。あまりの胸の苦しさにもだえて、ぬおう! と暴れたら目が覚めた。
 なんだ、夢か……。
 薄暗い部屋の中で、ふたたびまぶたを閉じたものの、胸の苦しさはおさまらない。ていうか、もっすごく、なにかが……重い……。しかも、自分の布団じゃない匂いが、鼻先をくすぐっている。枕の感触も微妙におかしい。
 うーん……。それにしても、すごい夢を視たものだ。それもこれも、あの気色悪い筆のせいだ……。
「……って、待って」
 ぱっちりとまぶたを開け、明かりのない部屋に目をこらしてみる。ものすごくいやーな予感がした。アレは夢だったのだろうか。違うんじゃないのか?
 おそるおそる起きようとして、布団に手をかけてやっと気づく。胸の重さは、この布団のせいだ。これは……綿がぎっしり詰まった、綿布団、だ!
 こんな布団は、ウチにはない。がばりと起き上がったとたん、段差のある床に足がついていけず、どってんと床の上に転がり落ちてしまった。
 えっ、ベッド?
 畳に布団を敷く生活をしていたため、ベッドの段差に身体がついていけなかったらしい。っていうか、ベッド!?
 これは、自分の布団じゃないことをしめしている。いやだわ、じゃあ、どこなのかしら? なんてかわいこぶってみたところで、答えははっきりしている。
 床の上で四つん這いになったわたしは、思いっきりうなだれた。
「……そうっすか。やっぱ夢じゃなかった、っと……」
 わたしの通っていたボクシングジムは、本気でボクシングを愛している大人女子が多かったので、数々のボクシングマンガ&映画を、押し付けられたものだった。映画『ロッキー』のテーマ曲とともに、それらのクライマックス場面がわたしの脳裏に駆け巡る。
 落ち着け、山内椿。考えるんだ、山内椿! そうだ、燃えつきて灰になった矢吹ジョーみたいに、真っ白になっている場合ではない。
 これは、わたしの試練だ。そしてこの試練は、まだはじまったばかり。この試練に打ち勝つには、精神的パワーが必要だ。
 とにもかくにも、とりあえずは帰れないってのが決定事項なのだから、帰り方がわかるまでは、不屈の精神で乗り切るしかない。己の身を守れるのは己だけだ。己を信じてやるべき者もまた、己のみ!
「よし、なんか盛り上がってきた」
 立ち上がって、どこなのかわからない暗い部屋の中で、軽いジャブをかましはじめてみる。
「蝶のように舞い」
 モハメド・アリの名言をつぶやきながら、
「蜂のように……」
 フック、そして。
「刺す!」
 右ストレート! サンドバッグが無いのが残念だけど、軽い運動は思考を整理する役目を果たしてくれる。ようし、ものっすごくお腹が空いているけど、耐えられなくはない。とりあえずまずは、腕立て伏せをしながら、状況を整理しよう。
 ここは〝地獄の入り口〟だ。だけど、死人たちは普通の生活をしているっぽい。
 謎だらけな部分はひとまずおいておいて、出会った人たちについての感想を述べることにする。
 まずは雨市だ。
「……奴は嘘つきみたいだったな。自分のことを詐欺師とか言っていたから、信用ならないぞ」
 うん、そのとおりだ。とはいえ。
「……でも、わたしがついて来た、みたいなとこもあるし。いや、そもそもはあの筆のせいなんだけどさ。でもまあ、助けてもらった感はあるんだよなあ。こうやって布団のある場所で眠れてるし、いろいろムカッとさせられるけど、ちゃんとお礼は言っとこう」
 目上の人には礼節を。よし、いいだろう。次、ハシさんという紳士について。
「とってもお上品だけど、手癖が悪いっぽい。あの財布はたぶんスッちゃったんだ。でも、哀しい顔をしてたから後悔してて、やめたいと思ってるのかも。たぶん、まともな人な気がする」
 なにか訊ねたいときは、ハシさんを頼ってみよう。丁寧な答えが期待できそうだから。
 で。最後は竹蔵だ。
「ああ……一番わけわかんなそう。でも女子の恰好してるから、気軽にしゃべりかけてしまいそうで、おっかないんだよなあ」
 なにせわたしを見て、遊郭に高値でとか言っていたくらいなのだ。要注意人物であることは間違いない。にしても、遊郭ってなんだっけ。キャバクラみたいなとこだっけ?
「たしかそうだよ。キャバクラだ」
 よし、決定したぞ。雨市には礼を言って、竹蔵はなるべく避け、今後困ったときはハシさんに教えてもらうことにしよう。
 それにしても、ココは誰の家なのだ? 三人の家なのか、それともそのうちのひとりの家なのか。一緒に住んでるのか、遊びに来てるだけなのか。まったくもって謎。
 どっちにしても、もとの世界に帰れるまでは、腹をくくって生活するしかない。だとすれば、わたしの住処はココってことだ。だったら、タダで世話になるのは気がひける。かといってわたしには、渡せるお金もない。
 寺の娘としては、できれば地獄の入り口で暮らしてる人たちに、借りをつくるのだけは避けたい。
「あっ、そっか! 炊事洗濯家事全般ならできるじゃん」
 なんでなのかはわからないが、文化的に古いところみたいなので、覚えることは多そうだけど、そんくらいならわたしにも可能だ。
 その代わりに、寝るところと食べ物をもらうとなれば、プラマイゼロってことになるのでは?
 なるね。これも決定だ。よし、腹をくくったらすっきりしてきた。学校とかどうしようみたいな心配は、戻ってからすることにしておこう。じゃないと考えすぎて、マジで発狂しそうになるから。
 腕立て伏せをやめて、立ち上がる。大きく深呼吸をしてから、ひととおり部屋を見まわしてみた。闇に目が慣れてきて、周囲の輪郭が映る。
 ベッドのほかにあるのは簞笥。広さは六帖ってところだろう。カーテンのすき間から光が射し込んでいたので、近づいてのぞき込む。同時に心臓が破裂しそうなほどの、衝撃を受けてしまった。
 満月のクレーターがわかるほど、月が近くて大きい。
 わたしがここに着いたとき、夕暮れっぽい日射しが居間を包んでいたから、朝も夜もちゃんとあるようだ。
 真っ暗闇の空に星はなく、地上にはいっさいの光がない。月明りに照らされて、てかてかと光る瓦屋根の家と、どっしりとした石造りの建物が隣接している。さらにそのずっと向こうには、丸みを帯びた風情ただようフォルムの屋根が、いくつも突き出ているこの光景。
「……よし、やっぱり現代日本じゃない、っと」
 心臓に悪いので、さっさとカーテンを閉じる。もう一度眠ろうとしたものの、トイレに行きたくなってきた。でも、待てよ。どうしよう、トイレとか無かったら……。
「……朝も夜もあるんだから、トイレだってある。きっとお風呂だってあるよ、絶対に!」
 そう信じて静かにドアを開ける。暗い。全神経を手と足先に集めて壁をつたい歩き、なんとか手すりにつかまり、コソ泥みたいにそろそろと階段を下りる。下りた先は玄関だ。
 玄関に近いステンドグラスのはまったドアを開けようとしたけど、開かない。あきらめてほの暗い廊下を歩き、居間のドアの反対側に位置している引き戸に手をかけた、その直後。
「なにしてる」
「うおぉっ」
 猫背気味にそろりと振り返ったら、雨市が居間のドアを開けて立っていた。
「び、びっくりした。トイレはどこかなと、思ったもんで」
「……出たな、外来語が。物音がすると思えば、おまえか。といれ、ってのはなんだ?」
「お手洗い……お便所のことだよ」
 ドアにもたれた雨市は、寝間着らしき着物姿だ。袖の中から煙草を取り出すと、口にくわえてマッチをすった。煙草をくわえた雨市が「そこだ」と指したのは、あのトンネルに通じていたドアだった。
「え。ココ?」
「そこだ」
「でもさ、ココってトンネルだったよね?」
「そういうふうにしちまったんだよ、俺が。おかげでどうやって帰って来たのか、役所で嘘つくはめになっちまった」
 そういえばハシさんにも、役所がどうとかって言っていたような。
 うっそ、役所もあるってこと? いや、やめよう、雨市に訊いてもスルーされるし、勝手に想像したところで答えは出ないんだから。
「……なんかさ、わけわかんないんだけどね。いろいろ。まあ、いいんだけど」
 よくもないんだけど。
「そうだろうな。明日ハシさんにいろいろ訊け。ハシさんならうまいこと教えてやれるからよ」
 にやっと笑って片手を袖の中に入れ、雨市はさもおいしそうに、煙草の煙をすうっと吐いた。身近に煙草を吸う人がいないから、その様子が不思議でたまらない。
「……おいしいの、それ」
 腕を組んだ両手を袖に入れた雨市は、くわえたまま答える。
「ああ、うめえよ」
 健康に悪いと苦言をていしたところで、死んでるんだから関係ないか。死んでるのに煙草を吸ってるなんて、なんかもう、なにもかもが奇妙すぎるよ。
「さっさと、といれ、で小便して眠れ」
 雨市がドアを閉めようとする。とたんに、お礼を告げてなかったことを思い出した。
「ああっと、ちょっと!」
「なんだよ」
 袖の中から灰皿を出して灰を落としながら、雨市は面倒そうに顔をしかめた。しっかし着物の袖から、いろんなモノを出すよなあ。
「あのさ。わたし、腹くくることにしたんだよね」
「……あ? 腹?」
「うん。でさ、ともかく来ちゃったから、戻るまでは迷惑かけないからさ」
 なに言ってやがんだこいつと言わんばかりに、雨市は眉をひそめる。
「ココが誰の家なのかわかんないけど、わたしはココにお世話になるしかないっぽいじゃん? だからまあ、明日からわたし働くからね。つっても、どっかに通って稼ぐとかじゃなくて、掃除とか洗濯とかできそうなことやるよ。一応居候の身だしさ。ってことで」
 ぴしっと立って、両の脇をぐっとしめる。
「これからお世話になります! あと、どーもありがとうございました!」
 深々と頭を下げた。どうにも最後のお礼が、トレーナーに対する体育会系のノリになってしまった。長年の習慣、おそるべし。
「……なんだそりゃ」
 お気に召さなかったのか。顔を上げると、苦笑する雨市と目が合う。
「働くってのはいいぜ。こっちも助かる。ハシさんに頼みっぱなしだったからな。けどよ、べつに礼を言われる筋はねえよ。おまえは俺に引っ張られて来ちまったんだ。まあ、しつこかったってのもあるけどよ。それに」
 灰皿に灰を落としつつ、雨市は居間をあごでしゃくった。
「迷惑はもうかけられてるぜ」
 は? そろりそろりと雨市に近づき、居間をのぞく。床の上に布団が敷かれてあった。これはアレか。もしかして。
「あ! わたしがあんたの寝床で寝ちゃったんだ」
「だな。いきなりぶっ倒れたもんだから、竹蔵がちょっかい出すと面倒だし、俺があそこまで運んだっつうわけだ。いいからあそこ使え」
 がりがりと頭をかいて、雨市はあくびをする。死人も寝るんだ。しかもあくびまでしてるし。……はあ、ぜんっぜん理解できない。
「いや、いいよ。わたしがそこに寝るよ。だから雨市……さんは」
 礼節を重んじるべくさん付けしたら、雨市はへっ、と笑った。
「気味悪りいっつっただろ、雨市でいいって。なんだよ、あそこじゃ眠れねえのか?」
「いや、そうじゃなくて。借りとかつくりたくないんだよ。なるべく面倒とか迷惑とかかけたくないからさ。己の身は己で守るし、竹蔵……さんがどーゆう人かはわかんないけど、キャバクラに売られないように対策は自分でちゃんとたてるから」
「きゃば?」
 困惑顔の雨市に、
「ゆーかく、とか言うとこだよ。ともかくさ、てなわけで、己のことは己でなんとかするってこと。ただ、ありがとうってのは言っとこうと思っただけ」
 そう答えると、雨市は思いきり眉根を寄せてわたしを見た。なんだ?
「なによ」
「……なんつーかなあ」
 苦笑いでうつむくと、
「面倒とか迷惑とか、まあどうでもいいけどよ」
 吸い殻を灰皿に押し付ける。
「あの穴蔵で、おまえをほっぽり出してもよかったんだぜ? けど、袖触りあうもなにかの縁ってやつだ。ココに連れて来たのは俺だし、俺がそう決めたことだ」
「……はあ」
「互いに関わるはめになっちまったんだ。なら、迷惑かけるとかかけねえとか、どうでもいいってハナシだ。そうやっていちいち気遣いしてたら、疲れちまうだろ。おまえ、娑婆でもそうやって生きてんのか? 一緒に暮らしてる家族がいるだろ」
「いる、けど?」
「家族に迷惑かけねえようにしてんのか?」
 小学生のときから、わたしはひとりのことが多かったから、強くたくましく、なんでも自分でできるようにって心がけてきた。だってわたしがしっかりしていないと、あの寺ほんとに傾きそうだし。
「……いや、べつにそういうわけでもないけど。でも、自分でできることはなんでもしたほうがいいじゃん。ていうか、なんでもできるようになってたい、っていうか。ひとりでさ」
「ああ、そうか。嫁にはいかねえで、ひとりで生きるつってたもんな。なるほどな」
 くっと笑みを噛みしめつつ、雨市はドアノブに手をかけた。
「いいからあそこ使え。娘のくせに借りとかぐちゃぐちゃぬかすな。ツラに似合わずかわいげがねえな、まったくよ」
 閉める間際につぶやいた。
「色気のねえ娘だぜ」
 ばったん、と閉じられたドアを、わたしは呆然としたまま見入る。その瞬間、なんだかよくわからないもやーっとした重たい感情が、胸の奥にずしりとのしかかってきた。
 なんだこれ。
 腹が立つ……というのとも違う。なんだろ、よくわからない。
 まあいいか。いや、よくない気もする。いや、どっちよ!
「……ええいっ、しょーべん、してやる」
 トイレのドアノブを握りつつ、居間のドアを振り返る。そうしてドアを、にらんでしまった。
 ……色気がないって、なにさ。なんなのさ、それ。

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