弐ノ章
詐欺師、泥棒、殺し屋の過去
其ノ9
セツさんにお礼を告げて一緒に部屋を出ると、階下でハシさんを見かけた。
セツさんは雨市のいる居間に行く。その後ろ姿を見ていて納得した。
動きづらい着物だと、どうしても歩幅の狭い歩き方になってしまうのだ。ていっても、わたしの着物は残念なことにくるぶしで丈だ。たぶん、わたしみたいに身長の高い女子がいないってことだろう。
これがギリの長さなのであきらめよう。そのぶん大股で歩けるし。
「ハシさん、着物とご飯をありがとう。あと、なんでもお手伝いしまっす」
体育会系のノリで宣言したら、ハシさんにものすごく喜ばれた。
引き戸の先が台所で、その奥にも扉があり、開けると土間になっている。煮炊きをする釜はそこにあり、壁にはかっぽう着と、ほうきとちりとりがぶら下がっていた。
ハシさんは、今日も上品なスーツ姿だ。ジャケットを脱いで壁にかけると、ベストとシャツという恰好になり、袖をまくって桶を持って土間におりる。そこからは小さな裏庭が見えて、井戸があった。
井戸で引き上げた水を桶に入れ、土間の壷の中に貯めておくらしい。洗濯は裏庭でして干すのだと、ハシさんが教えてくれた。
「洗濯とかも、ハシさんがやってるんですか?」
井戸の水を引き上げながら訊ねると、ハシさんは品のよい笑い声を上げた。
「わたくしはもともと、こういったことが苦ではないのですよ。養父が良家の執事のようなことをしておりましてね。見よう見真似と言いますか、物心ついたころよりお屋敷のこまごまとしたことなどを、やらせてもらっておりましたから」
「そうなんですか。それであの……ですね。ココってマジで、〝地獄の入り口〟なんですか?」
ハシさんは笑みを浮かべたまま、のんびりと空を見上げた。真っ青な空に、うろこ雲が浮かんでいる。
「人間というものは、なかなかに奥深き存在のようでございまして、おっしゃるとおり、そうですな、ここは〝地獄の入り口〟でございます。けれども、少々問題が起こりまして、わたくしたちは待たされているのです。まさに、ここで」
「待たされてる?」
「はい」
長い話になりそうなのか、ハシさんは土間の入り口に腰を下ろした。穏和な笑顔で手を広げ、自分の隣をわたしにうながす。うながされるままにしゃがむと、ハシさんは語りはじめた。
「……なんと申しますか。ここはまさしく地獄の入り口。ですが、生きている人間の世界と、地下深くにうごめく地獄の世界の、ちょうど中間にあるのです。死んで三途の川を渡るはずが、白い洋装のたいそう美しい方々に誘導されまして、横道にそれ、長い長いトンネルをくぐったら、見えてきたのはまさに、自分の暮らしていた懐かしいまちでございました。けれども少々、どこかおかしい。これから外へ出れば、気づかれるかもしれませんが、いろいろと奇妙なのでございます」
「は、はあ……」
見ていないので、どう奇妙なのかは、なんとも言えない。
「ここは、文明華やかなる帝都でございます。けれどもこのまちは、死んだ者たちの執着で、出来上がっているのです」
「執着?」
ゆっくりと、ハシさんはうなずいた。
「思い出、記憶、まだ生きていたかった、そういった一種の欲が、この世界、この東京をつくって見せておるようです。わたくしたちはその中で、生きていたころのように働いて金銭を手に入れ、食べもすれば銭湯にも行く。酒も飲み、煙草もたしなむ。そうして、年をとることもなく、お迎えを待っています。閻魔大王の前に引き出され、裁判にかけられる日を静かに待っているのです。とはいえ、自分が死んだと悟っている者は、なぜかほんのひと握りでして、死んだとすら思っていない者が、それはもうたくさん、ここには住んでいらっしゃいます。そういった方々は少々記憶が抜け落ちているのか、ここがおかしいとは思っておらず、それはもう普通に、なんの疑問も抱かずに、いきいきと過ごしておいでです」
ということは、セツさんもそうなんだ。
「……う、うーん。わっかるような、わっかんないような感じだけど、ともかく、地獄の入り口ではある、ってことですか」
頭を抱えながら訊くと、まあそうです、とハシさんはさっくり返答した。
「ようするに、その待合室、ということです。裁判待ちの、大きな待合室、でございますな」
「にしても、なんで待たされてるんですか?」
「わたくしも詳しいことは存じ上げないのですが、閻魔大王が裁判で、最後の最後に使用する筆が盗まれてしまったのです。地獄には、それぞれの罪に対応する場所がございます。誰がどこへ向かうのか、罪人の名前をしるす、それはもう大事な、魔力のかかった筆でございまして、その筆がなくなってしまったので、裁判がこのように滞っているのでしょう。その筆を雨市さんと竹蔵さんが、探しておられるのです。その間、わたくしは留守をおおせつかっているわけです。もちろん、雨市さんや竹蔵さんのように、行き来を許されている方がまだいらっしゃいます。そういった方たちは、お役所に願い出るのです。受理されれば年に数回、筆があると思われる場所への行き来がなされます。ツバキさんはまあ、それに出くわしてしまった、ということになりますねえ」
「なるほど……。でもニセモノもあるんですよね?」
「さようでございます。ですから、探すのにもさらに手間取っているわけです」
……はあ。その筆が人間の世界に紛れ込んで、なんでかわからないけどめぐりめぐって、わたしが手に入れてしまった、ということみたいだ。
「……にしても、役所かあ……。役所もあるんですね〜」
「ございます。ただし、働いているのは閻魔大王の宦官かんがんたちでございますから、筆を探したいと名乗り出ても、受理されないこともございます。こちらに戻って来る気のない者も中にはおられますので、いくつか試験のようなものをさせられるそうです。それに通ってはじめて、行き来が許されるのです」
「じゃあさ、そのカンガンたちが行き来して、探したらいいんじゃないの?」
不気味なことに代わりはないけども。
「調査におもむいているのは、宦官たちでございますよ。彼らは昼間も行き来できますから、あちらの世界の骨董屋、雑貨屋、さまざまに探しまわり、それらしきモノを発見すれば、随時報告する。ときには自分たちも手に入れますが、さすがに忍び込まねばならない場合もある。それ以上に、こちらの世界の仕事も山ほどあるらしいので、であればいっそ、たんまりいる罪人に、少々の特権を与えてやらせてはどうか、ということなのでしょう。賞金をぶら下げましてね」
ああっと、そうだ!
「その賞金て、なんなんですか?」
ハシさんがにっこりする。しかしハンサムだ……。笑い皺がたくさんできて、銀幕? 知らないけど、昔の名優スターみたいな迫力がある。
「賞金とはお金や物品ではございません。賞金とは極楽行きの、いわば切符のようなものでございます」
「極楽!?」
「はい。本物の筆を閻魔大王に差し出せば、極楽へ行くことが約束されております。ですが、雨市さんも竹蔵さんも、自分のために探しているわけではございません。そうですなあ」
ハシさんが、膝に肘をついて、頬杖をついた。
「竹蔵さんは、どちらかといえば暇つぶしでございましょう。雨市さんは」
ちょっと背後を気にするように、軽く振り返って、ハシさんは声をひそめた。
「セツさんのためでございます」
彼女のために……、なるほど。遊びまくりみたいだけど、本気の女子には一途みたいだ。雨市、ちょっと見なおしたぞ! と思った瞬間、またもや肋間神経痛がビリッとうずく。
うっ。てか、これ、ホントに神経痛か?
「イテッ。ハ、ハシさん。湿布、とかって、ないすかね?」
「……はあ。シロップ、なるものでございますか? お風邪でも?」
いや、いいです、なんでもないっす。湿布うんぬんよりも、まだまだ訊きたいことは、山のようにある。ともかく、賞金が極楽行き、というのはわかった。それにしても?
「ああっと! ちなみにですね、三人は生きてるころからの、お知り合いで?」
ほほほ、とハシさんは、さも懐かしそうに目を細めた。
「そうですな。そう言ってもよいでしょう。ちょうど同じころ、同じ牢に入れられまして。不思議なことに、なんだか妙に気が合いましてねえ。そのうちに流行病におかされまして、なにしろ始終一緒ですから、三人同時に寝つくようになってしまいました。牢に入れられた罪人が介抱されるわけもなく、病状は悪化する一方。高熱に浮かされていたとき、雨市さんがおっしゃいました」
——〝どのみち、自分らはこの世のクズだ。であれば、たどり着くのは地獄だろう。どうだ、一緒に観光しようじゃないか〟
「洒落たセリフじゃありませんか。わたくしは心から笑いました。とたんに、さまざまなことがおそろしくはなくなりましてね。竹蔵さんも、鬼を騙そうなどといい出す始末で、こときれるまでそんなことをしゃべっては、三人して笑っておりました」
ハシさんは、空を見上げてふふふと笑う。
「まあ、わたくしは、しがない泥棒でございます。竹蔵さんのことは存じ上げてはいませんでしたが、雨市さんのことは、よく新聞で拝見しておりましたから、牢で正体を知ったときは、なんだか天にも昇る心持ちで喜んでしまったものです」
「え? 喜ぶ……て、なんでですか?」
頬杖をついたまま、ハシさんがわたしを見た。
「変幻自在。名前も身分も自由に変える、正体不明の名うての詐欺師。新聞に掲載される似顔絵は、いつも少々違いましたが、とはいえどれも若くて麗しい洒落者の美青年に描かれる。新聞に記事が載るたびに乙女ははしゃいで、殿方は拍手を送ったものでございます。なにを隠そう、わたくしもその中のひとり。ですから、牢で里下さとした雨市という本名を知って、感激したものでございます」
ん? 感激って、詐欺師に、なぜ!?
「い、いやいやいやいや、詐欺師ですよ?」
ハシさんは、にやっとする。頬杖をといて、座りなおす。
「雨市さんが相手にするのは、一般の方ではございません。もちろん、乙女をだなどと、とんでもない。もちろん詐欺は詐欺ですから、褒められたことではございません。けれども雨市さんのそれには、確固たる美学がありました。ですからずいぶん、見逃してもらったこともあるそうです。声を大にしてはいえませんが、警察の中にも応援している者がいたのでしょう」
「……び、美学?」
思いきり顔をしかめてわたしが訊くと、ハシさんはにっこりして答えた。
「雨市さんが相手にしたのは、それこそまさに詐欺師です。女性を騙す詐欺師、ほそぼそと暮らす庶民を騙す詐欺師。そういった詐欺師に、たったひとりであざやかに、別人の顔をまとって報復するのが、里下雨市なる若者だったのでございます」