SEASON3 ACT.35
しゃがむWJに抱きついたわたしの背中に、腕がまわされた。頬に、WJの冷たい頬がくっつく。ふう、と安堵の息をもらしたWJは、わたしの髪をくしゃりとおさえながらいう。
「ぼくはもう、きみにうろうろするなっていうのを、やめることにしたよ」
「あれ? そうなの、どうして? というかわたし、うろうろしたからこんなことになっちゃった、わけじゃないんだけど……」
屋敷で着ぐるみダイブを試していたら、いきなりミスター・マエストロがあらわれたのだ。
「わかってるよ。でもまあ、ぼくがそう決めただけ。きみを捜している間にね。さあ、立って」
立ち上がるWJに、腕を引っ張られる。
「どういうこと?」
WJはわたしを立たせて、
「うーん、うまくいえないけど。うろうろするなっていっても、いまみたいにきみは妙な目にあうし、だったらぼくがそのたびに、きみを助けてあげればいいんだって、思ったからかな」
答えた。サングラスをしているし、そのうえ辺りが暗すぎて、表情はわからないけれど、その口調にはなんとなく、笑みが含まれていた。
「きみにチューインガムをプレゼントするよりも、役に立つプレゼントかもって、考えただけ。だからって、自分から妙なことに首をつっこむ真似は、してほしくないけどね」
もちろんだ! というか、そんなことをした覚えは一度もない。ただし、自覚がないだけで、結果的にそうなっているのかもという疑念は、まあ、残るところではある。
わたしの額をちょんと指で押してから、WJがミス・ホランドに手を差し伸べた。けれども、その手がどことなく所在なげに揺れる。それはWJが、WJともいうべき、照れを見せているせいだ!
「……た、立てますか? ミス・ホランド」
どもらないで! ううーん、きっといま、ちょっと顔が赤いはず。
「……あなたは、元ヒーローの仲間なのではないの?」
おずおずとその手を取ったミス・ホランドが、あっけにとられているような声を出す。
「ええと……。まあ、それを装った、ただの高校生です」
WJはミス・ホランドの手をなんとかつかみ、立ち上がらせた。
「よ、装った、高校生?」
WJが、ドアのすき間から顔を出す。その背後にぴったりくっついたわたしの横で、ミス・ホランドが訊ねた。WJは周囲を見まわしながら、
「……はい。ひとり気絶させてトイレに押し込んだので、彼の衣装を借りただけです。靴はぼくのですけど」
え? とミス・ホランドが絶句すると、WJが振り返る。ドアを軽く閉じてから、わたしに顔を向けていう。
「予想どおり、ここは船だったんだよ、ニコル。それで、困ったことに、陸地までだいぶ離れてるんだ。約二・五マイル。救命ボートを用意している間に、マエストロにバレれそうだから、デッキへ出て、そこからいっきに飛びたいと思うんだけど、一度に二人は無理なんだ。ぼくはきみを先に連れて行きたいんだけど……」
迷っているのだ。WJが、先にわたしを連れて脱出したとして、その間ミス・ホランドだけがここに残されてしまったら? もしもマエストロに、そんな彼女だけが見つかってしまったとしたら? うううーん、きっと彼女は責められるし、それに、ミス・ホランドは装置を動かすことのできる、唯一の人物だ。彼女に対するマエストロの態度が、紳士的ではなくなって、とおってもきつくなってしまうかもしれない。だったらいっそ、なんの役にもたたないわたしが、とりあえずあとに残ったほうがまだしも……な、気がする。
「う。い、いっぱい頼ってごめんね。でも、頼らせてもらう以外に方法がないから訊いちゃうけど、行って、戻ってくるまでに、どのくらいの時間がかかりそうかな?」
「そうだな。高速で飛ぶから、往復で一分あればじゅうぶんかも」
ミス・ホランドが、わたしとWJのやりとりに困惑している。それはそうだろう、事情のわからない人からすれば、奇妙きわまりない会話に聞こえるはずだから。
「じゃあ、ページさんを先に連れて行って! わたしはどこかに隠れて、待ってることにするから!」
声をひそめつつ、けれども熱い決意を秘めた口調でいってみた。眉根を寄せたWJは、一瞬間をおいてからうなずく。
「……デッキに向かう通路に、救命胴衣のおさめられた、わりと大きな箱があったんだ。その中で一分、じっとしててくれる?」
今度はわたしがうなずく番だ。WJは心配そうだったけれど、これがベストなのだという意味を込め、わたしはもう一度、しっかりとうなずいて見せる。すると、ミス・ホランドがいった。
「……おとりこみ中、ごめんなさいね。なにがなにやらさっぱりわからないの。できればなにを使って飛ぶのか、わたしに教えてくれないかしら?」
WJがふたたびドアを開ける。人影はないようだ。WJは頭を通路に出してから、肩越しにミス・ホランドを振り返って、
「……なにも使いません。飛ぶのはぼくです。ミス・ホランド」
口元をにっこりさせる。はあ? とミス・ホランドが声を上げたのは、いうまでもない。
★ ★ ★
アーサーとわたしが無線機でしゃべっていた時、WJは屋敷を飛び出して、セント・ジョン・ブリッジの塔の上から、周囲を見わたし、まずは港へ向かったのだった。
港には停泊している客船が三隻あり、探ってみたものの誰もいない。南東側は、キンケイド・ファミリーが仕切っている区域なので、マエストロとキンケイドのつながりはないはずとふんだWJは、その後、シティの北西側の海岸へ向かう。
シティの西側は、カルロスさんのタウンハウスがあった界隈で、海岸へ出ると、エグゼクティブな方々のための、ヨットハーバーがある。そこから南下していくと、じょじょに断崖絶壁となっていく地形だ。さらに、海の向こうには、州をまたいだべつの街があるので、互いの州を管轄する沿岸警備隊もうろうろしている。
彼らをお金で買収しようにも、別の州の警備隊を巻き込んでの買収は、面倒すぎるため、そういう場所をマエストロは嫌うだろうし、もちろんギャングも避ける。だからこそ、西側の海岸を悪いことに使用できず、キンケイドの仕切っている南東側の港周辺を欲して、ギャングたちがあれこれと、抗争を繰り広げていたわけなのだ。
思案したWJは、ふたたび中心部へ引き返し、クレセント・タワーの上から海を見わたす。そこで、海上に浮かんでいる一隻の船を見つけたのだった。それは大きな船で、シティの北東側、C2Uの見える方角の先に、あった。
お金持ちの人たちは、よく船を借り切ってパーティをする。北東側はそういったことに多く使用される海域なので、シティの沿岸警備隊に許可申請していれば、誰もチェックしたりしないのだ。それに、わたしが連れて来られたこの船は、たぶんミスター・マエストロの所有物。さらに、北東側の海域を監視しているのは、もちろんシティの沿岸警備隊のみで、買収するのが簡単になる。だからマエストロは、沿岸警備隊(の誰か)に、とおってもたくさんのお金を渡して、見逃してもらっている可能性もなくはない。WJはそういった。
そういうことに使うお金は……、もしかしたらヴィンセントから巻き上げたお金なのかも。なんだかドン・ヴィンセントに同情したいような気もして……、いいや、してはいけない、ギャングなのだから!
「マ、マエストロを、やっつけちゃう?」
小さな声で、前を歩くWJに訊いてみる。
「……ぼくもいろいろ学んだんだよ、ニコル。無茶しなくてもいい時は、しない。いまはきみたちを助けるのが先決だし、それにミス・ホランドがいなければ、装置は動かせない、んだよね?」
振り返ってWJがいった。ミス・ホランドがうなずく。
「もちろん、装置は壊さなくちゃ。それはカルロスに相談するし、いますることじゃない。ぼくが力まかせにやれば、なんとかできるだろうけど、そうすればきみもミス・ホランドも、もっと危険なことに巻き込まれてしまうからね。行こう」
階段を上ると、またしても狭い通路に出る。ずいぶん大きな船みたいだ。
左右は白く塗られた鉄の壁。右側には窓がつらなっていて、船尾のデッキへ通じる、鉄柵に囲まれた外の通路が見えた。凪いだ海。その向こうに、青白く染まりはじめた空を背景にして、シティの摩天楼の輪郭が、うっすらと浮かび上がっていた。もうすぐ夜明けなのだ。
左側には、がっしりと閉じられた大きな両面扉。この向こうに、時間を止める装置があるのだろうか?
前を歩くWJが、外の通路へ出られるドアを開けた。その間、わたしとミス・ホランドは、左側の壁にぴったりと背中をつけ、縮こまる。WJがうなずいたので、それを合図に通路へ飛び出す。
潮風が肌寒い。波の音がこだまする中、WJのあとを小走りでついて行く。デッキの手前で足を止めたWJが、そばにある黒い箱に手をかける。かなり大きな木箱で、中に数着の救命胴衣がおさまっていたけれど、ぎゅうぎゅうにすみに寄せれば、わたしひとりはなんとか入れそうだ。
「酸欠にならないように、気をつけて」
WJにいわれて、うなずきながら身体を丸め、箱の中へ入る。これって……なんだか……、ママの手品の手伝いをしているみたいな気分。箱の中に入って、おもちゃの剣で刺されるという類いのマジックの。もっとも、そんな派手なマジックを、ジェローム家が披露したことは、一度もないのだけれども。
「わたしはぜんぜん大丈夫! それよりも、あなたこそ気をつけてね」
箱を閉じられる間際に、WJを見上げていう。WJはすでに、かなり疲れているように感じられた。息もほんの少しだけど荒くて、サングラス越しの眉間は険しい。
この船を捜しあてるまで、さんざんシティを飛びまわったあげく、いまは眼鏡をしていないうえに、サングラスをかけて、暗い船内を動きまわったのだ。視界とは別の五感を使い続けるために、休むことなく集中しているはずなので、疲れがピークに達しているのは間違いない。
ああ、どうしよう、とっても心配だ!
WJはサングラスをはずし、ジャケットのポケットへそれを突っ込む。すると、不安げな表情のミス・ホランドがいった。
「……と、飛ぶって。あなたは、何者なの?」
「これからぼくのすることを、内緒にしていてもらえますか? まあ、できれば」
そして、ミス・ホランドを抱き上げようと……するも、腕がうろうろしはじめる。それを見て、ミス・ホランドがクスッと笑った。
「……なんだかわからないけれど。あなたを信じることにするわ。こうしたいのね?」
ミス・ホランドが、WJの腕を取り、自分の腰へまわさせる。あああ、ああああ! こういう意味でもとっても心配だ! ミス・ホランドには婚約者がいるのだし、焼きもちを焼いている場合ではないけれど、なんだかハラハラしてきて、思わず自分の着ぐるみの指先を噛んでしまう。ううううう!
まだ暗くてよかった。ぜったいにWJは顔を真っ赤にしているはず。箱の中でそんな二人を見上げている、間抜けなわたしに気づいたWJが、静かに箱の蓋を閉めてくれる。まるで生きているのに、棺桶の中へ入れられた人みたいな気分で身体を丸め、むむむとまぶたを閉じてみた。
……WJって、自覚なしで、けっこうなプレイボーイの素質があるような気がする。まあ、わかってはいたけれど、この先わたしは苦労するかも。大人になって、働くようになったら、WJって大人の女性にも、かなりモテそうな気がするのだ! とおってもハンサムだし、黙っていたらワイルドでセクシーみたいな感じなのに、実は照れ屋さんだなんて。そんなの、自分はキュートですと、アピールしているみたいなものだ。
想像するのも、おそろしい。どうしよう、どうやったら、そんな女性たちから、WJを守ることができるのだろうかと考えていたら、ふいに蓋が開けられた。見上げたわたしの顔に、WJの顔が近づく。すると、頬に軽く、キスをされた。
「待っててね」
も・ち・ろ・ん・だ!
「む、無理しないでね!」
ふたたび蓋が閉じられた。でも、今度はうっとりした気分で、にやついた顔で、まぶたを閉じるはめになる。こんなことで嬉しがっている自分も、どうかなって思うけれど、それよりも、ううーん、ううううーん。これからもやっぱり、ぴったりとWJにくっついているようにしないと、女性関係がとっても心配だ。WJが、ではなくて、WJに群がる女性たちが!
★ ★ ★
一分という時間の長さが、無限に感じるのは、通路を走りまわる靴音のせいかも。
救命胴衣にまみれて、箱の中でまんじりともせず、息を殺しているわたしの鼓膜に「いないぞ!」「捜せ!」などという、おっかない声が伝わる。
とってもマズい。わたしとミス・ホランドの不在が、とうとうサングラスチームに、気づかれてしまったようだ。
船から逃げるにはボートが必要になる。わたしとミス・ホランドが協力して、ボートに乗って逃げる手段を取るとしても、そもそも押し込められていたあの部屋のドアには、がっしりと鍵がかかっていたのだ。出るにはあきらかに、第三者の協力が必要となる。
でも、ここは海の上。第三者がボートで、この船に近づいたら、エンジン音ですぐにバレてしまうだろうし、どちらにしても、わたしとミス・ホランドは逃げられないと安心しきっていたからこそ、見張りも手薄になってしまったのだ。そのおかげですんなりと、WJはミス・ホランドを連れて、飛ぶことができたのだけれども。
ただし、困ったことに、まだわたしが残っているのだ!
もうううう! もうちょっとあとで、気づいてくれたらよかったのに!
「どうした?」
どこからともなく、ミスター・マエストロの声がした。どうしよう、どうしよう、いや、どうしようもない。わたしはもこもこの両手で、自分の口を塞ぐ。そこで、もっともおそるべきことが起きた。
右膝に詰めたミルドレッド博士内部の無線機は、スイッチの入った状態だ。それはつまり、連絡相手のタイミングによって、無線機から勝手に声が放たれることを意味する。
息を殺すわたしが入っている箱周辺に、無数の靴音が静かに集まってきてしまった時だ。じりじりとした電波音が、あろうことかわたしの右膝から聞こえてしまい、なんとか右膝をおさえようとして、箱の中でもだえた直後。
『おい、生きてるか!?』
なんて素敵なタイミングだろう。アーサーの声が、こんな時にかぎって、とってもきれいに無線機から発せられてしまったのだった。だから、まあ。
箱の蓋が開けられた。
藍色の空に浮かぶ雲の輪郭が、やわらかいオレンジ色の光を帯びはじめている。その手前に、わたしを見下ろすミスター・マエストロの、にやりとした顔がはっきりと見えた。
「……ほう」
すると、アーサーがまた叫ぶ。
『おい、死んだのか!』
マエストロが、声のする方向へ視線を落す。そしてわたしの右足を、むんずとつかみ上げた。同時にわたしは、心の中でアーサーに返答した。
……うん。生きてるけど、死んじゃうかも! というか、あなたのタイミングの悪さを、いますぐなんとかしたい!
右足首をマエストロにぐっとつかまれ、引っ張られたので、逆さまみたいな恰好で箱から出され、
「うううう、ううううううう!」
ことばにならない声を発していたら、
『おい、どうしたニコル!』とアーサー。
「……きみはなかなか、面白いことをするお嬢さんだな。たいへんけっこう」
足首をぐいっと持ち上げたマエストロが、力いっぱいにわたしの身体を振りまわし、床の上に放った。これこそまさに、ザ・着ぐるみリアルダイブ! とか考えている場合ではないし、背中から床に落ちて、ものすごく……痛い。やっぱりアメフト・ユニフォーム的じゃないと、WJの片腕としてはうまくいかないようだ、などと、考えている場合でもない……、みたいだ。
寝転がってうめくわたしの胸ぐらを、マエストロが持ち上げる。ああ、これってとっても、デジャブだ。遠い昔、これと同じような目にあったような……って、それは駅でのことだし、そしてわたしは本気で死ぬところだったのだ。
マエストロが、ジャケットの内ポケットから、ジャックナイフを出した。わたしの右膝にそれをつきたて、着ぐるみを裂く。中からあらわれたのは、世にも間抜けなウサギのぬいぐるみで、耳をつかんで引っ張り上げたマエストロが苦笑した。
「……きみのお友達、というわけか?」
う。
同時に、アーサーの声がまた放たれる。
『……ずいぶん低い声になったな、ニコル。というよりも、とってもまずいタイミングだったらしいな。……すまない』
ブチッとそこで、電波が途切れた。ええええ、こ、ここで切っちゃうの?
なんとか上半身を起き上がらせてみたけれど、三人のサングラス男が、いまやわたしにピストルを向けて、囲んでいた。
マエストロの背後の、ずっと遠くにあるのは、シティの摩天楼。そのビル群に、黄金色の光が反射する。夜が明けたのだ。
「……奇妙だな。きみたちの使用する周波数は、盗聴していたはずなのだがね」
その無線機は、警察の周波数ですとは、いわないでおこう。
マエストロが、ミルドレッド博士の背中に、ナイフを突き立てた。大変だ、博士の中には無線機のほかに、とっても大切な物質がおさめられているのだ。それがマエストロの手にわたってしまったら、装置を壊せなくなってしまう。あと一回使用したら終わると、ミス・ホランドはいっていたけれど、その一回の前に、ガーゴイル・エンジンなるものを、使用不可能にしてしまわなければ、とってもよろしくないのだ。まあ、どうよろしくないのかは、わたしにわかるはずもないけれど!
「油断のならないお嬢さんだ。ほんとうに楽しい、とてつもなく楽しい」
しゃがんだマエストロが、博士の背中をナイフで裂いた。と、その肩越しに、こちらに向かって直進してくる、猛スピードの黒い点の輪郭が見えた。あ、という間に大きくなって、息をのむひまもない刹那、大きな振動とともに、それは船に着地した。
マエストロが振り返り、サングラスチームがWJにピストルを向けて発砲、する直前に、WJが彼らに向けて両腕を突き出す。瞬間、サングラス男たちの身体も、マエストロも飛ばされる。同時に、マエストロの手から博士が離れて、床に落ちたので、わたしは思いきり滑り込み、博士をつかんで抱きかかえる。そのわたしをさらに抱えたWJは、マエストロたちが起き上がる時間も与えずに、床からジャンプし、鉄柵の上で勢いをつけて蹴り、飛んだ。
ぐっとわたしを抱えたWJは、無言のまま高速で飛ぶ。耳の奥がキーンとする。ぐんぐんと近づくシティの陸地。そしてWJは、わたしを抱えたまま、緑におおわれたクラークパークの、朝露に濡れた芝生の上に、転がるように着地した。う、とWJがうめく。
「ああああ! だ、大丈夫?」
大きく深呼吸をしながら、WJが地面に両手をつく。
「……すごく。疲れているみたいだよ。ともかく、逃げよう」
「ミ、ミス・ホランドは?」
「木陰に、隠れていてって、いったけど……」
声も小さくて、言葉がたどたどしい。起き上がったわたしは、WJの両脇に両腕を入れ、抱え上げようとした、けれども、今度はマエストロが逆襲する番だ。
なにしろ彼も飛べるのだ。そのうえ、WJよりも疲れていない。四つん這いの恰好で、軽々と地面に降り立ったミスター・マエストロが、ゆっくりと立ち上がる。
早朝のクラークパークに、人影はない。マエストロがいつかのように、右手をふらりと揺らしながら近づいて来て、その腕を大きく振りかぶる仕草を見せた。疲労困憊のWJと博士を抱えたまま、マエストロに飛ばされたら、自分がWJの下になって、かばおうと誓いつつ、それ以外にはなす術もなく、わたしはぎゅうっときつくまぶたを閉じる。
誰か、誰か! もうううう、誰でもいいから、通りかかってくれないかな? できたら犬を散歩させているフランクル氏(とってもありえない光景だけど)が!
案の定、思いきり飛ばされる。身体ごと地面に叩きつけられたけれど、自分の誓いどおり、WJの下敷きになれて……よかった。うっ。い、息ができない、かも……。
「ご、ごめん、ニコル」
いいながら、WJが立ち上がろうとする。だけど、苦しげにまぶたを閉じたまま、力尽きたのか、地面の上に横たわってしまった。
マエストロが、ジャケットの中へ手を入れた。とたんに、車のエンジン音が近づいてきたので、地面にうつぶせのまま、わたしは顔を上げてそちらを見た。
WJのブーツには、発信器がしかけられてあるのだ。だから、ミスター・スネイクのバンかもと、期待を込めて目をこらす。けれどもたんなる、黒塗りの乗用車。ただし、その車は、絵に描いたようなギャングスタイル。あれは……、ベンツ? うううーん、車種なんてわたしにはわからない。
その車が、道路を突っ切り、なんとパーク内に猛スピードで突進して来た。急ブレーキとともに車体が停まり、後部座席からひとりの若い男が降りると、有無をいわさず、マエストロに向かって発砲した。
チャコールグレーのスーツ。ラフなブラウンの髪に、瞳はブルー。優しげな笑みがよく似合う、とってもハンサムな若いその男に、わたしは確実に見覚えがあるはず。だけどどこで見たのか……と思って、思いあたり、ぎょっとした。
「よくも父と我がファミリーを騙したな、ミスター・マエストロ」
男はマエストロしか見ていない。発砲する手を止めずに叫ぶと、マエストロがにやりとした。ピストルの弾をありえない技でかわしながら、
「……なるほど。ドン・ヴィンセントの次男坊、マノロ・ヴィンセントの登場、というわけかな?」
マ・ノ・ロ、ヴ・ィ・ン・セ・ン・ト!!
ZENでわたしを男の子と間違え、さらに窓から突き落とした、まさしく張本人だ。ううう、うううう、わけがわからないけれど、いまだけたぶん、味方みたいだ。おろおろしながら、WJを連れて逃げようとした時、車の窓が開けられて、中からなぜか、どう見てもジョセフ・キンケイドが顔をのぞかせ、半ば呆れているような表情で、ひとさし指を木陰に向けてしめす。逃げろ、ということみたいだ。
ともかく、わけがわからないけれど、マノロとマエストロがやり合っているすきに、わたしはWJを連れて走る! すると、木陰から顔半分を出し、手招きしているミス・ホランドを見つけた。
「ペ、ペ、ページさん!」
「か、彼。一分、一分って、わたしには意味がわからなかったから、てっきり飛ぶって、海へ潜るのだと思っていたの。泳ぎのうまい子なのかなって思って。そうしたらまさか、空を飛んだものだから! わたしったら、ど、ど、どこに逃げたらいいのか、こ、混乱してしまって!」
それはそうだろう、無理もない。
激しい発砲音がこだまし、鳥たちがいっきに空へ舞い上がる。そのうちに、パトカーのサイレン音が発砲音に混じったので、マエストロは飛んで姿を消し、マノロは車に乗り込んで、パークから去ってしまった。
「……な、なん。なんだったんだろ」
まあともかくも、どうやら助かったようだ。
半分昏睡状態のようなWJを抱えたまま、はあ、と大きな息をついて、わたしは木の幹にもたれる。無惨にも背中が裂かれてしまったけれど、ミルドレッド博士は無事だし、ミス・ホランドも船から脱出できたのだ。
わたしの肩に、ぐったりとしているWJの髪がかかる。ぎゅうっと抱きしめたまま、WJの鼻に耳を近づければ、息をしているのでさらにほっとする。すると、ミス・ホランドがいった。
「……彼。もしかして、パンサー? でなければ、あんなこと……」
ミス・ホランドと目が合い、わたしは小さくうなずく。
「デイビッド・キャシディではないのね?」
「……ええと、まあ。いろいろと、ありまして」
ミス・ホランドは、なんとなく合点がいったように表情をゆるませ、微笑んだ。足を投げ出して、ふうっと息をついた時、なにげなくわたしの足の裏を見たミス・ホランドが、首を傾げた。
「……あら、あなたの足の裏に、なにか書かれてるわ」
思い出した。ミスター・マエストロがマジックで、そういえばなにか書いていたのだ。はっとして、左足を持ち上げ、目をこらす。
そこには、十年前の子どもたちの憧れ、ミスター・マエストロのサインがあった。